第三話 決戦前夜



 かかりつけの看護師はもちろん、ラスターも言葉を失い呆気にとられてしまうほど、その光景は凄まじいものだった。
 体中に真っ白の包帯を巻き、添え木をした腕を吊り、パイプベッドの上に腰掛けるテテロ。そんな痛々しい姿とは裏腹に、彼は目の前に用意された病院食を夢中で頬張っている。パン、スープ、粥、ヨーグルト、果物――とにかく何でも手当たり次第に鷲づかみ、怒濤の勢いでその胃袋に収めていく。文字通りあっという間に眼前の食事を平らげ、空になったトレイを押しのけ、おもむろに次のトレイを手に取り、また黙々と食べ始める。横のテーブルに積み上げられた空の食器は、とうに十人前を越えていた。
「……テテロ殿、誰も横取りなどしないのだから、もっとゆっくり食べなさい」
 呆れた声でラスターがたしなめると、テテロはスープを一気飲みした勢いのまま言った。
「ヤダ! 俺、オ腹ガ空キスギテ死ニソウナンダヨ。ズーット飲マズ食ワズデ寝テタンダモン。ソレニ、くろりあハモウ良クナッタンデショ? ダッタラ俺モ早ク元気ニナラナキャ! ネ、次ノ食事ヲ持ッテキテ! ナクナッチャウヨ!」
 そうして話している間にも、テテロはトマト煮をせっせと掻きこみ続ける。看護師は慌てて次の病院食を取りに出ていった。
 まったく、つい今朝まで虫の息で眠り続けていたけが人とは到底思えない。どうやらこの奇跡的な回復を、彼自身は当たり前のように受け止めているようだ。だが実際、彼はクロリアと共に死線を彷徨い続けた。まるでお互いがお互いをつなぎ止めているかのように、今にも断ち切れそうな命の糸を弱々しい手で握りしめて――そして、遂に生き延びた。
 じわりと染み渡る僥倖を噛みしめながら、ラスターはテテロの様子を見守った。
「あの、院長」
 新しい病院食を補充したワゴンを押しながら、先ほどの看護師が廊下からひょっこり顔を出した。
「面会希望の方がいらっしゃっているのですが」
「テテロ殿に? ……今そこに?」
「はい」
 ラスターは看護師に促されるまま病室を出た。そして、面会者の姿を目にとめるや否や――厳格に強ばったその顔を柔らかく綻ばせた。
「いいでしょう。どうぞ」
 そんな廊下でのやりとりが聞こえているのかいないのか、テテロは気にもとめず一心不乱に食べ続けている。ろくに噛みもせず一気に流し込むと、遂に最後の一皿までなくなってしまったことに気がついた。
「らすたー、らすたー! 次ノ食事ハ……」
 顔を上げたテテロは、その視線の先に思いがけないものを見た。
 部屋に入ってきたのはラスターだけではなかった。真っ白い病院着。袖から伸びる手首は、心なしか少し痩せたように見える。透き通るような肌。流れる空色の前髪と、その奥からこちらを見つめる蒼の瞳――。
 彼の唇がそっと開き、呟く。
「テテロ」
 クロリアが微笑みを湛え、そこに立っていた。
 テテロは言葉を失ったまま固まっていた。嗚呼、こういうときに目をこすりたくなる気持ち、わかるな、とぼんやり思った。今まさに目の前にいるというのに信じられない。声を聞いても懐かしさばかりがこみ上げて、実感などまるで起きない。
 呆然として動かないテテロを見て、クロリアは思わず苦笑しながら言った。
「元気そうでよかった」
「おや、わかりますか」
「もちろん。あそこの食器の山。あれ全部テテロが食べたんだろ? 起きた途端にすごい食欲」
 それを聞いて、ラスターも遠慮がちに笑んだ。
「しかしそれはあなたも同じですよ、クロリア殿。元気になって、本当によかった」
 ふと向けられたその言葉が、クロリアの心に静かに染み渡る。胸が熱くなるのをごまかすように、「さすがにこれほどの食欲はないけど」とおどけてみせた。
 そんな会話をどこか遠くに聞きながら、テテロはふと我に返った。
「ソ……ソウ、食事! 看護師サン、新シイノ持ッテキテクレタ? 早クチョウダイ!」
 言われるがままに、看護師が温かいトレイを差し出す。テテロはクロリアたちが見ている前で、何事もなかったように食事を再開した。脇目もふらず、目の前の料理だけを見つめて。
「テテロ」
 再び、優しい声が聞こえた。構わず食べ続ける。
「アルゼンから聞いたんだ。あの後、テテロが俺のことを助けてくれたんだって」
 食べ続ける。夢中になっているふりをして。
「それで、お前までこんなに傷だらけになって……。情けないよ。こんなとき、何から言ったらいいのかわからないんだ。だけど、テテロ」
 下を向いていることを後悔した。もう抑えられない。
「……ありがとう」
 ぽたり。トレイに雫が落ちた。こんなはずじゃなかったのに。元気に笑って会おうと思っていたのに。ぽたり、ぽたり。握りしめていたパンを置いて、乱暴に目をこする。それでも止まらない。止まらない。クロリアの目さえまともに見られない。こんな顔、見せたくない。
 頑なに声を殺しうつむいていたテテロに、何かがふわりと被さった。反射的に顔を上げてしまった。温かく、優しい感触。クロリアがそっと自分を抱きしめていた。
「くろ、りあ……!」
 テテロの心をせき止めていたものが、一斉に決壊した。溢れるままに涙を流した。声を上げて泣いた。力いっぱい縋りついて、彼の名を何度も呼んだ。そのたびにクロリアは、うん、うん、と頷いた。そのささやかな動きすら愛おしくて、伝わってくる体温すら懐かしくて。包み込むような安心感が、とめどなく涙を押し流した。
 クロリアは今、どんな顔をしているんだろう。泣いているだろうか。微笑んでいるだろうか。笑っていてくれたら、嬉しい。永遠にも思えた苦しみを抜け出し、心からの笑顔を取り戻せていたら。そうしたら、この傷ついてぼろぼろになった翼はまた、君を乗せて羽ばたけるから――。



 ノイエン中にサイレンが鳴り響いたのは、それから間もなくのことだった。人々は慌ただしく動き回り、緊張感が空間を支配する。そのサイレンが意味するところを誰もが知っていた。大戦で炎上する世界の中で自分たちが集まる理由は、ただひとつ。
 ――遂に人と竜との、総力を結集した全面衝突が始まるのだ。
 両軍が唱えたこの宣言は、瞬く間に世界中に広まっていった。選ばれた舞台は、世界の中心に開けたサラミア大平原。穏やかな緑が一面に茂り、不可視の精霊が住まうといわれたこの聖なる地は、既に『許されざる者』の業火で余すところなく焼き尽くされていた。かつて平穏の象徴にも例えられた美しい風景は、もはや見る影もない。彼らはその悲痛な大地で、今再び罪を重ねようとしているのだ。
「……何を迷うことがあるでしょう。私たちがこの地に集った意味は、すべてこの日のためにあったのです。皆、出陣の準備を!」
 アルゼンの決断は早かった。諜報員が情報を伝えるや否や、『盾』は一斉に動き出したのである。
 そんな中、彼女もまた、玉座の間で女官たちとともに身支度を進めていた。乳白色のゆったりとしたドレスを身に纏い、刺繍の煌めくヴェールを頭からかけたとき、何者かが扉をノックしてきた。入室を許可したアルゼンは、見るなりそっとその名を呟いた。
「クロリア……」
「お取り込み中、失礼いたします。アルゼン陛下」
 そう言って、後ろにいるテテロともども深々と頭を下げた。見慣れないその様子をみて、アルゼンは可笑しそうに微笑する。
「何を今更、改まっているのです。お二人とも、体の調子は宜しいのですか」
「ウン、俺モくろりあモ随分元気ニナッタヨ! 食事モタクサン食ベタシ、モウバッチリ!」
 元通りの明るい笑顔に安堵し、アルゼンは穏やかな笑みを浮かべた。右袖の破れたロングコートを羽織るクロリアと、三対の翼をたくましく拡げたテテロ。必要最小限の包帯だけを残してすっかり旅人の様相に戻った彼らを見つめ、アルゼンはそっと呟いた。
「……行くのですね」
「ああ。でも、アルゼンたちと一緒に行くことはできない。やらなければならないことがあるんだ」
 アルゼンは驚くこともなく、黙ってクロリアの言葉を待っている。彼の行く先も、その目的も、彼女はとうに知っていた。
「俺にはこの世界を滅ぼす以外にもうひとつ、与えられた力がある。必ずやり遂げてみせる。だからアルゼン……。それまで何とかして、人と竜の全面衝突を食い止めて欲しい」
「無論です。私たちはあなたにすべてを託します。そしてそのために、私たちにできうるすべてのことをすると誓いましょう」
 揺るぎない静かな声でそう告げる。アルゼンはおもむろにクロリアの片手を取り、己の両手でしっとりと包み込んで、長く繊細な睫毛を伏せた。
「あなたの、そしてこの世界の行く先に光のあらんことを――」
 紋章に蝕まれた彼の手に吹き込むように呟く。柔らかな両手をゆっくりと離して、アルゼンは穏やかに微笑んだ。
 クロリアもまた微笑を残し、無言のままテテロの背に乗りこんでノイエンの地を発った。アルゼンが見送る中、彼らは蒼穹の彼方に消えるまで二度と振り返ることはなかった。



 人軍の拠点であるデルテティヌもまた、最後の合戦を前にざわつきを見せていた。軍基地はもちろん一般市民まで、街全体が落ちつきなく異様な緊張感に包まれている。
 しかしそんな地上の騒ぎも地下牢獄までは届かなかった。接触不良の電灯がちらつく独房。絶望的な静けさの中、闇と同化しそうなほどにひっそりと座り込む人影があった。
 両腕は真横に伸ばしたまま壁に縫いつけられ、だらりと投げ出した両足首は鎖で鉄球に繋がれている。身動きひとつしない姿は、まるで死んでいるようでもあった。しかし、時折思い出したようにゆっくりと瞬く目がそれを否定する。電灯の点滅に青白く浮かび上がる肌。呼吸に合わせて僅かに揺れるピアス。何も映し出すことをしない銀の瞳――ジンはうつむいたまま、どれほどとも知れない時間をやり過ごしていた。
 目覚めたときにはこうして繋がれていた。気を失っていたのだろう。何も覚えていない。なぜここにいるのか、誰が連れてきたのか、ここはどこなのか、何もわからない。しかし――そんなことはどうでもいい。
 沈み込んだように暗い独房では、時間の感覚も失われてしまう。今までに二、三度、何者かが食事代わりに点滴の針を刺しに来た。その者に訊くこともできた。だがその必要もなかった。本当に、何もかもが関係のないことのように思えた。自分は牢獄に繋がれ、無意味に生き延びている。ただそれだけだった。
 ジンの眼が再び機械人形のように瞬きをした、そのときだ。
 ガコンという重い音とともに、外からの光が独房に差し込んだ。床に四角く落ちた光を、ひとつの人影が切り取っている。誰なのかを確認するつもりはなかった。誰でも同じことだ。ジンの視線は虚ろに投げ出されたままだった。
「いい眺めね……」
 恍惚とした呟きが聞こえる。しばらくぶりに聞いた人の声。言葉の意味を解釈しようと、なまった思考が無意識のうちにはたらき始める。
 ヒールが何度か床を打ち、カシャンと音を立てて格子が開けられた。そのまま無遠慮に入ってきた女は、ジンの目の前で腰を落として言った。
「こちらを見なさい、落ちぶれた『狩人』さん」
 愚直に、命令通りに動く体。ゆっくりと首をもたげ、ジンは女と向き合った。その顔を見た瞬間、死にかけた意識の中でさえ衝撃を覚えた。目の前で薄い微笑を浮かべているその女は――アルフィレーヌだった。
「あらあら、残念。あんまり吃驚してくれないのね」
 驚愕は表情には表れなかったようだ。心も体もこの暗い澱みの中で、もうほとんど壊死してしまったに違いない。
 ――レディスタのかつての主治医。処刑されたのではなかったのか。それで彼女はあんなにも苦しんでいたというのに。
 鈍い意識に記憶の断片と疑問とが浮かび上がってきたが、それすらもリアリティを持つことなく、脳裏にたゆたうばかりだった。
「ここで私がことのすべてを暴露して、あなたが絶望のどん底にたたき落とされる様を鑑賞したかったのに。おかしくなってしまったのね。放置しすぎちゃったかしら?」
 楽しそうに笑みを浮かべながら、アルフィレーヌはジンの額を指先で軽くつついた。彼はされるがままだった。心底穢らわしいと思ったが、しかしそれすらもどうでもよかった。
「まあいいわ。ここまで来て話さないのも何だし、もしかしたら更に気が狂っておもしろいことになるかもしれないし。説明するわね」
 アルフィレーヌは改めてジンの顔を覗きこみ、ねっとりとした口調で語り出した。
「まず処刑の件だけど、あれは偽装。あの子ったら電話でちょっと演技しただけであっさり信じ込んでくれるんだもの、笑っちゃったわ。これだから簡単に意識も乗っ取られちゃうのよ。……あのね、レッドちゃんの意識をハッキングしていたのも私なの。彼女を生体兵器化させるついでにね、ちょっと神経に細工させてもらって、いつでも自由に操れるようにしておいたの。何のためかは……言わなくてもわかるわよね?」
 そう囁きかけると、アルフィレーヌは長めに伸ばした艶やかな爪をジンの首筋に滑らせた。
「あなたを殺すためよ、ジン。あなたを抹殺するため。だって邪魔だったんだもの。予言に逆らうなんて傲慢なことをして、あろうことか『許されざる御方』までたぶらかして。しかも……しかも、遂には……」
 アルフィレーヌは身を震わせたかと思うと、思いきりジンの首を絞め上げて叫んだ。
「あの方の御命を奪って!」
 爪を食いこませてキリキリと首を絞りながら、彼女は興奮した様子で続ける。
「あの神聖な御方を殺してしまうなんて! 何てことをしてくれたの! あの時、あの方が世界を至福の滅亡に導いてくださるはずだったのに! あと少しだったのに!」
 声を荒げ、首を絞める手にこれでもかと力を加える。ジンの喉がクッと鳴った。アルフィレーヌが両手を離すと、彼は本能的に酸素を求めてむせかえった。苦しげに咳き込み続けるジンを上から見下ろしながら、アルフィレーヌは荒くなった息を懸命に押し殺した。
「……予言は絶対なのよ」
 何とか落ち着きを取り戻そうとしながら、低く呟く。
「神の御意志、絶対不可侵のものなのよ。世界の滅亡も再生も、すべて神がお望みになったこと。私たちは喜んでそれに従うべきなのよ。『許されざる御方』はそのために遣わされた。だから道に迷われているあの方をお助けするために、どんなことでもやったわ。それなのに……」
 まだ呼吸の整わないジンの髪をひっつかみ、頭を壁に押しつける。アルフィレーヌは翡翠色の瞳を爛々と輝かせ、憔悴しきった彼の顔を眺めている。
「あなたは罪人よ。神の御遣いを殺し、世界に混乱を来した史上最悪の犯罪者。そんな重罪を犯したあなたが、独房監禁くらいの仕打ちですむと思う? 終身刑だって足りない。死刑ですら足りないわ。もっと、もっと苦しむのよ。これ以上ないほどに……」
 不気味な笑みを浮かべたまま、彼女は白衣の胸ポケットから何かをつまみ出した。
「これ、何だかわかる?」
 電灯のおぼつかない光に照らされ、ジンの視界の片隅で青白く煌めく先端――注射器の中には無色透明の液体がたっぷりと入っていた。
「無機生命体の種よ。普通は生理食塩水で何倍にも薄めて使うんだけど、それじゃ意味ないから、今回は原液そのまま。ふふ、きっとすごい繁殖力よ。内臓も肉も脳髄も、あっという間に喰らい尽くされちゃうかもね……。そうして生ける屍となったあなたは、我らが人軍の最終兵器、エテルニアの塔の鍵として組み込まれるの。世界を救うつもりだった偽善者が最終兵器の引き金を引くなんて、なかなか滑稽で素敵じゃない?」
 高揚しきった声で、嬉々としながら彼女は語る。自分がどんなにおぞましい目的のために使われようとしているのか、それを知った今も、ジンの眼は虚ろなままだった。
 こんな脅しを受けずとも、既に何もかもが麻痺しているのだ。もうこの身を支配するものは虚無しかない。
 『許されざる者』を討ち、自らの役目を果たしたとき、そこにはなにもなかった。目的を果たした喜びも、大切な人を殺めた悲しみも、後悔も、安堵も、何も。無意味だったのだ。すべてが。
 ――嗚呼、あとはこの女の目を楽しませながら、大量殺戮兵器に取り込まれて無惨な最期を遂げればいい。
 細く煌めく凶器が、ジンの白い首筋にあてがわれた。





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