第六話 繰り返される悲劇



 鼓膜を破るような轟音がトレーユの町を襲った。道端でうずくまっていた人も、食事の配給を並んで待っていた人も、不安そうにどよめきながら辺りを見回した。病院の窓から顔を覗かせる者もいる。
 次の瞬間、建物の上から遠くを見渡していた男が叫んだ。
「あ、あれを見ろ!」
 男が指差す先に人々が目を凝らす。海岸の方にどす黒い影がうごめいていた。猛烈な勢いでこちらに向かっている。地鳴りのような音を轟かせ押し寄せてくるそれは、何と――。
「海竜だ……!」
 クロリアは驚愕の声で呟いた。
 辺りが一気にパニックになった。悲鳴と足音で町中が騒然となる。竜の操る濁流の押し寄せる音が、もうすぐそこまで迫っていた。数日前のシルヴィラスの悲劇が繰り返されようとしている。あまりにも無力な、小さな町で。
「汽車に乗って逃げるんだ! ここにいたらやられるぞ!」
 慌てふためく人々に、クロリアが大声で指示を出す。トレーユの町の高台には小さな駅がひとつある。確かそこには、数日後に傷病者を都会に送るため、一台の汽車が止まっていたはずだ。この町にいる者を全員収容することなど到底不可能だろうし、今いきなり走らせることができるかもわからない。しかしここにいる人々を救う手立てはこれしかなかった。
 道を埋め尽くしていた人間が、一斉に駅に向かって走り出した。住人、避難者、傷病者、医者、女、老人、子供……。
 ふと、クロリアの目に小さな男の子が映った。人ごみの中で見失ったのか、必死で母のことを呼んでいる。人々が我を忘れて走り抜けていく中、その子は道の中心で突っ立ったままだ。
 海竜たちがトレーユに到達した。大量の水が激しくうねりながら町を襲う。取り残された子供の背後に、巨大な海竜が舞い降りた。少年に向かって攻撃を仕掛けようとしている。クロリアは咄嗟に少年を抱きかかえ、転がるようにそこから離れた。竜の口から放たれたドリルのように鋭利な水は、今まで二人がいた場所をえぐった。
「よせ! こんな小さな子まで殺すのか? 何のためにここまで弱りきった町を襲うんだ!」
 クロリアは叫んだ。しかし竜は巨大な豚のような雄叫びをあげるばかり。涎を撒き散らし、辺りにあるものを叩き壊し、狂ったように暴れまわる。激情で周りが見えなくなっているのだ。今の彼らにとって、全ての人間は復讐の標的でしかない。そこに情や理性など存在しない。それが戦だ。あるとき突然爆発し、あっという間に世界中に広まっていった、憎しみの成れの果てだ――。
 クロリアのコートに、幼い少年がぎゅっとしがみついてきた。目を潤ませて、無言のまま恐怖と闘っている。クロリアは再度強く思った。この子は何としても守りきらなければ。
 だが、そう考えていた一瞬が命取りだった。海竜が蛇のように滑らかな動きで二人に近づき、勢い良くひれを振りかざしてきたのだ。空気を裂く太い音。当たったら間違いなく即死だ。しかし逃げるにはもう遅い――。
 バシッ。
 竜のひれはクロリアたちに命中したかと思われた。だが実際は、彼らに当たる直前ではじき返されていた。クロリアは目の前に何かがいるのに気づいた。自分をかばうようにして立ちはだかっている。それが誰なのかわかった途端、クロリアは思わずその名を呼んだ。
「テテロ!」
 六枚もの美しい翼。肉食恐竜のような外見。強い決意を感じさせる真紅の瞳。今までラジオとなってクロリアの腰にぶらさがっていたテテロが、竜の姿となって現れていた。
「相棒ガピンチナノニ、黙ッテ見テラレルカヨ!」
 にっと笑ってみせるテテロ。クロリアの危険を察し、ラジオから元の姿へと戻り、腕から頑丈な壁を作り出す。これだけのことを、テテロは一瞬のうちにやってのけたのだ。
 海竜の攻撃をうまくかわしながら、テテロは大声でこう続けた。
「俺ガコイツヲ止メル。他ノヤツラモ説得シテ、攻撃ヲヤメサセル。くろりあハソノ子ヲ早ク連レテイケ!」
「……恩に着るぜ、テテロ!」
 相棒が作ってくれたチャンスを、クロリアは見逃さなかった。男の子を背負い、人々の後を追うように走っていく。足元の水かさがどんどん増してきている。今にも町中が浸水して、身動きが取れなくなってしまいそうだ。急がなければ。
 行く手に駅が見えてきた。町中から逃げてきた人々で溢れかえっている。クロリアは人ごみから少し離れたところに少年を下ろした。それからそっとかがんで、視線を少年と同じ高さにして優しく言う。
「もう大丈夫。早くこの列車に乗るんだ」
「でも、ママが……」
「お母さんとはまた後で会える。中でじっとして、外に出ちゃいけないよ。君がケガをしたら、お母さんだって悲しむだろ?」
 クロリアがにっこりと笑った。どんなに緊迫した状況下でも、見る者全てを安心させてしまう笑顔だった。少年はその無垢な瞳に涙を湛え「うん」と頷いてみせる。クロリアは少年の返事を噛みしめるようにゆっくり瞬きしてから、スッと立ち上がった。
 何頭かの海竜たちが、こちらへ向かってくる。クロリアはそれを確認して、ライトアローを召還し、ギッと光の矢を引いた。目にも留まらぬ速さで放たれたそれは、迫ってくる海竜の一匹に命中した。大地を揺るがすほどの雄叫びがあがる。
「こっちだ!」
 そう叫んで、すかさず右手の道へと走っていった。クロリアは咄嗟の機転を利かせたのだ。すぐ後ろには避難してきた人々がいる、ここで戦うのは危険だ――と。クロリアは自らをおとりにして、海竜たちを駅から引き離していった。
 しばらく走ったところで、クロリアは足を止めた。いつの間にか周りには他の竜たちも集まっていた。これだけの数の竜を相手にするのは、彼とて初めてだ。巨大な海竜たちが、断崖のようにしてクロリアの周りに立ちはだかっている。彼の喉がごくんと音を立てた。左手に持っていたライトアローを握りなおす。
 ドクン……!
「ああ!」
 不意に襲ってきた感覚に耐え切れず、呻き声が漏れた。手で胸をぐっと押さえつける。肉の中で骨が粉々に砕けるような、突然の激痛。続けて手の平と両眼に違和感が走った。最悪の事態がクロリアを襲った。またしても『許されざる者』の血が騒ぎ出したのだ――。
「くそ、こんな時に……!」
 ライトアローの刃を召還し損ない、クロリアは海竜の攻撃をまともに食らった。体が遥か後方へと飛ばされる。ガガガガッと痛々しい音を立て、クロリアは地面の上を転がり、背中を思い切り壁に打ちつけた。息もつけぬような衝撃。
「くう……っ」
 食い縛った歯の間から、苦痛に歪んだ声が零れた。暴れる血と今の衝撃とで、意識をとどめておくことすら困難だった。クロリアの頭から目を伝って流れ落ちる血液は、さながら真っ赤な涙のようだ。
 朦朧とする意識の中、クロリアは海竜たちを見据えた。彼らは間髪入れず、次の攻撃を繰り出そうとしていた。
 避けなければ。しかしその意志に反して、クロリアの体は全く動かなかった。頭を打った所為で、体の制御が思うようにいかない。何もできないまま、クロリアは突進してくる竜たちを見つめていた。
 やられる……!



「どういうことなの。何でこんな小さな町まで……!」
 ジンと共に町へと急ぎながら、レディスタは悲痛な声で叫んだ。
 草原から二人が見たものは、何頭もの海竜に襲撃されているトレーユだった。あちこちで水しぶきがあがり、建物が次々に押し倒されていく。町中が水に浸かり、逃げ遅れた人々が次から次へと波に呑まれていく――。つい先日シルヴィラスで同じことを体験しただけに、レディスタが受けたショックは計り知れなかった。しかし、立ち止まって嘆いているばかりでは何も変わらないということも、彼女は知っている。胸の張り裂けるような思いで、彼女はただひたすらにジンの背中を追った。
 暴れる竜の一頭一頭がはっきりと見えるほどの距離まで来た頃、ジンがレディスタを振り返って言った。
「あそこに人垣が見える!」
 彼の指差す先にあるものは、丘の上の駅だった。そこには今、町中の人間が一堂に会したような群れができている。小さな駅とは全くつり合わない人数だ。汽車で逃げようとしていることは明らかだった。
 現場に着いたジンとレディスタは、その異様な雰囲気に息を呑んだ。死に物狂い、という言葉がぴったりくる光景だ。必死の思いが彼らを駆り立て、集団でパニックに陥っている。子供や老人などは窒息してしまいそうな勢いだ。しかもその切羽詰まった状況の中で、信じられないことに、列車の扉は一向に開こうとしない。
 レディスタは人々を落ち着かせるため、片っ端から声をかけていった。一方ジンは、人ごみをすり抜けて駅員の待機室へと向かった。
「誰か列車を運転できる者は!」
 有無を言わせないジンの大声に、駅員たちはもちろんのこと、周りにいた人々までもが肩を震わせた。少し遅れておずおずと姿を現したのは、くたびれた駅員の制服を着た小太りの男だった。この異常な状況とジンの鋭い視線、どちらにも怯えている様子だ。
「あ、あの……ここで駅長を勤めている者ですが、この列車は……」
「無駄話はいい。早くこれを動かすんだ!」
 ジンの怒声にびくびくしながら、男は泣きそうな目で訴える。
「い、いや。ですからこの列車は、三日後に傷病者を別の町に輸送するためにあるもので、今は何も準備が整っていない状態でして……。第一こんな人数はとても――」
「ここにいる人間が助かる方法はこれしかない。準備がまだだろうが人数が多かろうが、これに縋るしか選択肢はないんだ! ここまで逃げてきた人たちを皆殺しにするつもりか? あんただってこのままじゃ死ぬんだぞ!」
「わかっています! わかっていますよそんなこと。でも……」
「車両をありったけ繋げろ。ここの人たちを乗せられるだけ乗せて、一刻も早く列車を走らせるんだ。行き先は任せる。この町から脱出さえできればいい。わかったな!」
 ジンの圧倒的な迫力に負けて、駅長は「は、はいぃ!」と引きつった声で返事をした。すぐさま駅員を全て招集し、慌しく準備を開始する。
 遂に列車の扉が開かれた。人々が我先にと車内になだれ込んでいく。ジンは巻き込まれないように壁に寄っていたが、ふとその中に、流れに逆らってこちらへ向かってくる人影に気づいた。年端も行かない小さな男の子だ。何度も人の波に押し流されそうになりながら、少年はジンの元までやってきた。そして辿りつくなり、彼に泣きじゃくってすがりついたのだ。
「お願いだよ、助けて!」
「どうした、何かあったのか?」
「僕じゃない。さっき僕のこと助けてくれたお兄ちゃんが、まだ町の中にいるんだ! ひとりで竜と戦いに行ったんだ! 助けてあげてよ。あのままじゃ死んじゃうよ!」
 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、少年は叫んだ。ジンは突然のことに驚きながら、少年にできるだけ優しく言った。子供の扱いには慣れていないので、多少不器用ではあったが。
「泣くのはよせ。それで、どんな人だったんだ?」
「蒼い髪の毛のお兄ちゃん。コート着てる、すごく優しい目をした……」
 何度かしゃくり上げながら、少年はそう答えた。途端、ジンの表情が急変した。まさか――クロリア?
「助けてくれるよね? 絶対助けてくれるよね!」
 とめどなく溢れてくる涙を必死でこらえながら、少年は切羽詰まったように訴えた。ジンは少年を見つめたまま動けなかった。約束できるのか? クロリアを殺すためだけに生きてきた人間が、その彼を“助ける”などと。
 ジンの脳裏を数多の記憶が掠めていく。崩れ去った故郷、たくさんの涙、まだ何も知らない頃のクロリアの笑顔……。そして、レディスタを抱きしめたときに揺れた心。
 ――怖かっただけなのかもしれない。
 あのとき自分の紡いだ言葉が、頭の中で鳴り響いた。





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