第二話 曙光



 頬を熱いものが伝う。なぜ泣いているのだろう。
 破滅の螺旋に囚われたすべての生命。力尽きた大地。ひび割れる世界。そう、それらに永遠の安息を与えようとしたのだ。それが自分の役目だった。第二の神託で、その使命をはっきりと確信した。迷うことなど何もなかった。
 ……そのはずだった。
 楽園へと見送った生きとし生けるものたちは、最期の瞬間、誰一人として笑っていなかった。恐怖に顔を歪めていた。怯えていた。泣いていた。叫んでいた。
 ジンの顔。忘れもしない。底知れぬ憎悪に満ち、狂おしいほどに悲しんでいた、あの顔。彼は最後まで運命の誘いに抗った。憐れなほどに抵抗を続け、折れた剣を握りしめ、そして……。
 どうして。
 どうして、こんなことに。
 嗚呼。うたが、きこえる。
 ――許されざる者、二ツ月の年、雷(いかずち)と共に大地に降り立つべし。その者深き刻印の……。
「……リリス? どうかしましたか」
「お目覚めですわ、ラファエル」
 口ずさむのをやめたリリスは、そっとこちらを振り返った。ラファエルがそれに続く。自らの存在すら危うく思えるほど、どこまでも果てしなく続く暗闇。そこでふたりは静かに空中に浮いていた。――そして、自分も。
「おはようございます、クロリアさん」
 いつかの記憶そのままの声を、闇に横たわるクロリアは頭の奥に聞いた。
「俺は……」
 そっと呟く。動かした唇に感触はあったが、意識と肉体とがずれているような奇妙な感覚に囚われる。すべてに現実味がない。何もかも麻痺したように鈍く、残像を残してゆったりと動く。
 ――否、もとよりここは現実世界ではないのだ。ラファエルとリリス、天使と悪魔が存在する、現世の者たちが生み出した思念の世界。そこに漂う自分。
「……そうか、死んだのか」
 自嘲気味に顔を歪める。そう、ジンがこの腹に折れた剣を突き刺した。零時の鐘の音が頭蓋に反響する中、自分は意識を手放したのだ。
 しかし意外なことに、リリスは緩やかに首を振った。
「思念で象られた私たちに、生も死もありませんわ。クロリアさん、あなたもまた同じ。その存在を信じる者がいる限り、私たちは在り続ける」
 それを聞いて、クロリアは渇いた笑いを零した。
「やめてくれよ。それじゃ、ジンが捨て身でずっと追い求めてきたことは、そもそも実現不可能だったってわけだ……。救われないな」
「そう。それだよ、クロリア」
 一息吐いて、ラファエルが本題を切り出す。
「君は自分の役目を放って、こんなところで何をしているんだい? 『許されざる者』として旧世界を無に返し、『聖なる者』として新世界を創り出す。君は次代の神だ。それを自覚してここまでやってきたんだろう?」
 残酷な天使の言葉が、クロリアの中に波紋となって広がる。現実逃避は赦されない。たとえ、自らが現実の世界に存在していなくても。
「……誰も、笑わなかったんだ」
 クロリアはたっぷりと時間を置いてから、ぽつりと落とすように呟いた。
「まるで誰も救われていない。……わかってる、一旦世界を壊すんだから怖くて当たり前だ。でもそうじゃない。その先へ行っても、どこまで行っても……皆の魂が救われる気が、しないんだ」
 口にしながら、透明な涙がまたひとつ流れ落ちていく。
 言葉にして初めてわかった。当然のことだ。神は――予言を下した神は、歴史を幾度となく繰り返すつもりでいるのだから。
 この世界が生まれ変わっても、その先にはまた破滅が待っている。その世界は生まれ変わり、しかしそこでもまた破滅が待ちかまえている。それを永遠に繰り返す。それが予言の意志。それを実行するための最初の手駒の、自分。
「そうだ。リセットするだけなんだ。リセットすれば苦痛は消える。でもそれと一緒にすべてが消える。何もかもなくなる。救済も、安息も……なかったんだ、本当は」
 罪が重くのし掛かってくるのがわかった。運命がこれほどまでに非情だったなんて。そしてその予言を躊躇いもせず実行してしまったなんて。救いなどどこにもありはしないというのに、この手で、無数の命を――。
「……それは、あなたがそう信じていないから」
 唐突な、しかし静かな声に、クロリアはゆっくりと振り返った。
「信じればそうなるのよ。たとえそれが正しくても、間違っていても。自分が何を信じているのか、考えたことがあるかしら?」
 リリスの白く透き通るような手が、クロリアの濡れた頬をそっと滑る。キャラメル色の眼差しが深い蒼の瞳を射抜く。
「クロリアさん、あなたは救いを信じていないんだわ。だってクロリアさん自身が救われていないから。自分自身が救われることを考えないから。それでどうして、みんなのことが救えるかしら?」
「そんな……。俺は一体、どうすれば……」
「自分で考えるのよ。予言は中断されてしまった。運命の歯車を壊してしまったのはあなた。この世界の行く末は、すべてあなたにかかっているわ」
 リリスの柔らかな手が離れる。ラファエルが微笑む。クロリアが待って、と口走る。しかしそれは声にならない。闇が明るく開けていく。伸ばした手が空中を掻く。目映い光に包まれる――。
「忘れないで。信じることを……」



 意識と肉体とがぴったりと合わさった。それを確かに感じた。瞬く瞼。重い体。静かに呼吸する胸――。現実感はまだ、まるでなかったけれど。
「目覚めた……目を覚ましたぞ!」
「まさか、本当なのか!」
「意識が戻りましたよ、ラスターさん!」
「アルゼン様を呼べ!」
「早く! 急いで!」
 辺りの空気がにわかに騒がしく蠢きだす。物音、人の声、薬品の臭い、白い天井。身の回りに溢れる情報を五感で取り込む。
 ――嗚呼。自分は今、生きている。
 ぼんやりとそんなことを実感している間に、見知った人物が病室に飛び込んできた。ベッドの傍に駆け寄ってきたその人を曖昧な視覚で捉える。
「クロリア!」
 焦燥の滲んだ声で呼びかけられ、反射的に目の前の人の名を紡いだ。
「……アルゼン」
「私がわかるのですね? クロリア……」
 嗚呼、と感慨に満ちた溜息を零し、アルゼンはクロリアの手を握りしめた。柔らかい肌の感触。そこに温かな血脈を感じる。いのちの温度。確かな生命の息吹――。
 そのとき、クロリアの心は奈落に突き落とされた。
「……どうして」
 掠れた声で呟く。アルゼンは伏せていた顔を上げ、クロリアの蒼の瞳を見つめた。
「どうして俺を殺さなかった? いくらでも殺せたはずだ。今だって」
 言葉にするごとに、彼の中で何かが膨らんでいく。いてもたってもいられなくなる。次第に荒々しく波打ち、うねるそれは――。
「……クロリア?」
「やめてくれ、その名前で呼ぶのは!」
 思わず知らず大声を上げると、心配そうに覗きこんでいたアルゼンの顔が凍った。
「俺は『許されざる者』だ。この世界を壊した張本人だ。街を潰した。森を燃やした。人も、竜も、みんな殺した! 何もかも滅茶苦茶にしたんだ、この手で!」
 追いつめられていく。もう遅い。取り返しのつかないことをしたのだ。自分の蛮行のひとつひとつが、走馬燈のように脳裏を駆け抜ける。何とおぞましい。自分は化け物だったのだ。本当に、化け物だったのだ。人間と呼ぶには、その業はあまりにも重い――。
「それなのに、どうして生かした? どうしてとどめを刺さなかった? 俺は死ぬべきだった。死ななければならなかったんだ、あの場で!」
 あのとき、ジンの刃がもっと深く刺さっていれば。心臓を貫いていれば。喉笛を断ち切っていれば――自分はもう、この世に帰ってくることはなかったのに。
「殺してくれ! 今すぐ殺してくれ! 早く!」
 クロリアは無意識のうちに目の前のアルゼンの肩を鷲づかみ、揺さぶっていた。耐えられなかった。優しく名前を呼びかける声も、いたわりを込めた眼差しも、手から伝わる温もりも――自分を包み込むものすべてが、どうしようもなく哀しかった。
 取り乱すクロリアをラスターが引き止めようとした、そのときだ。
 衝撃。高い音が響く。クロリアの思考は白くはじけ飛び、空白だけが残った。
 しんと静まりかえった空気。呆然と立ちすくむ人々と、形の良い唇を固く引き結んだアルゼン。あまりにも突然すぎて、状況を把握するのにたっぷり数秒はかかった。――アルゼンが自分の頬を打ったのだと。
「……今すぐ」
 わなわなと震える声を聞きつけ、我に返った。
「今すぐテテロに、ラスターに、あなたの命を救った者すべてに謝りなさい!」
 きつく叩きつけられた言葉に、クロリアはただ呆然とアルゼンを見上げることしかできなかった。
 彼女はおもむろに踵を返し、病室を真ん中で仕切っていたカーテンをそっと開けた。視界に飛び込んできた光景にクロリアは驚愕した。カーテンの向こうにはもうひとつベッドがあった。そこに痛々しい姿で横たわっていたのは。
「テテロ……!」
 眼帯と包帯とで全身を白く覆われ、その隙間から絶え間なく点滴を受け沈黙するテテロを見つめながら、アルゼンは落とすように語った。
「彼は命の危険も顧みず、あなたをここまで運んできました。ラスターは食べるものも食べず、寝る間も惜しんであなたを治療しました。ここにいる医師たちは皆、今にも断ち切れてしまいそうなあなたの命を懸命につなぎ止め続けました」
 静かな病室に、彼女の呟きが降り積もる。
「ある時は息をしなくなり、ある時は脈が限りなく弱くなり。あなたは死線を彷徨い続け、私たちはひとときも気の抜けない夜を送りました。そして今、日の出とともにあなたが目覚めた……」
 アルゼンはそっと振り返った。窓ガラスを通り抜け差し込む陽光に、端麗なその顔が浮かび上がる。すべての感情をない交ぜにしたような深い紅の瞳が煌めく。
「このことが……このことがどれほど尊い奇跡なのか、あなたにはわからないのですか」
 綺麗だと思った。嗚呼、この人はなんて美しいのだろうと。眩しくて涙が溢れそうになる。視界が歪む。
「……でも、俺は」
 あまりにも穢れすぎている。こんなにも世界は美しく、こんなにも命は尊い。けれど、だからこそ。その奇跡をこの身に受けるには、自分はあまりにも罪深すぎる。
 そして、その奇跡をつなぎ止めるだけの希望もない。レディスタを手にかけ、テテロを傷つけ、ジンを絶望させ。大切なものをこれでもかと壊し尽くした今、自分には生きる資格も、希望も、意味も、何もないのに。
 ――なぜ生き延びたのだろう。なぜこんな罪人に、奇跡は舞い降りたのだろう。
 言葉にならないクロリアをじっと見つめていたアルゼンは、ゆっくりと口を開いた。
「あなたのすべきことはなんですか?」
 蒼の眼が見開かれる。
「今ここで死ぬことですか? 生きて報いることですか?」
 紅の瞳と真っ直ぐに向き合う。
「生きる意味も理由も、はじめから誰の上にもありません。けれど皆、それを見つけ信じるのです。罪と孤独を負いながら、それでも懸命に……。私たちはそれができる生き物なのです」
 言の葉は陽光に溶け、そして、彼女は微笑んだ。
「あなたにはまだ、やらなければならないことがあるのでしょう?」
 心の壁を破り、何かがどっと溢れ出した。クロリアは無我夢中でアルゼンに縋りついた。崩れてゆく。胸の内で凝り固まっていたものが、足元すら揺るがしながら。指は痺れ、目は熱く、喉は言葉らしい言葉を紡いでくれない。今まで経験したことのない感情に、まるで自分のすべてが浚われてしまいそうで、どうしようもないほどに打ち震えた。
 堰を切ったように泣きじゃくる彼を、アルゼンはそっと抱きしめた。幼子をあやすように空色の髪を撫でる。言葉などなくても、彼の声は痛いほどに伝わってきた。きっと自分の声も届いている。だから何も言わず、ただ目の前の少年を受け止め続けた。
 すべてを許し、等しく彼らの上に降り注ぐ朝日。久しく忘れていた穏やかな色彩が、そこに広がっていた。





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