第五話 二ツ月の年



 レディスタの肩が震える。頭から腕の先まであちこちに包帯が巻かれた痛々しい姿で、確かにクロリアはそこにいた。吸いこまれそうなほどに深い蒼の瞳は、まっすぐにレディスタのほうに向けられている。
「レッド、おかえり」
 そう言って彼は、今にも壊れそうな優しい微笑を浮かべた。一歩、また一歩とこちらに踏みだしてくる。レディスタは彼のことを凝視したまま、怯えた顔で必死に叫んだ。
「だめ! クロリア、来ちゃだめだよ!」
「どうして? ずっと会いたかったのに……」
 後ずさりするレディスタに構わず、クロリアはそっと彼女の目の前に佇む。そしておもむろに、彼女の体を柔らかく包みこんだ。思わずレディスタが身を強張らせる。
 ――いけない。離れなければいけないのに。自分の中の『誰か』が、何をしでかすかわからないというのに。
 だが、忌々しい紋章が色濃く刻まれたその腕の力は限りなく優しい。抗えるはずがなかった。それでもせめてもの抵抗として、うわごとのように「だめ、やめて」と繰り返す。
「辛かったね、レッド」
 彼女の必死の言葉を聞いているのかいないのか、クロリアは耳元で囁く。深く傷ついたレディスタにとって、あまりに心地よいその言葉。逃げられない。
「でも、もう大丈夫だ。苦しみも悲しみも痛みも……もうすぐすべてが終わる」
 低く呟かれたその言葉。レディスタの口から短く息が漏れた。今の不穏な響きは、一体――。
「クロリア! 何してやがる、レッドから離れろ!」
 彼らのやり取りに耐えかねたジンが声を荒げた。アルゼンの脇をすり抜け、つかつかと二人に詰め寄る。クロリアはそんな彼を、薄く微笑みながら哀れみにも似た視線で見つめた。
「邪魔をしないでくれないか」
 冷たく言い放った途端、ジンの体が後方に吹き飛ばされた。息を詰めた呻きがそれに続く。突然の出来事に、誰もが呆然と立ちすくんだ。
 前方に差し出されたクロリアの右腕は、未だ魔力の余韻を残していた。滑らかな肌を覆う刻印が不気味な光を帯びている。
「クロリア、何、して……」
 その様子から目を離せないまま、レディスタが魂の抜けたような声で呟いた。『許されざる者』の力を使ったというのか。そんな、そんなはずは――。
 しかしあろうことか、クロリアは何事もなかったように、その顔に変わらぬ微笑を浮かべている。
「余計な真似はしないで。みんなは黙って、ただ流れに身を任せていればいい。それが無限の安寧を得る、一番の近道なんだから」
「何を言ってるの、クロリア!」
「気がついたんだよ、レッド。この世界を救う、たったひとつの方法を」
 泣きそうな声で訴えるレディスタに向けられたのは、屈託のない綺麗な笑顔。彼女の頭の奥で『誰か』の声が鳴り響く。計り知れぬ狂喜に取りつかれた、ぞっとするほど高らかな声が。
 ――待っていた! この日を待っていた!
「どういう、こと……」
 ――さあ、終わらせましょう。この世界を、あるべき道へいざないましょう!
「怖がらなくていいよ」
 クロリアは穏やかな声で囁くと、まるでダンスに誘うかのようにそっとレディスタの手を取った。
 瞬間、彼女の体は片手の指先を取られた状態のまま、まったく動かせなくなった。拘束されている訳でも、押さえつけられている訳でもない。突然の金縛りに、レディスタは恐怖で頭が真っ白になった。
「な、何……!」
「これから君の望みが叶うんだ。レッドだけじゃない、この世界のすべての生き物の願いが。俺はその力を持ってる」
「クロリア、クロリア、お願いだから目を醒まして! ねえ、誰か――」
 思わず言葉の続きを失ってしまった。自分だけではない。ジンやテテロも例外なく、地上に集まってきた『盾』の仲間たち全員が身動きを取れずにいた。
「クロリア! これは一体何のつもりですか!」
 常軌を逸した考えられない出来事に、あのアルゼンさえも声に焦りを滲ませている。そっと彼女らの方を振り返り、クロリアは穏やかな声音で語った。
「喜んで、アルゼン。世界は救われる。生まれ変わるよ。最初からそう決まっていたんだ。何もあがくことはなかった」
「何ですって?」
「みんなにも、ずっと待ち望んでいたものが平等に与えられる。最高の願い――そう、永遠の安らぎだよ。俺の役目はそれを実行すること。そのために俺は生まれてきたんだ」
「何が言いたいのです」
「わからない? じゃあ、俺の本当の名前を教えようか」
 クロリアはにこりと笑って言った。人のものとは思えない端整な笑顔で、人のものとは思えない美しい声で――人のものとは思えない、その言葉を。
「俺の名は『許されざる者』。またの名を『聖なる者』だ」
 凍りついたように静まり返った空間で、まるで彼の周りだけ時間が流れているようだった。クロリアは優雅な足取りで歩いていった。その傍らに、動かないレディスタを引き連れて。
「終焉にして創世。旧世界を滅ぼし、新世界をもたらす者。そして次世界の神――。『許されざる者』と『聖なる者』とは同一だったんだよ。それが予言の真の意味」
 歌うような呟きを後に残しながら向かうのは、ノイエンの地にぽっかりと空いた大穴。底の見えない大空洞が二人の目の前に広がる。
「クロ、リ」
 震える唇は、まともな音を紡いでくれない。頭の奥で『誰か』の叫びが反響し続けている。もうそれを聞いているのも疲れた。熱に浮かされたようにくらくらと揺れる感覚。意識が霞んでくる。
「安心して、レッド。みんな一緒だ。みんなが苦しみの鎖から解放されて、その魂は等しく昇華される」
 ――ああ、クロリアのその笑顔。指先から伝わる温もり。限りない優しさに包まれて、心の底から安心できる。
 レディスタの顔が安らかに緩む。クロリアはそんな彼女を、そっと自らの手前へ導く。崖の縁に立つクロリアと、空中に静止するレディスタ。
 ――これから起こることは、とっても素敵なことなんだね。最高に幸せなこと。みんな一緒。もう何も痛くないんだね。嬉しい、クロリア……。
「俺は一緒に行けないけど、みんながいれば大丈夫だね。……これでお別れだ、レディスタ」
 ――え?
 至福という名の酔いが一気に醒めたレディスタに、彼が囁きかける。
「さようなら。君を一番に、楽園へ招待するよ」
 彼女が最後に見たものは、『神様』の寂しそうな微笑みだった。
 二人の手が音もなく離れる。乱れる紅の髪。重力を思い出したかのように落ちてゆく体。迷うことも、抗うことも、物を思うことさえ許さない速さで。まっすぐに。どこまでも。暗闇の。底へ。クロリアは静かに見届けていた。彼女の姿が見えなくなるまで――。
「さあ、始めよう」
 旋風が巻きおこり、クロリアの全身を包みこんだ。暗雲が空を覆い、稲妻を降らせながら渦を巻く。
 静かに佇む彼の体が、痛々しい音を立てて変形していく。体内で立て続けに爆発が起きているかのようだ。腕が、脚が、胴体が、どす黒くごつごつとした、切っ先の鋭利なおぞましい物体に変わっていく。更にそこへ、何かが寄生植物の如くまとわりつく。背中が不自然に膨れあがったかと思うと、グシャッという音を立てて巨大な翼が出現する。その端麗な顔だけを辛うじて残し、彼の肉体は完全に異形のものに変わり果てた。
 そっと伏せられていた瞼が持ち上がる。瞳の奥で、悪魔の刻印がキラリと光った。
 光と闇の翼を広げ、彼は天高く舞いあがった。嵐を引き連れ、あっという間に遥か彼方へ飛び去ってゆく。『許されざる者』が世に放たれるのを、誰も止めることはできなかった。



「嫌な風ね……。嵐が来そうだわ」
 顔にかかる髪をかき上げながら、農民の女はそう呟いた。彼女と一緒に世間話に花を咲かせていた女たちも、つられて頭上を振り仰ぐ。
「あらやだ、ほんとねえ」
「見てほら、向こうなんてあんなに空が暗いわよ」
「明日はお花の収穫の日なのに、困ったわねえ。畑が滅茶苦茶にされないといいんだけど」
「マール、お天気が悪くなりそうだからそろそろいらっしゃい」
「今行くよ、ママ!」
 次第に強さを増していく生温い風を浴びて、町の住人がひとり、またひとりと家の中に入っていく。少年は大声で返事をしてからも、残りの時間少しでも長く遊ぼうと、再びボールを高く蹴った。
「あ」
 一際強い風が吹きつけた。ボールが勢いよく坂道を転がり落ちていく。一緒に遊んでいた子供たちから、一斉に非難の声が上がった。
「あーあ、何やってるんだよー」
「もうっ、マールの運動オンチ!」
「お前が取りに行けよー」
「わかってるよ、うるさいな!」
 頬をぷうっと膨らませ、少年は坂道を駆け下りていった。木靴を軽く鳴らしながら、ゆるゆると転がり続けるボールを追いかける。
 あと少しで追いつくというとき、ふとボールが動きを止めた。人の足か何かにぶつかったようだ。少年は急いでボールを抱き抱えてから、逆光を浴びるその影を見上げた。
 少年はきょとんとした顔で固まった。見たこともない奇怪なシルエットをした何かが、彼をじっと見下ろしていた。空恐ろしいほどに透き通った蒼の瞳で見つめていた――。
 次の瞬間、目を潰すような眩い閃光が走り、町は忽然と姿を消した。



 村が。町が。森が。湖が。ひとつ、またひとつと消されていく。まるで世界地図を片端から白紙に返していくようなその現象を目の当たりにし、誰もが悟った――『許されざる者』が、降臨したのだと。

《――許されざる者、二ツ月の年、雷(いかずち)と共に大地に降り立つべし。その者深き刻印の業(わざ)にて戦乱を招き、人々を破滅に陥れん。悪魔の術を用い、星々と太陽を奪い去り、世界を滅びの道へと導かん――》

 その頃にはもう、空はどこまでも暗雲で覆いつくされていた。星が、太陽が、月が――あらゆる光が奪われ、惑星は暗黒の世界へと変わり果てた。
 大地を唯一照らしだす光は稲妻だった。絶え間なく轟く雷鳴は、生きとし生けるものすべての正気を失わせる。なぜならそれは、地図上から消し去られる里の断末魔――『許されざる者』の足音そのものなのだから。
 巨大な雷は大地を突き刺し、一瞬にしてすべての命を奪い去る。誰もが苦しむ間もなく死んでいく。そこを更に、紅蓮の炎が余すところなく焼き尽くす。それらが過ぎ去った後にはもう、骨のひとかけらも残らない。
 そしてまたひとつ、町が死んだ。すべてを焼き払ってもなお燃え盛る炎の中を、クロリアはひとり静かに歩いていた。異形の両足が、ザク、ザク、と不気味な音を立てて地面に突き刺さる。向かう先は次なる町。揺れる炎の彼方に、黒くそびえ立つ時計塔が見える。
 その顔を薄く微笑ませたか思うと、背に広がる巨大な翼がひとつ、大きく羽ばたいた。疾風が巻き起こり、取り巻く炎を一瞬にして振り払う。瞬きをする間もなく、奇形の体は空高く舞い上がっていた。
 暗黒の空に描かれる光と闇の尾は、まっすぐに時計塔へと向かっていった。辿りついた途端、彼の体は絞め殺しの木のように尖塔の先にまとわりついた。その力を少しずつ緩め、ゆったりと両翼を揺らしながら眼下の町を一望する。
 その時だ。
 一発の銃声とともに、クロリアの眼前を弾丸が掠めた。何事もなかったかのような顔で、それが飛んできた方向を見下ろす。彼は視線を向けた先から、憎しみに満ちた低い呟きを聞いた。
「降りてこい……化け物め」
 時計台の真下に佇むひとつの影。全身のほとんどを暗闇と同化させ、銀の瞳と緋色のピアスが異様な存在感を放つ、その人物は――。
「ジン」
 微笑を浮かべ、クロリアはその名を呟いた。
 絡みつけていた手足を解き、尖塔をそっと蹴って宙に舞う。ゆっくりと地上に降りていきながら、彼は穏やかな声音で言った。
「そんな怖い顔をしなくても、俺は逃げも隠れもしないよ。いずれは君のことも、この手で楽園へ招待しようと思っていたんだけど」
「黙れ」
 身も凍るような声で突き放されたにも関わらず、クロリアはにっこりと破顔した。足先がそっと地面に触れる。
「俺はお前を殺しにきた。無駄話は必要ない」
「そう?」
 立て続けに銃声が響いた。クロリアの胸に向けて、何のためらいもなく弾丸が撃ちこまれていく。トリガーを引き続けるジンの瞳には、身震いするほどの怒りと憎しみが映りこんでいる。
 しかしクロリアは平然としていた。弾丸は間違いなくすべて彼の胸に当たっている。だがどれも肉を突き破ることはなく、どす黒い表皮に食いこむのがせいぜいだった。
「無駄だよ」
「黙れ」
 目にもとまらぬ早さで弾丸を装填し、ジンはなおも撃ち続ける。この程度のことでは今のクロリアは死なないことなど、彼にもわかっていた。しかし撃たずにはいられなかった。胸の奥からこみ上げる強烈な衝動が彼を突き動かしていた。
 だがそれほどの殺意を叩きつけても、目の前の化け物はなお微笑んでいる。尋常でない不気味さに冷や汗が出た。
「どうして俺を殺したいの? 望む世界はもうすぐそこなのに」
「今更何も望むものか。俺はただ――決別したいだけだ!」
 弾丸の尽きた拳銃をなげうち、腰から剣を引き抜く。一気にクロリアとの距離を縮め剣を振りかぶったが、肩口に斬りこむ直前で動きが止まった。クロリアがその奇形の手で剣を鷲づかみにしたのだ。刃物を素手で握りしめているにも関わらず、その手に血は一滴も浮かんでいない。
 目の前に立ちはだかる怪物を、ジンは鬼の形相で睨みつけた。置かれている状況にそぐわない涼しげな顔が、彼の高ぶった感情に油を注ぐ。
「なぜレディスタを殺した……」
 震える唇から紡がれる、憎悪に満ち満ちた言葉。剣を握りしめる手に一層の力がこもる。
「俺は彼女を愛していた。でも何もできなかった。お前のかけた術のせいで、俺は助けにいくことも叶わなかった。見ているしかなかった」
「そうだったね」
「お前にこの苦しみがわかるか!」
 悲鳴にも似た叫び声が、暗く沈んだ町並みに吸い込まれていく。
「お前も大切な親友だった。好きだった。殺さなければいけない相手なのに、どうしようもなく好きだった……。それなのにお前は裏切ったんだ!」
 激情にわななく彼を、クロリアは冷めた眼差しで見つめている。
「予言を止めさえすれば、すべて白紙に帰る。俺たちもあの頃に戻れる。そう信じていた。だからお前を信じた。心から、信じていたのに……」
 血の滲み出るような切ない声は、震え掠れる。
「だからこの手で葬り去るんだ。お前も、俺も!」
 ――そう、始めから俺たちは死ぬしかなかった。もう戻れない。
 クロリアの拳から剣を引き抜く。絶叫とともに、再びその切っ先をクロリアの首に突き立てる。瞬間、ジンの目の前で刀身は真っ二つに砕けた。無上にも、どす黒い首には傷ひとつついていなかった。
「……君は俺を殺せない。自分でもわかっているんだろ?」
 静かなその声は、復讐劇の幕切れを意味していた。
 絶望的な力の差に、ジンは茫然自失としてうなだれた。彼の右手は、未だ未練がましく折れた剣を握りしめている。為す術のなくなった彼を哀れむような声音で、クロリアは呟く。
「ただ見ていることしかできないのを嘆くなら、それもいい。どのみち、もうすぐ何もかも無に帰るんだ。予言が定めた至上の救いに、君は抗えない」
 『許されざる者』の手が愛おしそうにジンの髪を撫で、頬を滑り、首筋へ到達する。ジンはされるがままに喉を掴まれ、壁に縫いつけられた。虚ろな銀の瞳に映ったのは、限りない優しさに満ちあふれた笑顔。
「さあ、今楽にしてあげるよ。レッドやみんなと同じように……ね」
 腕に力がこもりかけた、その時だった。
「……待ってくれ」
 ジンの喉から、弱々しい声が搾りだされる。
「『クロリア』に殺してほしい。最期に一度だけ、俺の『クロリア』に会いたい……」
 一瞬きょとんとしてから、クロリアはその言葉の意味を察した。仕方がないな、とそっと破顔して瞼を伏せる。
 おぞましい怪物の肉体が、するすると人間の体へと――すらりとした体躯の美少年へと戻っていく。翼は空中にかき消え、ごつごつとした黒い手足は滑らかな肌へと帰っていく。その眼が再び開かれたとき、今までのことがすべて夢だったかのように、クロリアは元の姿のまま立っていた。
 手をジンの首にかけたまま、クロリアはそっと囁きかける。
「これで満足かい? ジ――」
 突然、声が途切れた。
「……ああ、満足だ」
 蒼の瞳が見開かれる。
「これでやっと」
 細い体が震える。
「何もかも」
 開いた唇から血が零れる。
「終わる……」
 ジンは安らかな顔をして、そっと目を閉じた。クロリアの肩を抱きしめ、その腹へ折れた剣をまっすぐに突き刺しながら。
 静寂の降り積もる町に、零時の鐘が鳴り響く。クロリアの体が力なく崩れ落ちる音は、荘厳なその音色にかき消された。握る剣を染めあげる緋色。それと同じ色を溢れさせて沈黙する幼馴染みの姿を、ジンは静かに立ちすくんだまま見つめていた。
 今、世界は二ツ月の年を迎えた。





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