第三話 淵の最果て



「くろりあ!」
 いてもたってもいられない様子で、テテロが病室に飛び込んできた。中にはてきぱきと仕事をこなすラスターと、それを見守るアルゼン、そして裸の胸に包帯を巻いた姿が痛々しい相棒の姿があった。上体を起こした彼の蒼の瞳が、ゆっくりとテテロに向けられる。
「……テテロ」
「くろりあッ、モウ大丈夫ナノ? 熱ハ、ケガハ?」
 畳みかけるように問いかける。ラスターは聴診器を耳から外しながら、至って落ち着いた口調で告げた。
「……恐るべき回復力です。まだ完治した訳ではありませんが、もう後遺症の心配もないでしょう」
 それを聞いたテテロが、心底安心した様子でへなへなと座り込んだ。しかしラスターは硬い表情のままだ。
「私が入ってきたとき、汗だくでうずくまっているので驚きましたが、特に体調面では問題ないようですな。……何か、悪い夢でも見ましたか」
 そう問いかけてみるが、クロリアは変わらず虚ろな眼差しのまま黙りこんでいた。紋章に蝕まれた手で、無意識にシーツを握りしめる。
「……いや、何も」
 搾りだすようにそれだけ告げる。うつむいた横顔が前よりもいっそう儚く見えた。何かあっただろうことは一目瞭然だが、精神肉体共に参っている彼から無理に聞きだすこともできない。
 ラスターは小さく息をついて、静かにベッドの傍から離れた。暗黙の了解とでも言おうか、今度はアルゼンがゆっくりと歩み寄る。
「……クロリア」
 優しく労わるような声音でありながら、アルゼンの表情は真剣だった。
「あなたが疲れていることは充分承知の上で、どうしても今、伝えておかなければならないことがあります。……聞いて頂けますか」
 凛とした声がわずかに孕む不穏な響きを、クロリアは聞き逃さなかった。不吉な予感が脳裏をよぎる。アルゼンの紅の唇が開く。
「――先の戦闘の翌日、レディスタさんが失踪しました」
 クロリアの目が見開かれた。
「今、何て……」
「いなくなってしまったのです。突然のことで、我々も引き止めることができませんでした」
 テテロもラスターも、やりきれない様子でうつむいている。
「レディスタさんの病室に書置きがありました。ごめんなさい……と、一言だけ。仲間を傷つけてしまったことが、よほどショックだったのでしょう。そしてひとりでこの地を出ていった――我々はそのように考えています」
 低く語るアルゼンに、クロリアは思いつめた眼差しを向けるばかりだった。
「おそらくデルテティヌ軍は、既に彼女を確保しているでしょう」
 むごいことを言っているとは自覚しつつも、アルゼンはクロリアの瞳を見据えて語り続ける。
「人軍が彼女を放っておくとは思えません。悲しいことですが、事実です。こちらからはジンさんに、レディスタさんの奪還をお願いしました。今頃はデルテティヌで作業に当たってくれているはずです」
「そう……ですか」
 クロリアはそっと目を背けた。アルゼンとラスターは内心、彼の冷静な態度を不思議に思っていた。レディスタに身の危険が迫っているとあらば、彼は取り乱してでも助けに行こうとするだろう――そう考えていた。
 重い沈黙に耐えかねて、テテロは必死にクロリアを励ました。
「じんヲ信ジヨウ、くろりあ。じんナラキット、れっどヲ連レ戻シテクレルヨ。大丈夫ダヨ」
「もう……」
 ふとクロリアの唇が小さく動いて、静かに言葉を紡いだ。指どおりのよさそうな空色の髪。その前髪が彼の表情をそっと隠す。
「……もう、いいんだ」
 テテロが人知れず息を呑んだ。
 いつか聞いたことのある言葉。それが今、再び彼の唇から零れた。しかもそのとき以上の、底知れぬ深みと重みを持って――。



 星屑の微かな瞬きをことごとく奪い去り、暗闇の中でただひとつ輝く月。その明るい光が、デルテティヌの町を青白く浮かび上がらせる。
 そんな中一層の不気味さをかもし出す、城のような大きな建物があった。豪奢な外観を誇るそれは、生体兵器隔離棟――生ける大量破壊兵器の少年少女たちが何千と暮らす場所だ。
 そんな重要施設にどうしてこんなにも簡単に侵入できるのか、ジンは不思議でならなかった。もちろん堂々と正面玄関から入ってきた訳ではないが、最高機密そのものと言える施設にしては、明らかにセキュリティ不足だ。逆に嫌な予感すら覚えながら、ジンは先を急いだ。顔面を覆う黒のマスクに息を潜め、漆黒のマントをたなびかせながら、音もなく通路を駆け抜けていく。
 目指すべき場所はわかっている。施設の一番端に位置する、特に不安定で危険とされる生体兵器のための特別収容区画。そこにレディスタはいる。
 まもなく目当ての部屋を見つけ、ジンはそっと近くの物陰へ身を寄せた。水を打ったように、物音ひとつしない廊下。辺りに人の気配がないことを確かめ、そっとドアの方へ歩み寄る。
 用心深くドアをノックする。しかし部屋の中は無反応だ。周りの様子を窺いながら、今度は少し強めに叩いてみる。それでもやはり応答はない。
「……?」
 不思議に思って取っ手に手を掛けると、ドアは施錠されていなかった。中に誰もいないのかと思ったが、それならばなぜ鍵もかけずに――怪訝に思いながらも、ゆっくりと慎重に扉を開く。
 暗闇の中に浮かび上がったその光景に、ジンは息を呑んだ。
 一筋の月光が降り注ぐ、灯りの消えた部屋。その中で物憂げに佇む人影があった。レディスタだ。白いシャツを無造作にまとい、素肌を月光に浮かび上がらせるその姿は、心臓が止まるほどに妖艶だった。
 彼女の手には、睡眠薬と思わしき錠剤の詰まった薬瓶。それをそっと口元へ掲げ、傾ける――一気に飲み干そうとしている。
「レッド!」
 我を忘れてジンは飛び出した。目にも留まらぬ速さで、レディスタの手から瓶を叩き落とす。
 ガラスの砕け散る音。錠剤がそこら中に撒き散らされる。衝撃でレディスタの体が傾く。乱れる紅の髪。ジンが咄嗟にその胸ぐらを掴み、引き戻す。
 レディスタを見下ろす眼差しには、明らかな戸惑いと怒りが満ちていた。
「何のつもりだ、お前……!」
 沈黙するレディスタ。だが次の瞬間、ジンはあり得ないものを目の当たりにした。信じられない。彼女の口元――笑っている。
「止めてくれて、ありがとうね」
 不気味なほど冷静な声。
「これで私……あなたを殺せる!」
 レディスタの右腕がジンの喉元めがけて飛んできた。反射的に身を引く。眼前を銀の刃が通り過ぎる。
 今度は不安定になった足元を狙い、鋼鉄に蝕まれた左足を振り払う。ジンは咄嗟に床に手をつき、身を翻して避ける。
 レディスタの攻撃は容赦なく続いた。楽しそうな笑い声が部屋中に響く。
「ねえ、私、あなたにもう一度会いに行くつもりだったのよ。それなのに、あなたの方から殺されに来てくれるなんて!」
 嬉々とした声でそう叫びながら、彼女は右腕を勢いよく突き出した。刃がジンの耳元を掠める。漆黒のマスクがはらりと剥がれ落ちる。
 レディスタと距離を置きながら、ジンはマントを剥ぎ、ホルダーから銃を取り出した。長い息をつき、気持ちを静める。その様子を眺めながら彼女は言った。
「強がっちゃって。そんなもの出しても、あなたは私を傷つけられないんでしょ?」
 頬を一筋、冷たい汗が伝う。狂気に満ちたその笑顔を見つめ、ジンは低く呟いた。
「貴様……何者だ」
「なあに、突然。そんな怖い顔しないでよ。いつもみたいに優しくして。ねえ……」
 甘えた声で囁きながら、ゆっくりと歩み寄る。誘うような微笑を浮かべて迫ってくる。後ずさっていたジンの背中が壁に当たる。握り締めた拳銃は下を向いたままだ。追い詰めた彼の目の前で歩みを止め、レディスタはにっこりと笑った。
「ほら、やっぱり撃てない」
 彼女が右腕を眼前に掲げる。滑らかな刃が月光を浴び、銀色の光を放つ。その向こうで満足そうに煌く、金色の瞳。
「さようなら、お邪魔な『狩人』さん」
 静かな部屋に響いた、身の震えるような音。
 それは、彼女の刃がジンの喉を突き破った音。
 ――そのはずだった。
 ジンは呼吸も忘れ、目の前のレディスタを凝視していた。
 右腕はジンの喉元を間一髪で反れ、すぐ横の壁にぐさりと突き刺さっていた。今にも首筋に触れそうになるそれを、左腕で必死に押し留めている。
「だ、め……」
 うつむくレディスタの喉から搾り出された声。
「逃げて……逃げて、ジン……」
 がくがくと震えながら、彼女は顔をゆっくりと上げた。恐怖に慄き、絶望に打ちひしがれ、それでもまだ、目の前の人を必死に守ろうとしている顔。黄金色の瞳に涙をいっぱいに溜めて、唇を微かに震わせて見上げてくる、その――。
「――レディスタ!」
 無意識にその名を呟く。胸の奥から熱いものが突き上げる。手のひらから銃が滑り落ちた。首筋が刃をかすめ、滑らかな肌から紅い雫が浮かび上がるのも構わず、ジンは彼女の体を強く掻き抱き、その唇を奪っていた。
 突然訪れたぬくもりに、レディスタは右腕を引き抜くこともできないまま硬直していた。見開いた眼から涙が溢れ出す。塩辛い雫が静かに滑り落ち、頬に触れるジンの手をも濡らしていく。
「は……」
 どちらからともなく零れる吐息。長く熱い口づけに、レディスタの体から力が抜けていく。それでもジンは彼女を放さなかった。彼女が独りでずっと耐えてきたもの、悲しみも、苦しみも、恐れも痛みもすべて――すべて、吸い取ってしまうかのように。
 ジンはそっと唇を離すと、レディスタの頭をぎゅっと抱き抱えた。
「……出ていけ。ここは俺たち二人だけの場所だ」
 低く呟かれたその言葉に、レディスタは息を呑んだ。ずっと動かなかった右腕が壁を離れ、重力に任せて力なく下りる。両眼からはらはらと涙を零しながら、弱々しい声で呟いた。
「気付いて……くれた、の……」
「ああ、今わかった。――お前の中に、誰かがいた」
 レディスタの体が崩れ落ちる。ジンも彼女を抱いたまま、壁に背を預けて座り込んだ。小さな肩を震わせながら嗚咽を漏らす彼女に、ジンは落とすように呟く。
「あのときも、そうだったんだな」
 ジンの胸に顔をうずめ、レディスタはこくんと頷いた。
「避難所から出てきてあれを見たら、頭が真っ白になったの。そしたらいきなり、誰かが私の意識に割り込んできて……私の体をのっとって、勝手に暴走し始めて……。止めようとしたんだけど、できなかった」
 潤んだ声で、彼女は続ける。
「誰なのかわからない。でも誰かがいるの。私の中にもうひとり、知らない人が入り込んで……ジンやみんなを、殺そうとするのよ……」
 こんなこと、自分でも信じられない。だからましてや、人に信じてもらうことなんてできない。しかし本当のことだ。自分ではどうしようもなかった。だから逃げた。怖かった。じわじわと機械に侵食され、殺戮兵器と化し、見えない誰かに操られて暴走する――自分の意志とは無関係に変貌してしまう、この体が怖かった。
「ごめんなさい。ジン、ごめんなさい……」
「謝って欲しいのは、そんなことじゃない」
 静かな怒りのこもった声に、レディスタはハッとした。突然、ジンが乱暴に彼女の肩をつかんで引き離す。驚きに見開かれたその眼をまっすぐに見つめる。
「なぜ、死のうとした」
 レディスタの肩が震えた。
「……だって」
「体が兵器になったのも、お前を操って人を傷つけるのも、全部その『誰か』がやったことだ。お前は悪くない」
「……違うの」
「辛いのはわかる。でも、お前が責任を感じて死ぬなんて」
「違うの、ジン!」
 悲鳴にも似た声音で叫ぶレディスタに、ジンは面食らった。彼女は自らの胸元を、爪痕が残りそうなほど強く握りしめた。
「私……私、殺したの。殺したのよ」
 悲痛な微笑を浮かべ、淡々と、呟くように語られる告白。
「操られたんじゃない、自分の意志でやったの。まだ若い竜の仔……。だってあの仔が死ななければ、私が死んでたのよ。そう思って気がついたときにはもう、喉を刺してた。今でも思い出せるの、あの感触が」
「レッド……」
「それだけじゃないの。アルフィレーヌって先生がいたの、覚えてる? あのね、私のせいでアルフィさん、処刑されたの。私のせいで死んじゃったの。私のせいで殺されたの。私が殺したんだ、そうでしょ?」
「レッド!」
 突然、レディスタが声を上げて笑い出した。涙が次から次へと流れ落ちる。
「ねえ、いつの間にこんなになっちゃったんだろうね? みんなのことが大好きだったのに、今じゃみんなのことを傷つけてるの。まるで別人だね! だからねジン、もう気にしなくていいんだよ。忘れていいんだよ。今までの私はもういないの。変わっちゃったんだよ、戻れないんだよ、私はもう生体兵器の」
 高い音と共に、言葉が途切れた。ジンが彼女の頬を打っていた。昂った気持ちを押さえつけながら、ジンは泣きはらした彼女の横顔を見つめた。
「……もう」
 搾り出すような囁きと共に、再び彼女の体を抱き寄せる。
「もう、いいから」
 やっとの思いでそう言って、ジンは唇を噛みしめた。
 これ以上、彼女の悲痛な叫びを聴いていられなかった。これほど深く傷ついてしまった彼女に、かけるべき言葉が見つからなかった。だから手を出してしまった。自分の弱さがそうさせた。
 それでもせめて――せめて身を寄せ合うことで、痛みを共有できるのなら。彼女のひび割れた心が、少しでも安らぐのなら。
「……ジン」
 ひとは、ひとを救えない。
「何」
 互いに深く、傷つけあうことしかできない。
「ごめんなさい……」
 互いにそれを、舐めあうことしか。
「私を、許して。こんな、こんな……」
 けれど、だからこそひとは――。
「……許すよ」





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