第四話 約束



 けたたましくベルが鳴り響く。否応なしに緊張感を煽るその音は、疑いようもなく緊急事態を知らせていた。
 アルフィレーヌはチッと舌打ちをし、荒々しく立ち上がる。ジンの首筋を掠めていた注射針は、今にも皮膚を突き破ろうかというところで離された。しかしジンはそれすらも意に介さない様子で、ただ深くうなだれている。
 苛立ちを隠そうともしない足取りでヒールを踏みならし、アルフィレーヌは壁際の通話機に向かって怒鳴った。
「何!」
「所長、大変です! エテルニアの塔が何者かに襲撃されているようです!」
 部下のせっぱ詰まった声の向こうから、職員たちが慌ただしく動いている様子が伝わってくる。
「はあ? あそこには百も兵を配備しているでしょう? 何やってるのよ一体!」
「現場からの無線がノイズばかりで、こちらも把握が難しいのですが……。敵は遠距離攻撃を行っているようです。しかしその発射場所が特定できないと――」
「この役立たず! ……今から私も現場に向かうわ。それまでに残っている生体兵器を洗いざらい送り込むのよ!」
 返事も待たずに、受話器を力任せに叩きつける。衝撃に耐えられず弾かれた受話器に背を向け、アルフィレーヌは早足で出ていこうとした。地下牢に外からの光が差し込んだ瞬間、ふと我に返り、じっとりとジンの方を振り返る。
「邪魔が入ってごめんなさいね。すぐに戻るから、いい子で待っているのよ」
 幼子をあやすような声音に最大限の侮蔑を含ませ、口角を歪める。厭らしい笑みとともに扉は閉ざされ、独房は再び静けさを取り戻した。
 まるで一瞬の出来事だった。重く沈んだ闇の澱みに、一吹きの嵐が過ぎ去っていったかのようだ。まったく他人事のようだった。首を絞められた感触は今でも残っている。首筋の薄い皮膚にあてがわれた針の鋭さも。だがそれらの、何と切迫感のないことか。まるで生ぬるい悪夢に浸かっているようだ。永遠にたゆたう、深い深い絶望の淵。
 緩やかに錆びついてゆく思考は、しかし再び揺り起こされることとなる。
 独房の扉が開いた。生きる者の気配がする。今日は随分と騒がしい日だ。この世の最果てに、これほど頻繁に人が訪れようとは。
 再び操り人形のように首をもたげたジンは、その視界に信じられない光景をとらえた。
 天使が迎えに来たのかと錯覚した。淡い光が闇を払い、清涼な風が澱みの中を吹き抜ける。久しく触れずにいたその感覚は、現実離れした幻想のようでありながら、ひどく懐かしい。だがそれを知覚した途端、稲妻のような衝撃がジンの体を走り抜ける。
 ――なぜ、ここにいる。
 光の失せた銀色の瞳と真っ直ぐに向き合う、玉のように深い蒼の瞳。形よい唇が言の葉を紡ぐ。
「生きていた……。ジン」
 泣いているような、しかし微笑んでいるような表情を浮かべ、彼はそこにいた。
 ――クロリア。なぜ、お前が、ここにいる?
 極限まで鈍った意識のはるか奥で、得体の知れない何かがざわめき出す。
 クロリアは鉄格子に歩み寄り、そっと紋章に蝕まれた手を延べた。しなやかな指先が触れた錠は、小刻みに震えたかと思うと、高い音とともに弾け飛んだ。
 ゆっくりと鉄格子が開けられる。クロリアはジンの前でひざまずき、その足枷に先ほどと同じように触れた。鉄の枷はやはり同じように弾け、力はそこにとどまることなく、石畳の合間を流れるように伝ってゆく。光を放ちながら迸るそれはジンの両手首に辿り着き、高い音とともに拘束を解放した。
 支えを失ったジンの肢体は、重力に引かれるがまま倒れこむ。クロリアがそれを受け止めようとした、そのときだった。
 肩口に思いがけない力を受け、クロリアの体がバランスを失う。ぐらりと傾く視界。床に叩きつけ、縫いつけられる体。気がついたときにはもう、クロリアはジンに押し倒されていた。
 びっしりと紋章の這う白い喉に両手をかける。手のひらの中で脈動を感じる。沈黙する二人。クロリアは抵抗しなかった。静かにジンを見上げている。ごく自然に、目の前の愛しい人を見つめている。目が離せないのだ。ジンは――泣いていた。
 胸の奥底から突き上げる何かが、壊死しかけた心を揺さぶる。その衝撃は激しい動揺となってジンに襲いかかる。押しとどめようとしても止まらない。
 何もかも終わったのだ。すべて手放した。あとは自分が死ぬだけだった。そのはずだった、のに。
 ――なぜ今更、引き戻そうとする?
 こぼれ散る涙はクロリアの頬を濡らす。首にかけた手に力が入らない。体中が痺れて、震えて、動かない。
 この手で息の根を止めたはずだった。あれほどまでに殺意を覚え、憎んでいた。それなのになぜだろう。今、こんなにも……。
 ジンは今一度、腕に力を込めようとした。だが、遂にそれは叶わなかった。観念したように瞼を伏せる。
 ――二度も、殺せるものか。
 押さえつけていた両の手を浮かせる。クロリアはおもむろに上体を起こし、脱力したジンの体をそっと抱き寄せた。温かい。されるがまま、そんなことを思う。
「二人とも生き延びた。何か大きな力がはたらいているんだ……。ジン。俺たちにはまだ、できることがある」
 噛みしめるように呟くと、クロリアはジンの両肩を掴んで離し、彼と真っ直ぐ向き合った。迷いなく見据える蒼い眼差し。瞳の奥に刻まれた、人ならざる者の証が見える。ひとつは『許されざる者』、そしてもうひとつは――。
「もう一度、力を貸してほしい」
 澱みの中で一度は死んだ心。そこに今、再び小さな火が灯った。



 どこまでも、どこまでも、地平線の彼方まで。重くたれ込める暗雲の下、見渡す限りの焼け野原が広がっている。遙か遠く、連なる山脈のおぼろな影がある他には何もない。かつて青々とした絨毯に覆われていたサラミア大平原は、ひび割れたどす黒い土に死の匂いを漂わせていた。
 そして今、この地に新たな悲劇が刻まれようとしている。雲霞のごとく空を覆い、大地を埋め尽くす。地鳴りのような雄叫びをあげ、憎しみに爛々と瞳を輝かせる。そうして東からじわじわと歩を進めてくるのは、世界中から結集した竜軍である。
 対する西からは、焼け焦げた大地を無感情に踏み砕きながら、無数の戦車が向かってくる。その間をびっしりと埋める歩兵。そして彼らを先導するように空を進む、鋼鉄の翼を携えた少年少女たち。あらゆる戦力を惜しげもなく出し尽くし、人軍は最終決戦に挑むべく死の大地に押し寄せていた。
 間もなく彼らは、世界の中心で相まみえることになるだろう。運命の刻は容赦なく近づいていた。



「見エタ! アレダヨ、くろりあ、じん!」
 翼を羽ばたかせながら、背に乗せた二人に向けてテテロは声を放った。
 デルテティヌ郊外を飛び抜ける彼らの行く手には、天をも貫く巨大な塔が聳えている。あれこそが人軍の最終兵器、エテルニアだ。
 『盾』の諜報員が聞きつけたのは、人と竜の全面戦争の知らせだけにとどまらなかった。その一大事の裏で、人軍が何やら不穏な動きをしていることも嗅ぎつけていたのだ。それがこの建造物である。彼らは全面衝突と見せかけて、この未知の兵器を発動させることが目的なのではないか――それが諜報員の見解だった。
 陽光に煌めき、沈黙したまま佇む塔。オルガンのパイプを無数に束ねたような荘厳な外観は、桁外れの規模を誇る芸術品のようにも見える。あれが一体どのようにして大量殺戮を行うのか、まったく想像がつかないだけに空恐ろしい。
 そして今、塔の麓からはとめどなく粉塵が巻き上がっていた。そこに敵の姿は見あたらない。ただ、どこかから湧いてきた彗星が尾を引きながら縦横無尽に飛び回り、ひとつ、またひとつと立て続けに爆発を起こしているのだ。
 その攻撃が魔術であることは明らかだった。しかし肝心の術者が見つからない。塔の倒壊を招くほどの攻撃ではないが、兵士たちを混乱に陥れるには十分だった。
「うまくやってくれているみたいだな」
 風に靡く髪を押さえながら、クロリアはそう呟いた。
 すべては作戦通りだった。術者は『盾』に所属する獣人たちだ。ラグ湖のほとりにひっそりと住まう彼らは、湖が湛える煌めきと奇跡をその身に受けて育つ。魔術の扱いに長け、小さな体でも、集団でひとつのスペルを紡ぎ出すことで多大な効果をもたらすのだ。姿が見あたらないのは、同時にその身を隠す呪文も発動しているからといったところか。
「ミンナガ邪魔シテクレテルウチニ、一気ニ突破スルヨ。シッカリ掴マッテ!」
 言うが早いか、テテロはふわりと翼を翻し、重力をも凌ぐ速さで急降下を始めた。混乱のさなか、塔の麓めがけて矢のように突き進む。
 だが次の瞬間、彼らは思いがけないものを目にして息を呑んだ。
 獣人たちが見つかった。がむしゃらに撃ちこまれた人軍の弾丸がひとりに当たったのだ。スペルは途絶え、輪になって術を唱える彼らの姿が露わになった。軍人たちが何事か叫んでいる。
 獣人たちは動揺し、怯え、とても呪文を続けることなどできなかった。その小柄でか弱い姿を晒し、傷ついた仲間をかき抱きながら身を震わせている。迫りくる軍人たちを、恐怖に潤んだ大きな瞳で見つめ返す。マシンガンを構える音がした。
 その時だ。
 差し向けられたマシンガンを、次々に光の矢が射抜いた。怯んだ瞬間を見逃すことなく、今度は頭上から何か巨大なものが降ってきた。兵士たちは蜘蛛の子を散らすように飛び退き、直後、地面をも揺るがす音が響いた。彼らがもといた場所には、桁外れの大きさを誇る鉄球が、周りの木々すらなぎ倒し、その身を地面に半分もめりこませていた。
 茫然自失とする兵士たちをよそに、鉄球の向こう側ではクロリアとジンが、同じく放心している獣人たちのもとへと駆けつけていた。ライトアローをしっかと握りしめたクロリアが、手負いの獣人のもとにひざまずき声をかける。
「大丈夫か? 傷は……」
「だいじょぶ、だいじょぶ。あなたのおかげ、たすかった。ありがとう」
 獣人は痛みに苦しみながらも、そう言って微笑んでみせた。今度は彼を抱えていた別の獣人が、真っ直ぐな眼差しで告げる。
「わたしたちのまほう、いたみ、消せる。まだ、たたかえる。あなたたち、はやく」
 クロリアが頷こうとしたそのとき、再び人軍のマシンガンが火を噴き出した。慌ててその場にいた全員が鉄球の影に隠れる。巨大な鉄球が弾丸を跳ね返す音が響き渡る中、獣人たちは歌にも似た言の葉を呟き始めた。するとみるみるうちに、自分たちを鉄球ごと包み込む結界が張られていく。弾丸はその外側でことごとく跳弾した。
 だが安堵を覚えるのも束の間だった。鉄球からするすると元の姿に戻ったテテロが「見テ、アレ!」と叫ぶ。彼の指さす空には絶望的な光景が広がっていた。生体兵器たちだ。鋼鉄の翼を翻し、冷たい瞳でこちらを睨めつけている。その冷酷な視線は、ひ弱な獣人たちにはもはや勝算のないことを物語っていた。
「こんなところで足止めくらってる場合じゃ……」
 クロリアは焦りの滲む顔で、しかしやむを得ずライトアローを握り直す。対の刃を眼前に構えようとしたそのとき、テテロがその腕を掴んで制止した。
「テテロ?」
「イイカラ、二人ハ先ニ行ッテ。ココハ俺タチデ止メル」
 着実にこちらへ向かってくる生体兵器たちをじっと見つめ返しながら呟く彼に、クロリアは思わず目を見開いた。その発言がいかに無茶なことか、言うまでもない。これまでの歩兵団に加え、視界に映る者だけを考えても五十を超えようかという数の生体兵器たちに、この獣人たちとテテロだけで太刀打ちできるはずがないのだ。
「ワカッテル! ダケドヤルシカナイダロ! モウ本当ニ時間ガナインダ。くろりあガ早ク行カナキャ、今度コソ全部、ダメニナッチャウカモシレナインダ!」
 言い返されるよりも早く、テテロは振り返って叫んだ。紅の眼差しから滲み出る必死の思いが、クロリアの胸を揺さぶる。
「クロリア」
 隣で二人の様子を見守っていたジンも、静かな声で諭す。選択肢がないとわかっている上での逡巡は無意味だ。残酷だが、しかしそれは現実だった。
 クロリアがよほど不安そうな顔をしていたのだろう。テテロはふと、張りつめた糸を解くように笑った。
「バーカ、無理ナンテシナイヨ。食イ止メラレナカッタ分ハドンドンソッチニ行クカラナ。頼リスギテ油断スルナヨ?」
 思わずクロリアもそっと破顔した。聞き慣れた、少し調子の外れた相棒の声。場にそぐわない明るいそれを心から愛おしいと思った。胸の中で滲んだ感情は、あっという間に洪水となって押し寄せる。嗚呼、今なのかとクロリアは悟った。
「テテロ」
 呟き、確かめる。テテロが怪訝そうな顔をしてこちらを見上げてくる。その視線を一身に受けながら、一度ゆっくりと瞬きをする。すべてを刻むように。
「ありがとう。行ってくる」
 クロリアは茶色のコートを翻した。意を決し、ジンとともに獣人たちの結界を抜ける。弾丸が追ってくる中、何とか近くの物陰に隠れた。ジンが手榴弾を投げるタイミングを見計らっているとき、クロリアの耳に声が飛び込んできた。
「くろりあッ! オ前……オ前、本当ニ馬鹿ダヨ! ドウシテソンナ顔スルンダヨ! ドウシテ……」
 緋色の瞳を潤ませ、顔を歪めながら結界ごしに叫ぶ。胸が張り裂けそうになるのをごまかすように、がむしゃらに声を張りあげる。
「行ッテクル、ダケジャ許サナイカラナ! 帰ッテコイ。絶対絶対、帰ッテコイ!」
 呪文を唱える獣人たちの声が焦りを帯び始めた。もう結界も長くはもたない。それでもクロリアから目が離せない。食いしばった牙の間から塩辛い液体が入り込んできた。瞬くごとに視界が滲む。
 ごしごしと乱暴に目をこすり、再び顔を上げたそのとき、クロリアが何事か言っているのが見えた。激しい銃声が薄い結界を突き抜けて響く中、必死に聞き取ろうと全神経を集中させる。それでもやはり、声は聞こえない。だが言葉は確かに伝わった。
 ――絶対に、また逢える。
 ジンの手に収まっていた手榴弾が、空高く放り投げられた。人軍のただ中に落下し、再び彼らを散り散りにさせる。混乱の最中、二人はエテルニアの塔に向かって風のように駆け抜けていった。





back main next
Copyright(C) Manaka Yue All rights reserved.

inserted by FC2 system