「くろりあ!」 いてもたってもいられない様子で、テテロが病室に飛び込んできた。中にはてきぱきと仕事をこなすラスターと、それを見守るアルゼン、そして裸の胸に包帯を巻いた姿が痛々しい相棒の姿があった。上体を起こした彼の蒼の瞳が、ゆっくりとテテロに向けられる。 「……テテロ」 「くろりあッ、モウ大丈夫ナノ? 熱ハ、ケガハ?」 畳みかけるように問いかける。ラスターは聴診器を耳から外しながら、至って落ち着いた口調で告げた。 「……恐るべき回復力です。まだ完治した訳ではありませんが、もう後遺症の心配もないでしょう」 それを聞いたテテロが、心底安心した様子でへなへなと座り込んだ。しかしラスターは硬い表情のままだ。 「私が入ってきたとき、汗だくでうずくまっているので驚きましたが、特に体調面では問題ないようですな。……何か、悪い夢でも見ましたか」 そう問いかけてみるが、クロリアは変わらず虚ろな眼差しのまま黙りこんでいた。紋章に蝕まれた手で、無意識にシーツを握りしめる。 「……いや、何も」 搾りだすようにそれだけ告げる。うつむいた横顔が前よりもいっそう儚く見えた。何かあっただろうことは一目瞭然だが、精神肉体共に参っている彼から無理に聞きだすこともできない。 ラスターは小さく息をついて、静かにベッドの傍から離れた。暗黙の了解とでも言おうか、今度はアルゼンがゆっくりと歩み寄る。 「……クロリア」 優しく労わるような声音でありながら、アルゼンの表情は真剣だった。 「あなたが疲れていることは充分承知の上で、どうしても今、伝えておかなければならないことがあります。……聞いて頂けますか」 凛とした声がわずかに孕む不穏な響きを、クロリアは聞き逃さなかった。不吉な予感が脳裏をよぎる。アルゼンの紅の唇が開く。 「――先の戦闘の翌日、レディスタさんが失踪しました」 クロリアの目が見開かれた。 「今、何て……」 「いなくなってしまったのです。突然のことで、我々も引き止めることができませんでした」 テテロもラスターも、やりきれない様子でうつむいている。 「レディスタさんの病室に書置きがありました。ごめんなさい……と、一言だけ。仲間を傷つけてしまったことが、よほどショックだったのでしょう。そしてひとりでこの地を出ていった――我々はそのように考えています」 低く語るアルゼンに、クロリアは思いつめた眼差しを向けるばかりだった。 「おそらくデルテティヌ軍は、既に彼女を確保しているでしょう」 むごいことを言っているとは自覚しつつも、アルゼンはクロリアの瞳を見据えて語り続ける。 「人軍が彼女を放っておくとは思えません。悲しいことですが、事実です。こちらからはジンさんに、レディスタさんの奪還をお願いしました。今頃はデルテティヌで作業に当たってくれているはずです」 「そう……ですか」 クロリアはそっと目を背けた。アルゼンとラスターは内心、彼の冷静な態度を不思議に思っていた。レディスタに身の危険が迫っているとあらば、彼は取り乱してでも助けに行こうとするだろう――そう考えていた。 重い沈黙に耐えかねて、テテロは必死にクロリアを励ました。 「じんヲ信ジヨウ、くろりあ。じんナラキット、れっどヲ連レ戻シテクレルヨ。大丈夫ダヨ」 「もう……」 ふとクロリアの唇が小さく動いて、静かに言葉を紡いだ。指どおりのよさそうな空色の髪。その前髪が彼の表情をそっと隠す。 「……もう、いいんだ」 テテロが人知れず息を呑んだ。 いつか聞いたことのある言葉。それが今、再び彼の唇から零れた。しかもそのとき以上の、底知れぬ深みと重みを持って――。 星屑の微かな瞬きをことごとく奪い去り、暗闇の中でただひとつ輝く月。その明るい光が、デルテティヌの町を青白く浮かび上がらせる。 そんな中一層の不気味さをかもし出す、城のような大きな建物があった。豪奢な外観を誇るそれは、生体兵器隔離棟――生ける大量破壊兵器の少年少女たちが何千と暮らす場所だ。 そんな重要施設にどうしてこんなにも簡単に侵入できるのか、ジンは不思議でならなかった。もちろん堂々と正面玄関から入ってきた訳ではないが、最高機密そのものと言える施設にしては、明らかにセキュリティ不足だ。逆に嫌な予感すら覚えながら、ジンは先を急いだ。顔面を覆う黒のマスクに息を潜め、漆黒のマントをたなびかせながら、音もなく通路を駆け抜けていく。 目指すべき場所はわかっている。施設の一番端に位置する、特に不安定で危険とされる生体兵器のための特別収容区画。そこにレディスタはいる。 まもなく目当ての部屋を見つけ、ジンはそっと近くの物陰へ身を寄せた。水を打ったように、物音ひとつしない廊下。辺りに人の気配がないことを確かめ、そっとドアの方へ歩み寄る。 用心深くドアをノックする。しかし部屋の中は無反応だ。周りの様子を窺いながら、今度は少し強めに叩いてみる。それでもやはり応答はない。 「……?」 不思議に思って取っ手に手を掛けると、ドアは施錠されていなかった。中に誰もいないのかと思ったが、それならばなぜ鍵もかけずに――怪訝に思いながらも、ゆっくりと慎重に扉を開く。 暗闇の中に浮かび上がったその光景に、ジンは息を呑んだ。 一筋の月光が降り注ぐ、灯りの消えた部屋。その中で物憂げに佇む人影があった。レディスタだ。白いシャツを無造作にまとい、素肌を月光に浮かび上がらせるその姿は、心臓が止まるほどに妖艶だった。 彼女の手には、睡眠薬と思わしき錠剤の詰まった薬瓶。それをそっと口元へ掲げ、傾ける――一気に飲み干そうとしている。 「レッド!」 我を忘れてジンは飛び出した。目にも留まらぬ速さで、レディスタの手から瓶を叩き落とす。 ガラスの砕け散る音。錠剤がそこら中に撒き散らされる。衝撃でレディスタの体が傾く。乱れる紅の髪。ジンが咄嗟にその胸ぐらを掴み、引き戻す。 レディスタを見下ろす眼差しには、明らかな戸惑いと怒りが満ちていた。 「何のつもりだ、お前……!」 沈黙するレディスタ。だが次の瞬間、ジンはあり得ないものを目の当たりにした。信じられない。彼女の口元――笑っている。 「止めてくれて、ありがとうね」 不気味なほど冷静な声。 「これで私……あなたを殺せる!」 レディスタの右腕がジンの喉元めがけて飛んできた。反射的に身を引く。眼前を銀の刃が通り過ぎる。 今度は不安定になった足元を狙い、鋼鉄に蝕まれた左足を振り払う。ジンは咄嗟に床に手をつき、身を翻して避ける。 レディスタの攻撃は容赦なく続いた。楽しそうな笑い声が部屋中に響く。 「ねえ、私、あなたにもう一度会いに行くつもりだったのよ。それなのに、あなたの方から殺されに来てくれるなんて!」 嬉々とした声でそう叫びながら、彼女は右腕を勢いよく突き出した。刃がジンの耳元を掠める。漆黒のマスクがはらりと剥がれ落ちる。 レディスタと距離を置きながら、ジンはマントを剥ぎ、ホルダーから銃を取り出した。長い息をつき、気持ちを静める。その様子を眺めながら彼女は言った。 「強がっちゃって。そんなもの出しても、あなたは私を傷つけられないんでしょ?」 頬を一筋、冷たい汗が伝う。狂気に満ちたその笑顔を見つめ、ジンは低く呟いた。 「貴様……何者だ」 「なあに、突然。そんな怖い顔しないでよ。いつもみたいに優しくして。ねえ……」 甘えた声で囁きながら、ゆっくりと歩み寄る。誘うような微笑を浮かべて迫ってくる。後ずさっていたジンの背中が壁に当たる。握り締めた拳銃は下を向いたままだ。追い詰めた彼の目の前で歩みを止め、レディスタはにっこりと笑った。 「ほら、やっぱり撃てない」 彼女が右腕を眼前に掲げる。滑らかな刃が月光を浴び、銀色の光を放つ。その向こうで満足そうに煌く、金色の瞳。 「さようなら、お邪魔な『狩人』さん」 静かな部屋に響いた、身の震えるような音。 それは、彼女の刃がジンの喉を突き破った音。 ――そのはずだった。 ジンは呼吸も忘れ、目の前のレディスタを凝視していた。 右腕はジンの喉元を間一髪で反れ、すぐ横の壁にぐさりと突き刺さっていた。今にも首筋に触れそうになるそれを、左腕で必死に押し留めている。 「だ、め……」 うつむくレディスタの喉から搾り出された声。 「逃げて……逃げて、ジン……」 がくがくと震えながら、彼女は顔をゆっくりと上げた。恐怖に慄き、絶望に打ちひしがれ、それでもまだ、目の前の人を必死に守ろうとしている顔。黄金色の瞳に涙をいっぱいに溜めて、唇を微かに震わせて見上げてくる、その――。 「――レディスタ!」 無意識にその名を呟く。胸の奥から熱いものが突き上げる。手のひらから銃が滑り落ちた。首筋が刃をかすめ、滑らかな肌から紅い雫が浮かび上がるのも構わず、ジンは彼女の体を強く掻き抱き、その唇を奪っていた。 突然訪れたぬくもりに、レディスタは右腕を引き抜くこともできないまま硬直していた。見開いた眼から涙が溢れ出す。塩辛い雫が静かに滑り落ち、頬に触れるジンの手をも濡らしていく。 「は……」 どちらからともなく零れる吐息。長く熱い口づけに、レディスタの体から力が抜けていく。それでもジンは彼女を放さなかった。彼女が独りでずっと耐えてきたもの、悲しみも、苦しみも、恐れも痛みもすべて――すべて、吸い取ってしまうかのように。 ジンはそっと唇を離すと、レディスタの頭をぎゅっと抱き抱えた。 「……出ていけ。ここは俺たち二人だけの場所だ」 低く呟かれたその言葉に、レディスタは息を呑んだ。ずっと動かなかった右腕が壁を離れ、重力に任せて力なく下りる。両眼からはらはらと涙を零しながら、弱々しい声で呟いた。 「気付いて……くれた、の……」 「ああ、今わかった。――お前の中に、誰かがいた」 レディスタの体が崩れ落ちる。ジンも彼女を抱いたまま、壁に背を預けて座り込んだ。小さな肩を震わせながら嗚咽を漏らす彼女に、ジンは落とすように呟く。 「あのときも、そうだったんだな」 ジンの胸に顔をうずめ、レディスタはこくんと頷いた。 「避難所から出てきてあれを見たら、頭が真っ白になったの。そしたらいきなり、誰かが私の意識に割り込んできて……私の体をのっとって、勝手に暴走し始めて……。止めようとしたんだけど、できなかった」 潤んだ声で、彼女は続ける。 「誰なのかわからない。でも誰かがいるの。私の中にもうひとり、知らない人が入り込んで……ジンやみんなを、殺そうとするのよ……」 こんなこと、自分でも信じられない。だからましてや、人に信じてもらうことなんてできない。しかし本当のことだ。自分ではどうしようもなかった。だから逃げた。怖かった。じわじわと機械に侵食され、殺戮兵器と化し、見えない誰かに操られて暴走する――自分の意志とは無関係に変貌してしまう、この体が怖かった。 「ごめんなさい。ジン、ごめんなさい……」 「謝って欲しいのは、そんなことじゃない」 静かな怒りのこもった声に、レディスタはハッとした。突然、ジンが乱暴に彼女の肩をつかんで引き離す。驚きに見開かれたその眼をまっすぐに見つめる。 「なぜ、死のうとした」 レディスタの肩が震えた。 「……だって」 「体が兵器になったのも、お前を操って人を傷つけるのも、全部その『誰か』がやったことだ。お前は悪くない」 「……違うの」 「辛いのはわかる。でも、お前が責任を感じて死ぬなんて」 「違うの、ジン!」 悲鳴にも似た声音で叫ぶレディスタに、ジンは面食らった。彼女は自らの胸元を、爪痕が残りそうなほど強く握りしめた。 「私……私、殺したの。殺したのよ」 悲痛な微笑を浮かべ、淡々と、呟くように語られる告白。 「操られたんじゃない、自分の意志でやったの。まだ若い竜の仔……。だってあの仔が死ななければ、私が死んでたのよ。そう思って気がついたときにはもう、喉を刺してた。今でも思い出せるの、あの感触が」 「レッド……」 「それだけじゃないの。アルフィレーヌって先生がいたの、覚えてる? あのね、私のせいでアルフィさん、処刑されたの。私のせいで死んじゃったの。私のせいで殺されたの。私が殺したんだ、そうでしょ?」 「レッド!」 突然、レディスタが声を上げて笑い出した。涙が次から次へと流れ落ちる。 「ねえ、いつの間にこんなになっちゃったんだろうね? みんなのことが大好きだったのに、今じゃみんなのことを傷つけてるの。まるで別人だね! だからねジン、もう気にしなくていいんだよ。忘れていいんだよ。今までの私はもういないの。変わっちゃったんだよ、戻れないんだよ、私はもう生体兵器の」 高い音と共に、言葉が途切れた。ジンが彼女の頬を打っていた。昂った気持ちを押さえつけながら、ジンは泣きはらした彼女の横顔を見つめた。 「……もう」 搾り出すような囁きと共に、再び彼女の体を抱き寄せる。 「もう、いいから」 やっとの思いでそう言って、ジンは唇を噛みしめた。 これ以上、彼女の悲痛な叫びを聴いていられなかった。これほど深く傷ついてしまった彼女に、かけるべき言葉が見つからなかった。だから手を出してしまった。自分の弱さがそうさせた。 それでもせめて――せめて身を寄せ合うことで、痛みを共有できるのなら。彼女のひび割れた心が、少しでも安らぐのなら。 「……ジン」 ひとは、ひとを救えない。 「何」 互いに深く、傷つけあうことしかできない。 「ごめんなさい……」 互いにそれを、舐めあうことしか。 「私を、許して。こんな、こんな……」 けれど、だからこそひとは――。 「……許すよ」 |