涙は枯れ、希望は潰え、
それでも、たったひと筋の光を求めて――。







第一話 軋む歯車



「……あなたもここにいましたか、リリス」
 静かな呼びかけに、鐘の余韻に聴き入っていた少女はそっと振り返った。漆黒の翼越しに声の主を見つけ、花が咲いたように微笑う。
「あら、ラファエル。お久しぶりね」
 一面の暗黒を切り取るような純白をまとい、ラファエルは空中に浮かんでいた。尖塔の先に腰掛ける愛らしい悪魔を見つめながら、彼は碧の眼を細め、やるせなく微笑する。
「また随分と嬉しそうですね。こんなものを見て喜ぶなんて、あなたも性が悪い」
「そんな人聞きの悪いことおっしゃらないで。天使であるあなたには、この美学が理解できないだけよ」
 そう言って、リリスは再び視線を真下へと向けた。キャラメル色の瞳に映る惨状。血だまりの中に倒れるクロリアと、その隣で呆然と立ちすくむジンの姿。鐘の鳴りやんだ今、辺りは恐怖を覚えるほどの静寂に包まれている。
「闇の底で繰り広げられる悲劇。めくるめく死と狂気。背徳に染まる彼らの、なんと美しく儚いことか」
 精巧に作られた人形のような顔が綻び、薔薇色の唇から恍惚とした溜息が零れる。ラファエルは彼女の隣で同じように地上を見下ろしながら問いかけた。
「あの紅い髪の少女を操り『許されざる者』を予言へ導いたのも、あなただったんですね」
「あら、私はそんなことしなくってよ」
 リリスはくすくすと、心底可笑しそうに笑った。
「私たちは神託を届ける伝言役にすぎないもの、そのような出過ぎた真似はしないわ。それはあなたが一番よく知っているはずでしょう? ラファエル」
「それを聞いて安心しました」
 ラファエルは胸を撫で下ろして苦笑した。そして改めて、沈黙して伏せったままのクロリアを眺める。
「しかし予想外でしたね。まさかこのような結末を迎えるとは」
「……いいえ。まだよ」
 リリスは静かな、しかしはっきりとした声で呟いた。
「まだ終止符は打たれていないわ。聞こえるでしょう? 今も軋み続ける歯車の音が――」



「じーん! じん、ドコニイルンダヨォ!」
 暗闇の街を、テテロが声を張りあげながら飛び抜けていく。だがそれに答える者はない。放った声は余韻を残し、虚しくかき消えるばかりだ。
 『許されざる者』が君臨したあの日、テテロはアルゼンたちもろとも、その圧倒的な力の前に気を失った。そして目覚めたときにはもう、そこにジンの姿はなかった。クロリアを追って出ていったことは一目瞭然だった。胸をざわつかせる並々ならぬ殺気が、彼が姿を消したあとも、はっきりそこに残っていた。
 ――止めなくては。ジンも、クロリアも。
 ただその一心で、テテロは生き残りの街を手当たり次第に探し回っていた。はらはらと降りそそぐ冷たい雨にも、疲労に悲鳴をあげる翼にも構うことなく、がむしゃらに飛び続ける。
 しかしここにはクロリアたちどころか、人っ子ひとり見あたらない。住民がこの地を見限って離れていったのだろうか、命の気配がまったく感じられなかった。
 諦めて次の街へ向かおうと身を翻した、そのときだ。
 ……血の臭い。
 思わず目を見開いた。鼻を突く嫌な感覚。その根源を探り当てようと、神経を研ぎ澄ませ、辺りを見回す。鼓動を早まらせながら、慎重に街中を探り――そして、その光景を目の当たりにした。
 地面に横たわるクロリア。そしてその傍らに立ち尽くし、そっと自らの首に刃物をあてがうジンの姿を。
 身が凍りつくほどの衝撃の中、震えるテテロの喉は勝手に叫び声を上げようとした。
「ヤメ――」
 言いきるより早く、事は起こった。
 何者かが闇に紛れている。ジンのすぐ背後にいる。何か細長い物を振りあげる。鈍い音。後頭部を強打され、どさりと倒れ伏す。滑り落ちた剣が高い音を響かせ、ジンはそのまま動かなくなった。
 テテロはただ目を見開くばかりだった。頭の中が真っ白になり、思考が追いつかない。一体何が起こったのだろうか。突然すぎる。何もかも。
 彼が我に返るのと、ぐったりとしたジンが担ぎ上げられるのとは、ほぼ同時だった。
「マッ……待テ!」
 その者はこちらを一瞥したかと思うと、背中にある何かを大きく広げた。鉛色に煌めく機械仕掛けの翼――人軍の生体兵器だ。
 テテロが追いつくよりも早く、その者は宙へと舞い上がった。ジンもろとも、あっという間に遙か彼方へ飛び去ってゆく。
 テテロも反射的に翼を広げようとして、突然ハッと立ち止まった。クロリア。彼のことも放ってはおけないのだ。しかしジンもこのままでは危ない。人軍に浚われるのをやすやすと見逃すわけには――。
 彼のわずかな逡巡の間に、生体兵器は暗雲の彼方へと消えていった。
「……ッ、クソォ!」
 自分の無力さを呪いながら、彼は勢いよく振り返った。名前を呼びかけようとして凍りつく。
 クロリアは血溜まりの中に倒れていた。胴が紅く染まっている。もとの美しい少年の姿に戻ったその身は、うつ伏せたままぴくりとも動かない。雨に濡れるその肢体は、今、完全に沈黙していた。



 『許されざる者』の滅びの足音は、その日を境にふっつりと途絶えた。雷鳴も烈火も地震も津波も、それまでのことが嘘のように静まりかえった。荒れ狂う世界が落ち着きを取り戻したとき、生きとし生けるものの心を満たしていた恐怖はぬぐい去られ、しかしすぐに別の感情が彼らを支配した――狂おしいほどの絶望と、憎悪が。
 人々は言った。かつての戦争で悪魔を味方につけていた竜族が、報復のため『許されざる者』を召還したのだと。翼竜が『許されざる者』と一緒にいるのを見た者がいる、間違いない。ならば失われた愛すべき同胞たちのために、我々は復讐を果たさなければならない、と。
 竜たちは言った。人間どもは何の理由もなく我々を殺戮したあげく、『許されざる者』を君臨させたなどというでたらめな濡れ衣を着せようとしている。こんな非道なことが許されるわけがない。無念の死を遂げた家族たちのために、我々は逆襲を果たさなければならない、と。
 こらえようのない激情の矛先は、『許されざる者』ではなく、互いに憎しみの積もり積もった異種族へと向けられたのだ。瞬く間に炎上した世界は、一気に大戦争へとなだれ込んでいった。
 繰り返される歴史を目の当たりにし、ノイエンの空気は張りつめていた。遂に『盾』が動く日が来る――。その緊張は確固たる決意であり、同時にぬぐいきれない恐怖でもあった。
 不安定な空気を切り裂くかのように、それは突然やってきた。竪穴の上からためらうことなくまっすぐに落ちてくる影。その姿を認めたアルゼンは、思わずその名を口走った。
「テテロ!」
 『許されざる者』の君臨の後、クロリアとジンを止めると言って飛び出していってから丸二日。ようやく帰ってきた彼の姿を見て、アルゼンは安堵の表情を浮かべる。だがそれも束の間だった。
 テテロはふらふらと不審な動きをしながら、彼女の目の前に着陸――もとい、倒れこんだ。アルゼンは面食らった。ぐったりとしたその体は、目も当てられないほどに痛めつけられていたのだ。
「テテロ、一体これは……」
 アルゼンが駆け寄り、弱りきった彼のもとにそっとひざまずく。テテロはうつ伏せ、整わないか細い呼吸を繰り返していた。酷使した翼は力なく伏せられたまま一寸も動かない。体中至るところに傷を負っている。その傷口を見てアルゼンはハッとした。弾丸の跡、そして無数の火傷と切り傷。
 ――まさか、人間の町を飛び越えてきたというのか。戦争のさなか、たった一匹で。
 ただごとではない。未知能力竜(アンノウンドラゴン)である彼だからこそ、辛うじて命を落とさずに済んだのだろう。しかしなぜこのような暴挙を――。
「……ある、ぜん」
 テテロが搾りだすように言葉を紡いだ。細められた目を震わせ、縋るように彼女を見つめる。
「ハヤ、ク……くろりあヲ……」
 アルゼンは息を呑んだ。テテロがそっと持ち上げた翼の下――腕の中には、すっかり生気を失ったクロリアが抱きかかえられていたのだ。
「ラスター! ラスターをここへ!」
 はじかれたように振り返り、アルゼンは叫んだ。
 騒然とした空気の中、駆けつけた医師たちにクロリアとテテロが運ばれていく。アルゼンもその後に続いた。次第に増えていく野次馬たちの視線を浴びながら、担架に乗せられた二人は手術室へと吸い込まれていった。
「あとは頼みましたよ」
 焦りを滲ませた声でそう告げると、ラスターが強い眼差しでそれに答える。
「はっ。お任せくださ――」
「ふざけんな!」
 思いがけない大声に遮られ、周囲の者たちが一斉に振り返る。群衆の中からひとりの若い男が現れた。顔に憤怒の色を浮かべ、拳を固く握りしめ、こちらを睨みつけている。
「何なんだよ。そいつは『許されざる者』なんだぞ……。この世界をめちゃくちゃにしやがった張本人なんだぞ!」
 アルゼンの顔に緊張が走る。
「人も竜も、女も子どもも見境なく殺していった奴だ。殺人鬼なんてもんじゃない。化け物だ……人間の姿をした化け物なんだよ! それを助けるだと? 気でも違ったのか? なんでこんな簡単なことがわからねえんだよ!」
 彼の怒声に引きずられるように、声を上げる者が前に出てきた。何人も、何人も、次から次へと、湧いてくるように――。
「その通りだ! 俺の故郷もそいつに消し炭にされたんだ、家族もろとも!」
「みんな死んでいくのに、殺されていくのに、どうして寄りによってその化け物が生き延びるのよ! 殺してよ。今、私の目の前で殺してよ!」
「目を覚ましてください、アルゼン様!」
「殺れ! 殺っちまえ!」
 昂ぶる感情が彼らを突き動かした。誰からともなく手術室に押し寄せてきた。医者や護衛たちが引き止めようとするが、それをすり抜け、押し戻し、猛然と突き進んでくる。彼らの瞳に赤々と燃えるのは、紛れもない殺意――。
 そのときだ。銀色に煌めく何かが風を切り、翻った。群衆のどよめきがぴたりと止んだ。彼らの目の前に突きつけられた長剣、そしてそれを握りしめるのは。
「……彼を、治療します。邪魔はさせません」
 アルゼンの紅の瞳が、いつになく厳しい眼光を放つ。
「侵した過ちを精算し、もとに戻すことはできません。ですが、これから変わることはできます。私はこの世界を救うため、彼が持つ可能性にすべてを賭けます」
 その圧倒的な決意を前に、群衆は声もなく立ちすくむしかなかった。優雅な立ち振る舞いに穏やかな笑顔、民を何よりも愛でる心優しき指導者は、今、見たこともないほどに張りつめていた。
「同志を傷つけることが本意ではありません。しかし、どうしてもあなたがたがクロリアの命を奪うと言うのならば――私はこの剣を振るうことを躊躇いません!」





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