ふと気がついたとき、レディスタは真っ白な部屋にいた。どうやら病室のようだ。微かな薬の匂いが部屋中に立ち込めている。確か自分は、真夜中の森の冷たい地面に横たわっていたはずだ。それなのにどうして――。 微かに目を開けていたレディスタだったが、柔らかな布団が与えてくれる安心感に誘われ、瞼がまた閉じられる。その包み込むような感覚に身を任せて寝返りを打った、そのときだ。 ギシ。 何かが軋む音。ベッドに押し付けた右耳から音がする。 「あれ……」 眠気で朦朧とする意識の中、レディスタはそっとその耳に触れた。感じたのは肌の柔らかさではなかった。冷たい――滑らかな金属の感触。 「え?」 レディスタはがばっと身を起こした。何度触れても同じだ。自分の右耳があったはずのところから、機械のようなものが生えている。耳から首へのラインをなぞると、そこにもまた金属の感触があった。 咄嗟に、首を撫でていた右手を見る。レディスタは自分の目を疑った。 「あ……っあ!」 目の前に差し出した右腕が震える。もともと無機生命体に侵食されていて、しかしまだわずかに人の肉体としての姿も保っていたそれは、今や完全に鋼鉄の塊と化していた。ノイエンを侵略に来た少年少女たちのものと同じ。銃器と刃物が絡み合った、鈍い銀の光を放つ――兵器だ。 「いや……いやぁ!」 レディスタが、力なく首を横に振る。 いつの間にこんなことになってしまったのだろう。一晩でこんなに侵食が進むなど、今までにはなかったことだ。今まではさほど重症ではなかった腰も、左足も、絶望的なまでに機械に侵されている。 嘘だ、嘘だと呟きながら、縋るような思いで何度も何度も患部に触れた。だが伝わってくるのは虚しい硬さばかり。お医者様の言うとおりにしていれば大丈夫、いつかきっと治る――そんな淡い希望をことごとく打ち崩してくれる、その眺め。 不意に病室のドアが開いた。レディスタが身を強張らせる。入ってきたのは白衣をまとった眼鏡の男。温かみというものをまったく感じさせない、無情な眼差しでこちらを見ている。 「……体の具合は」 突然、無愛想な声で問いかけられた。レディスタの肩がびくんと震える。労わりの言葉のはずなのに、とてもそう聞こえない。 「あ、あの……」 「悪くないのなら、今すぐ来たまえ」 有無を言わせない声で男は告げた。どこへ行くのか、何をするのか、自分の体はどうなってしまったのか、ここはどこなのか――そういう当然の疑問もすべて力ずくで押さえ込むように、威圧的に。レディスタは恐怖で口も聞けないまま、男に従った。 終始無言のまま無機質な廊下を進んでたどり着いたのは、何やら不気味な部屋だった。天井は高く、そこそこの広さがある。大広間のようにも見えるが、装飾や色彩といった一切の美を排除した灰色の空間だ。見上げてみると一部の壁がガラス張りになっていて、そこから何人かの人間がこちらを見下ろしている。白衣を着て、モノを観察するような冷たい眼差しで。 瞬間、自分の脳裏に浮かんだ単語にレディスタは戦慄した。 ――実験場、だ。 「聞こえるか」 室内にスピーカー越しの声が反響した。 「聞こえるかと訊いている」 「……は、い」 辛うじて返事をする。足ががくがくと震えだす。 「今から君には試験を受けてもらう。見事合格すれば、君は晴れてデルテティヌ軍特殊生体兵器部隊の隊員となる。試験内容はごくシンプルだ。前を見たまえ」 言われるがままに視線を前に向けると、格子が音を立てて上がっていくところだった。その奥から現れたのは――一匹の竜。 ありえない状況に声も出せずにいるレディスタをよそに、淡々とした説明が部屋中に響く。 「まだ若い地竜だ。しかもクスリで弱らせてある。それを殺すことができれば合格とする」 「そん、な……」 「時間に制限はない。どちらかが命を落とすまで試験は続けるものとする。もちろん、それが竜の方であることを我々は願っている。健闘を祈る」 「ま、待って!」 ブツッというノイズが零れた。一方的に通信を切られた。こちらからの声は聞こえているはずなのに。 目の前で待ち構えている竜は、確かに少し様子がおかしかった。ぐったりした様子で、整わない呼吸を苦しそうに繰り返している。若いというより、まだ子供と呼べるほどの竜だった。そう――ちょうどテテロと同じくらいの。 「嘘よ……」 うつむいたレディスタの口から悲痛な声が零れる。頬を塩辛い雫が伝う。 「そんなこと……できるわけないじゃない!」 キッと顔を上げ、レディスタはガラス越しの人々に向けて叫んだ。 「どうしてこんな馬鹿げたことをするの? もうやめて、私とこの仔を解放して! 私、軍人になんてなりたくないのよ! こんなことしたって何にも――」 音を聞きつけ、レディスタは反射的に振り返った。竜がこちらに向かって駆けてくる。血眼で突進してくる。 短い悲鳴とともに、彼女は横へ飛び退いた。間一髪だった。竜は勢いのままに突っ込み、そのまま壁へ激突した。 レディスタは地面に倒れこんだ体をなんとか起こし、力なく地に伏せっている竜を見つめた。悲痛な呻き声をあげている。弱りきっている体でこんなことをするのは無茶だ。 「お前……」 竜がこちらを見る。憎悪に満ちた目でこちらを睨みつけている。何者をも寄せつけない、紅蓮の炎が燃え上がる瞳。限りない憎しみに歪んだ、その顔。 レディスタの胸に、激流の如く悲しみがこみ上げてきた。口に手を当て、震える吐息を押し殺す。 ――当たり前だ。捕らえられて、家族と離れ離れにされて、監禁されて、訳のわからないクスリを投与されて……すべては殺されるためだけに。 「……ごめんね」 レディスタの口から潤んだ声が漏れる。 「ひどいね。勝手だよね。人間がこんなことする権利なんて、どこにもないのにね」 大粒の涙が次々と溢れ出していく。竜がじっとこちらを睨んでいる。 「私たちのことを、お前はきっと許してくれないよね」 ――この怒りは、この悲しみは、一体どこに向ければいいの? 「だけど、私はお前を傷つけないから」 ――悪いのは誰なの? 「お前を救ってやりたいって、思ってるから」 ――私たちはどうすれば救われるの? 「だから教えて。私はお前に何をしてあげられるの?」 ――本当は、知っている。 言い切って、レディスタは愕然とした。竜は再び立ち上がり、こちらへと駆け出してきた。その眼に迷いはない。 レディスタが再びそれをかわした後も、鋭い爪で、牙で、棍棒のように固い尾で、竜は攻撃し続けた。レディスタは恐怖と絶望の中、我を忘れて叫んでいた。 「やめて! お願いやめて! 私の話を聞いて! 私はお前と戦いたくなんてないのよ!」 高い音がした。彼女の機械化した右腕に、振り払った竜の爪が当たったのだ。レディスタの体が衝撃で吹き飛ばされる。 床に伏せった彼女が、必死の形相で竜を見上げる。竜は獰猛に目をぎらつかせ、レディスタを見下ろしている。けたたましい叫び声とともにその大きな口を開く。鋭く尖った数多の牙が露わになる。レディスタの瞳が収縮する。胸がひとつ、大きく脈打つ――。 ――コロサレル。 そこから先は、まるでスローモーション映像のように鮮明だった。レディスタの突き出した右腕が火を噴き、竜の腹に風穴を開けた。竜の牙はなおも迫ってきた。レディスタはそのまま、右腕をその口に押し込んだ。竜の前歯を数本折り、太い舌をふたつに裂いて、右腕は竜の脳天へ突き抜けた。視界に鮮やかな紅が飛び散った。いのちの色だ。いのちが噴き出した色。生き物が傷ついた色。私が傷つけた色。 私が、殺した色。 ――嘘吐きめ。 頭の奥で、そう聞こえた気がした。竜の心の声か、或いは。 本当は知っていた。私はお前を傷つけるだろうと。私はお前を救ってやれないと。私はお前に、何もしてやれないのだと。 生きるか死ぬか、それしか道は用意されていなかった。どちらかが生き、どちらかが死ぬ、それしかありえなかった。許される道も、救われる選択肢も、始めから存在しなかった。 ――だって相手は、どのみち死んじゃう竜だったし。 そんなことない。 ――知りもしない相手に、命をくれてやる必要もないし。 そんなことない。 ――私はまだ死にたくないし。 そんなこと……。 ――だったら、殺すしかないじゃない? 「いやあああああああああああああ!」 その日の夜、レディスタが収容されている部屋に一本の留守番メッセージが入っていた。ベッドに突っ伏していた彼女がそれに気付いたのは、もう日もすっかり沈んだ頃だった。 「……もしもし。こんにちは、レッドちゃん」 ――え、この、声は。 「お疲れのところごめんなさい」 ――まさか。 「こちらはアルフィレーヌです。お久しぶりね」 ――嘘。どうして……。 「本当は面と向かって話をしたかったのに、こんな形になってしまってごめんなさい。あなたの方でもいろんなことが立て続けに起こって、きっと混乱しているでしょうね」 ――混乱なんてものじゃない。何がどうなっているの。私はどうして、どうしてこんなことに。 「私が今からすべて話すわ。だからお願い。あなたは私のことが憎いかもしれないけれど、どうか最後まで聴いてちょうだい。私はあなたに、真実を伝えたいの」 ――真実。そうだ、私は真実を知りたい。真実を知らなきゃならない。 「まず最初に心から謝るわ。私はあなたの体を侵しているものが、無機生命体というものが、本当は病気ではなく兵器だということを……知っていたわ」 ――……。 「どんなに謝罪しても許されることじゃない。一生をかけても絶対に償えない。それでも今、謝らせてちょうだい。あなたを欺いていたことを」 ――何を、言って。 「でもこれだけは信じてほしいの。私は望んでそんなことをしていたんじゃないわ。私は個人ボランティアとしてトレーユに行った、軍とは何の関係もないただの医者だったの。それなのに軍が圧力をかけてきたのよ。拷問、脅迫、あらゆる汚い手を使ってね」 ――え……。 「私は軍に加担せざるをえなかった。あなたに植えつけられた無機生命体を一刻も早く成長させ、あなたを立派な生体兵器に仕立て上げなければならなくなった。私は許せなかったわ。心にも体にも傷を負っているあなたを、絶対にそんな目に遭わせたくなかった」 ――嘘……。 「だから私は、せめてもの処置として……無機生命体の侵食がそれ以上拡がらないようにしていたの。あなたに処方した薬も施した治療もすべて、本当にあなたの体を思ってのことだったのよ。軍には適当にごまかして伝えていたわ」 ――そんな……。 「でも、やっぱりそう長くは隠し通せなかった。トレーユが竜に襲撃されたあの日、軍は混乱に乗じて私を拉致したわ。それで今に至るの。これでもう、あなたの治療に当たることができなくなってしまったわ。本当に、本当にごめんなさい。あなたを最後まで治してあげたかった……」 ――謝らなきゃいけないのは私だ。私はずっと先生のこと疑ってたのに、先生は……。 「せめてもう一度、あなたの顔を見たかった」 ――私も会いたい。アルフィさんに会いたいよ。 「でももう、それも叶わないわ」 ――え? 「レッドちゃん、どうか驚かないで聞いてね。私はこの電話が終わったらすぐ……行かなければならないの、あの世に」 ――何。 「処刑、されるのよ」 ――今、何て。 「もうガラスの向こうで、電気椅子と役人が今か今かと待ち構えてるわ。この電話が私の、最期の遺言なの。すべての真実をあなたに伝えた今、心残りはあなたの体のことだけね。幽霊にでもなって、治療に向かえればいいのだけど」 ――待って。 「レッドちゃん。どうか私のことは忘れてちょうだい。あなたがこのメッセージを聞く頃には、私はもう死んでいるのだから」 ――そんな、待って! 「……そろそろ時間ね。さようなら、レッドちゃん。例え今は無理でも、いつかあなたの体が治って、幸せな生活に戻れますように」 ――待っ……。 ノイズと共に絶えた音声。メッセージの終わりを知らせる電子音だけが、いつまでも鳴り止まなかった。 |