第三話 寄りかかれる場所



「何だって……」
 これまで黙って話を聞いていたジンが、愕然として呟いた。重苦しい沈黙が部屋を満たす。その静けさに耐えかねて、テテロがほとんど叫ぶように言った。
「ワ……訳分カンナイヨ! ドウシテれっどガ兵器ナンカニサレナキャナラナイノサ! ダッテ、れっどハ普通ノ女ノ子ダヨ? 軍人デモ何デモナイノニ!」
 もっともな意見だった。レディスタほど争いを疎み、平和を愛でる人間もそうそういない。その彼女が、寄りによって何故そんなものにされなければならないのか。
 アルゼンは冷静さを欠くことは決してせず、ただ憂いを帯びた眼差しを、机の上で組んだ両手に落としていた。
「人軍が何を考えこのような行動に出たのかは、残念ながら私の知るところではありません……。デルテティヌ軍に直接関わってきたルーシュ様でさえ、ほとんど何も知らないほどなのです。――ただ」
 アルゼンが言いかけたその言葉に、伏し目になっていたクロリアたちが顔を上げる。
「ただひとつ彼が知っていたのは、人軍は以前、生体兵器の試験体を作ろうとして失敗に終わっている……と」
 瞬間、クロリアが息を呑んだ。今の言葉とひとつの記憶が、ぴったりと重なり合う。長い黒髪を持ち、透き通るような美しい肌をした少女――その名前がクロリアの口をつく。
「リヴァ……!」
 ジンやアルゼンが怪訝そうにしている中、テテロもあっと声をあげた。
「マサカ! ダッテ、アノ研究ハふぁるどサンガ止メタハズジャ……」
「だから、だよ。一から生体兵器を作り上げる研究は失敗した。だから別の手が必要だったんだ。それで行き着いた方法が『生身の人間を兵器に改造すること』だった――そう考えれば話も繋がる。無機生命体ってのは病気なんかじゃない。人間の肉体に植えつける兵器だった、ってことか……」
 そこまで言って、クロリアは片手で顔を覆った。無意識のうちに唇を噛みしめる。口内に鉄の味が広がる。
「何で、こんなこと……!」
 クロリアの声が震えた。
 誰もが押し黙ったまま、時間だけが過ぎていった。壁に掛けられた時計の秒針の音が、静まり返った部屋に降り積もっていく。アルゼンはゆっくりと瞼を閉じて告げた。
「――彼女はラスターのもとで入院することになるでしょう。……どうか今日一日だけは、そっとしておいてあげて下さい」



 押し殺した泣き声だけが暗闇の中に響く。小ぢんまりとした部屋の中、幾つかの医療機材と真っ白なカーテン、そして簡素なベッドがぼんやりと浮かび上がっている。レディスタは真夜中の病室にいた。
 ベッドの上で上体を起こして、彼女は泣いていた。洗い立てのシーツをたぐって顔に押し付けるが、嗚咽も涙も止まらない。機械に侵食された体が軋む。その音が鼓膜をくすぐるたび、また新たな雫が目尻から押し流される。
 兵器。その響きがひたすら頭の中で木霊する。突然告げられたその言葉は、具体的な実感を持たないまま、ただ胸の中の悲哀を増幅させていく。誰が簡単に信じられるだろう。自分の体が、人殺しの道具に作り変えられていたなどと。
 そう思った矢先、病室のドアが開いた。真っ暗だった室内が、廊下からの明かりで細長く照らし出される。レディスタの泣きはらした顔が明るみに出る。
 ドアの向こうに立っていたのは、猫の獣人――隻眼の医師のラスターだった。
「ご安心を。何も怖いことはありません」
 涙に濡れたレディスタの顔を見るなり、ラスターが低い声で言う。床に長い影を落としながら、無遠慮に病室に入ってくる。
「いや……」
 怯えた声でレディスタが訴える。逆光で彼の表情がわからない。
「あなたの願いを叶えに来たのです。人殺しの道具になどなりたくない、そうお思いでしょう。ならば――」
 黒い影が近づいてくる。何だろう、彼の言葉とは正反対の、この身に染みるような恐ろしさは。
「来ないで……」
 手に何か持っているのが見える。嗚呼、それは細く煌く一筋の――。
「兵器に成り下がる前に、私があなたを殺しましょう」
 差し向けられた注射器。廊下からの光が銀色の針をなぞり煌く。レディスタの瞳が収縮する。
 絶叫と共に、レディスタは我知らず右腕を突き出した。それはもう腕などと呼べる代物ではなかった。肩口から不気味に伸びた、巨大な銃身だった。
 銃声。マシンガンのように立て続けに、レディスタの右腕が火を噴く。ラスターは呆気なく床に倒れ伏した。多量の弾丸を浴び、鮮血を吹き出しながら。
 声も出せずに、レディスタはベッドの上に座り込んで放心していた。真っ白なシーツに、じわりじわりと紅色が染みていく。レディスタのネグリジェや頬にも、同じ色が飛び散っている。
 その時、廊下に再び誰かが現れた。その顔を見た途端、吹き飛びそうになっていたレディスタの意識が戻る。唇が勝手にその名を紡ぐ。
「ジ、ン……」
「お前……」
 彼は絶望的な声で呟いた。ひどくゆっくりとした足取りで、レディスタのいるベッドに向かってくる。そして明らかに恐怖に満ちた眼差しで、倒れたラスターとレディスタとを見比べた。瞬間、例えようもない不安がレディスタを襲った。
「ち、違うの! 私、こんなことしようなんて……。腕が勝手に!」
 ジンの表情は変わらない。レディスタは彼の胸に縋りつき、必死に訴える。
「お願い信じて! 私は人殺しの道具なんかじゃない。そんな物になんかなってない。ねえそうでしょ? 私は今まで通りの……!」
 言葉はそこで止まった。ジンが、ゆるゆると首を横に振っていた。
「……違う。お前はもう立派な兵器だ。だって――」
 そう言って哀しい笑顔を浮かべた。美しい銀の瞳から滑らかな頬にかけて、一滴の紅い涙が伝う。
「こうして、俺を殺してしまっている」
 機械に侵食された腕が、今度は鋭い刃物と化し、ジンの腹を貫いていた。
 彼はそのまま、ラスターに折り重なって倒れた。身動きひとつしなかった。レディスタの体は真紅に染まりきっていた。髪も、肌も、服も。瞬間、自分のものとは思えない叫び声が夜の空気をつんざいた。
 その絶叫に混じり、誰かが天に向かって高らかに笑うのが聞こえた――。



「……ド。おい、しっかりしろ! レッド、レッド!」
 金色の瞳が見開かれた。荒い呼吸を繰り返し、全身汗だくになりながら、レディスタはベッドに仰向けになっていた。
 目の前に誰かの心配そうな顔があった。よく整った顔立ち、繊細な空色の髪、暗闇の中でもなお蒼い、宝石のような瞳。
「クロ、リ……」
 まだ意識がはっきりしていなかったが、反射的に唇がその名を紡いでいた。
「嫌な予感がしたから来てみたんだ。そしたらやっぱり……。大丈夫か? 相当うなされてたぞ、お前」
 ここでやっとレディスタは、今までのは夢だったのだということに気がついた。途端、強張っていた体からどっと力が抜けていった。空気の抜けるような長い息をつくレディスタを、クロリアが心配そうに見つめている。
「あ……うん、平気。ごめんね、もう大丈夫だから……」
「ちょっと待ってな。水持ってきてやる」
 布団越しに添えられていたクロリアの手が離れた。遠くでガラスがかちゃかちゃと小さく音を立てるのを、レディスタはぼんやりとした意識の中で聞いていた。
 程なくして、クロリアが再び現れた。彼が枕もとのランプに火を入れると、突然の明るさにレディスタは目を細めた。
「ほら」
 かざした手の向こうに、コップを差し出すクロリアが見えた。おずおずと両手で受け取ると、ひやりと冷たい感覚に少しだけ目が醒めた。そのまま唇を当て、するすると喉に流し込んでいく。
「落ち着いた?」
「うん……。だいぶ」
「良かった。あ、あとそれ着替えた方がいいぜ。すごい汗かいてるから」
「うん。……あの、ありがとね。クロリア」
「気にすんなよ。じゃあ俺はこれで――」
「あ、待って!」
 レディスタは思わず、立ち去ろうとする彼の手を取っていた。少し驚いたような顔で振り返るクロリアを見て、恥ずかしさが一気にこみ上げる。
「や、違っ……そ、そうじゃなくて! 何ていうか、その、もうちょっとだけここにいて欲しいなー、なんて……」
 しどろもどろになりながら必死に言葉を紡ぐ様子を見て、クロリアは思わず苦笑してしまった。
「何だよ突然。子供みたいなこと言って」
「ば、ばか! 別に嫌なら良いよっ」
「わかったわかった。もう少しだけな」
 あははと笑ってから、クロリアはベッドの端に腰掛けた。そして急に穏やかな笑顔になって、レディスタの方に向き直る。
「そうだよな。すぐには寝られない、か。よっぽどひどい夢だったんだろ?」
 まるで羽のように柔らかく心に触れてくる、クロリアの優しさ。それが嬉しいのと同時に堪らなく恥ずかしくて、レディスタは慌てて視線を外す。
 両手で支えたまま膝の上に乗せたコップを見つめながら、彼女はぽつりと呟いた。
「……聞いたんだよね、私の体のこと」
 ああ、とクロリアが短く答える。
「あのね、今見た夢……。私が兵器になって、ラスターさんとジンを殺しちゃう夢だった」
 コップをぎゅっと握り締める。片方は普通の人間の手。もう片方は、半分以上も機械に侵食されてしまった凶器の手。ここ以外の患部、例えば脇腹や足などはこれほどまでにはなっていないが、放っておけばいずれは――。
「体が機械になっていくだけでも怖いのに、それが人を殺すための道具だったなんて……。信じられないよ。信じたくないよ。だって、どうして私がそんなもの……。私はそんなこと望んでないのに」
 クロリアが傍らで聞いてくれている。たったそれだけのことで、今まで胸の内に秘めていた思いが次々と言葉になって溢れてくる。
「――ねえ、アルフィさんはこのこと、知ってたのかな」
 こらえていたつもりだったのに、声が震えた。
「だって、すごく腕の良いお医者さんでしょ。ラスターさんが見抜いたのなら、きっとアルフィさんも……。だけどアルフィさん、そんなこと一言も言ってくれなかった。稀な、すごく稀な病気なんだって。ねえ、まさかアルフィさん……私のこと、騙してた、なんて……」
 どれだけ強くコップを押さえつけても、震えが治まってくれない。胸が詰まってきた。声が思い通りに出てこない。じわっと視界が潤んだ。
「私、もう何を信じたらいいのか、わかんないよ……」
 絶望的な自分の体。希望の見出せない未来。信じていた者に裏切られる恐怖。そんな中で、一体何を糧にして生きていけと言うのだろう。全てのものが目まぐるしく変わっていく世界で、確実なものなど何ひとつないこの世界で、一体何を信じろと言うのだろう。
 うつむいているレディスタの横で、クロリアがやるせなく溜息をついた。
「まさかここまで信用なかったとはな……」
 眉間に指を当てながら呟くクロリアを、レディスタが横目で見る。何のことかと思っていると、突然クロリアが身を乗り出した。
「いるだろ、ここに!」
 力強くそう言われて、レディスタは思わず目を見開いた。
「今まで一度だって、俺がお前を裏切ったことあるか? お前を騙したことあるか?」
 澄んだ蒼い瞳をまっすぐにレディスタに向けたまま、クロリアは続ける。
「俺はお前の体を元に戻すことはできない。お前をこの状況から助けてやることもできない。これまで何度もお前のこと泣かせたし、辛い思いもさせたし、危険なことにも巻き込んだ……。だけどお前を欺いたことなんて、一度もなかったはずだ!」
 レディスタの心が不安と戸惑いに揺れる。繊細な睫毛の奥から、彼女は金色の瞳でクロリアを見つめた。
「俺はこの通り、普通の人間じゃないから……またお前を危ない目に遭わせるかもしれない。悲しませるかもしれない。それでも、この気持ちに変わりはない」
 硬く握り締めたレディスタの手に、温かなものが触れた。コップを押さえる手の上から、クロリアの両手が――『許されざる者』の紋章に蝕まれた痛々しい両手が、そっと添えられていた。
「俺はお前を、絶対裏切らない」
「絶、対……」
「そう、絶対」
 頼りない声でレディスタが繰り返すと、クロリアの手に力がこもった。普段は手袋に覆われていて、決して触れることのできないクロリアの素肌。その温かさが、レディスタの孤独な心に優しく染み込む。
「弱気になるなよ。そんなんじゃ勝てるものにも勝てないだろ。ラスターならきっと、お前の体を治してくれる。泣き顔なんかじゃなくてさ、お前らしく笑顔で歩けよ。な」
 そこでレディスタはやっと気付いた。自分だけではない、クロリアも同じ境遇にあるのだと。彼が『許されざる者』の血の力に屈したら、世界を救うことは叶わない。同じように自分も、自身が兵器と化していく恐怖に屈したら、そこで全てが終わるのだ。
 ――ひとりじゃ、なかった。
 いつも傍にいて自分の支えとなってくれる人が、こんなに近くにいた。そう気付いた途端、レディスタの両眼から雫が溢れ出した。
「――うん!」
 頬に涙を伝わせながら、最高の笑顔で彼女は笑った。クロリアは穏やかに微笑んで、そのしなやかな指で彼女の目元を丁寧にぬぐってやった。
「ほら、そうと決まったらさっさと寝た寝た。明日の治療に向けて体力つけとかないと」
 言いながら、早々とコップを取り上げて布団を被せようとするクロリアに、レディスタが慌てて問いかける。
「あ、あの、クロリア……私が眠るまでここにいてくれる?」
「はぁ? 何言ってんだよ、もう充分いてやっただろ。俺だって早く寝たいんだよ」
「わ、わかってるよ。だけど……」
 自分勝手なことを言っているとは、レディスタ自身わかっていた。それでも彼を少しでも長く引きとめておきたかった。ひとりになるのが怖い訳ではない。クロリアと一緒にいたい。この全身を丸ごと包み込むような優しさの中に、もう少しだけ浸っていたい――。単純に、ただそれだけだった。
「仕方ねーな……。じゃあほら、目瞑って」
「え?」
「ぐっすり眠れるおまじない、かな。やってやるから目閉じて。そうすればひとりでも平気だろ?」
 ベッドに横になったレディスタを見下ろしながら、クロリアはそう言った。怪訝に思いながらも、レディスタは言われたとおりに瞼を閉じる。
 蒼い笛で子守唄でも奏でるつもりだろうか。いや、今は真夜中だからそれはないか。だとしたら一体何を……。そんなことを考えていたときだった。
「!」
 思わず目を開いてしまった。唇に温かいものが触れたのだ。一歩遅れて、それがクロリアのものなのだと――クロリアが唇を重ねてきたのだとわかった。
 柔らかく啄ばむだけのキス。しかしレディスタの頭を真っ白にするには充分すぎた。二人の時間が、止まった。
「おやすみ」
 互いの唇が離れる瞬間、クロリアが囁いた。
 彼が部屋を出た後、レディスタが一睡もできなかったのは言うまでもない。





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