第七話 ロスト



「は……はあ……っ」
 呼吸を乱しながら、クロリアは力なく座り込んでいた。彼の体は傷だらけだ。その上、痛々しい紋章が肌をびっしりと埋め尽くしている。手袋はとうに破れていた。と言うのも、彼の両手はもはや人間のそれではなかったからだ。巨大な肉食鳥の足のような、不気味なもの。その怪物のような手を見る限りでも、自分が今、どれほどおぞましい姿でいるのか想像がついた。
 何度も竜の攻撃を受けながら、クロリアは何とかここまで辿りついた。彼は今、ある建物の屋上で息を潜めている。海竜たちの目をくらませるため、こうして物陰に隠れているのだ。だがこれで稼げる時間はわずかだろう。すぐに次の手を考えなければ――。
 そう思った矢先、目の前に巨大な影が現れた。海竜だ。見つかってしまった。
 竜は目をぎらつかせて、口から勢いよく水を噴射した。まともに食らえば体を切り裂かれるほどの威力だ。クロリアは反射的に横へ転がり込み、これから逃れた。今までクロリアがいた場所を、水の刃が木っ端微塵に破壊した。
 立て続けに繰り出される攻撃を、クロリアは次々とかわしていく。だが彼は、体の中に爆弾を抱えているにも等しい状態で竜と戦っているのだ。肉体的にも精神的にも、既にかなりの負担がかかっていた。
 突如、竜の放った水の刃がクロリアの足元をえぐった。コンクリートに亀裂が入り、建物があっという間に崩壊していく。足場を失い、瓦礫と共に落ちていくクロリア。下にはうねる濁流が待ち構えている。それを視界に捉えた瞬間、クロリアの血がドクンと大きく脈打った。
 バサアッ!
 灰色の世界を切り裂く、白銀と漆黒の光。巨大な翼がクロリアの背中から生え、大きく羽ばたいた。凄まじい風がクロリアを中心に巻き起こる。重力に任せて落ちていた体が、一瞬にして上昇に転じた。クロリアはそのまま飛翔し、辛うじて倒壊せずにいる建物に乗り移った。
「く……」
 全身に刻まれた紋章が、焼けるような痛みを発する。不気味な刻印は、まるでクロリアをいたぶるように、じわじわと顔面に伸びていった。
 自分が自分でないものに変わっていく恐怖は、言葉になどできないほどのものだ。だがそれに屈したら一貫の終わりであることも、クロリアは痛いほどわかっていた。何としてでも、血の力は押さえ込まなければならない。
 しかしもう限界だった。『許されざる者』の力の暴走を食い止めるのがやっとで、海竜との戦闘などとてもできそうにない。極限状況の中、クロリアは竜がこちらに向かってくるのを認識することができなかった。気づいたときには、目の前にまで数多の鋭い牙が迫っていた――。
 ドチュン。
「ギョオオオオ!」
 喉を潰したような叫び声が響き渡る。クロリアがハッとして目の前の光景を凝視する。クロリアを噛み千切ろうとしていた海竜が、眉間から鮮血を噴き出して悶えていた。一体何が起こったというのだろう。
 ふと、燃えた弾薬の臭いが風に乗って届いた。この臭いをクロリアは知っていた。そしてこの、独特の緊張感と存在感も。はじかれたように、気配を感じた方を見やるクロリア。彼の蒼い瞳に映ったのは――。
「ジン!」
 全身に黒をまとい、鷹のように鋭い眼をした少年が、隣の屋根の上にいた。突然の登場と予期せぬ展開に、クロリアはただ驚愕していた。
 何より彼が驚いたのは、今まで自分だけを追い求めていたジンの銃口が、今は海竜に差し向けられているということだった。盲目的にクロリアを殺そうとしてきたジンが、なぜ今になってクロリアを助けるような行動に出たのだろうか。
 ふと、ジンの瞳がクロリアを捉える。その眼差しにクロリアは息を呑んだ。いつもの獲物を射殺すような、攻撃的な視線ではない。憂いや切なさのにじみ出た目で、じっとクロリアを見つめているのだ。
 蒼の瞳と銀の瞳が、互いの姿を映し出す。こんなにまっすぐ向かいあったのは初めてだった。相手の真意が見えるような錯覚に陥る。何を考えている? 何を思っている? 何を求めている――?
 ジンの拳銃は、遂にクロリアに向けられることはなかった。本当に自然な動作で、それはホルスターの中に収められたのだ。
「――停戦だ。クロリア」



「慌てないで、もう大丈夫です。席には病人やケガ人を座らせて下さい!」
 吸い込まれるように列車に乗り込む人々の横で、レディスタは懸命に指示を出していた。駅員たちがありったけの車両を継ぎ足してくれたので、駅に集まった人々は全員入れそうだ。それはつまり、町の中で数え切れないほどの人間が犠牲になったということでもあるのだが、悲しみに暮れている暇はない。今にもはちきれそうな思いを押しとどめて、レディスタは声をかけつづけた。
 全ての人が列車に入った頃を見計らって、同じように人々を誘導していた駅員が声をかける。
「よし、これで全員だ。嬢ちゃんも早く乗り込め。出発するぞ!」
「待って! まだ町に残っている人がいるの」
 レディスタははじかれたように答えた。少し前に、ジンが町の方へ駆けていくのを見た。加えて、列車に避難した人の中にクロリアの姿はなかった。それでも彼らが犠牲になったなどとは考えたくない。
 そんな彼女に、駅員は怒りとも呆れともとれる顔で言った。
「冗談じゃねえ。もたもたしてたら列車が身動き取れなくなっちまうんだぞ! 一人や二人のために待つなんてことできねえ」
「そんな……」
 しかし駅員の言う通りだった。このとき既に、レールは浸水しかけていたのだ。このまま水かさが増えれば、汽車は動けなくなってしまう。そして全員まとめて……。
「さあ、急いで乗るんだ! ケニー、こちら準備完了だ」
「了解、発車します!」
 駅員が手早くコンタクトを交わした。ボーッと汽笛が鳴る。レディスタは観念して、後尾車両のベランダ部に飛び乗った。
 そのときだ。突然自分を呼ぶ声がしたのは。
「れっどー!」
 慌てて振り返ると、何とテテロが駅に姿を現していた。この町にいる間はずっとラジオのままだったのに、なぜか竜の姿に戻っている。しかも彼の傍にクロリアの姿はない。どこかで別れたということか? 疑問と焦りがレディスタの頭を駆け巡る。
 テテロは六枚もある翼を一度羽ばたかせただけで、簡単にレディスタのいるベランダ部に乗り込んだ。そして彼が飛び移ってくるなり、レディスタは落ち着かない様子で言った。
「早く何か別のものに変身して。他の人に見つかったら大変だよ!」
 だがテテロは聞かなかった。それどころか、いきなり彼女に抱きついてきたのだ。思いもしなかった行動に驚くレディスタ。しかし、彼の大きな目に涙が溜まっているのを見つけてハッとした。
「駄目ダッタ。アノ竜タチノコト、止メラレナカッタ……!」
 そこまで言って、テテロは顔をうずめて泣き出してしまった。大粒の涙がレディスタの服に跡をつけていく。
 きっと彼は同じ竜族として、海竜たちに攻撃をやめるよう説得したのだろう。しかしそれは虚しくも失敗に終わった。一度戦争の波に飲み込まれた世界は、もう個人の力などではどうすることもできない。自分の無力さが悔しくて、思い通りにいかない現実がやるせなくて、テテロはむせび泣いているのだ。切なさが胸にこみ上げて、レディスタはぎゅっとテテロの頭を抱きしめた。
 車輪がゆっくりと回り、列車が動き出す。レディスタがそっと顔を上げた。間に合わないのだろうか。町に残った彼らはもう、助からないのだろうか……。
 そのとき、レディスタの口から声が飛び出した。
「あ!」
 テテロもはじかれたように振り向いた。視線の先にいたのは、綺麗な蒼い髪をした少年と、漆黒をまとう少年――紛れもないクロリアとジンだった。風を切って走りながら、列車を追いかけてくる。
 レディスタは見たこともない異様な光景に驚いた。クロリアの背中には、それぞれ光と闇そのものでできているような、巨大な翼が生えている。体中の肌をどす黒い紋章が覆いつくし、両の手は直視できないほどに痛々しく変形していた。
 列車はどんどんスピードを上げていく。無情にも二人との距離は開いていく一方だ。レディスタが限界を悟るのと、クロリアが高く地面を蹴るのとは同時だった。
 ふわり、クロリアの体が浮いた。純白と漆黒の翼がしなやかに、残像を残すようにして羽ばたく。彼の不気味な両手がジンの右腕をしっかりと掴み、地面から引き離した。そして重厚感ある翼を、ひときわ力強くはためかせた。
 ブワッ!
 彼らの背後で、砂埃が派手に舞う。レディスタとテテロが思わず目を瞑った。そして次に目を開いたとき、何と目の前にはクロリアたちの姿があった。
「危ねー……。勢いつけすぎて衝突するとこだったぜ」
 鉄柵にしがみついて胸を撫で下ろしながら、クロリアは言った。それから何事もなかったかのように床に座り込み、壁にもたれてひとつ息を吐く。すると彼の体を蝕んでいた刻印が、たちまち薄れていった。神々しい翼は姿を消し、怪物のようだった腕も、いつものすらりとした綺麗な手に戻っていった。
 レディスタは彼の前で、我を忘れたように呆然としていた。
「クロリア……」
 無意識のうちに、その名が口をついて出てくる。全ての感情をない交ぜにしたようなレディスタの顔を、クロリアはそっと見上げた。優しくも哀しい微笑を湛えて言う。
「……きっと、後で話すよ」
 この数日間で、彼女はあまりに多くのものを背負いすぎた。真実を話せば、それはきっとレディスタにとって更なる負担になるだろう。だから今は伝えない。その代わり、もう二度と逃げたりしない。このことを受け入れられるだけの余裕ができたときには、迷わず全てをさらけ出そう。自分の血のこと、そしてジンと交わした『契約』のことを……。
 町では未だに、海竜たちが破壊を繰り返している。もう敵はいなくなったというのに、彼らは狂ったようにその動きを止めない。暴走する津波は、今や操り手の竜たちにも危害を加えている。濁流に押し流される数多の瓦礫は、彼らの体を傷つけ衰弱させていく。それでもなお、彼らは暴れ続ける。彼らは計り知れない狂気に支配されていた。何も見えていないのだ。自分たちが今、何のためにこの町を襲っているのかも――。
 その様子を、四人は走る列車からやりきれない思いで見つめていた。絶望的なスピードで、滅びゆく町が遠ざかっていく。
 今までにないほど大きな波が、町の向こうに聳え立った。もはや原型を留めていない瓦礫の町に、巨大な影が落ちる。止めることの叶わない激流。抗うことのできない運命。遂にその大波は、海竜もろとも町を呑み込んだ。波が、町が、竜が、一斉に砕けていく。嗚呼、またひとつ尊いものが消えた――。
 乾いた大地を吹き抜ける風が、レールの上にむせぶような砂埃を巻き上げる。崩壊した町と列車が、完全に遮断された。





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