冷たく鋭い空気。地平線に太陽の姿はない。静寂に覆われた世界の一端に、青白く映る小さな駅がある。朝霧の中から姿を現した汽車が、ゆっくりとそこに止まった。 ひと気のないプラットフォームに降りたのは、たったの二人。若い旅人クロリアと、翼竜テテロだけだった。他に音を立てるもののない空間で、靴音が不自然なくらいに大きく響く。テテロの足の爪が地面を引っかく音すら、嫌というほど鮮明に耳に入ってきた。 「テテロ。町にいる間、何かに変身しててくれないか」 シルヴィラスは竜によって滅ぼされたと聞く。彼が今の姿のまま歩いているのを誰かに見られたら、それこそ大問題になってしまうだろう。 テテロはこくりと頷くと、不意にその姿を消してみせた。いや、単に消えたのではない。今まで彼がいた場所には、赤い携帯ラジオが転がっている。 「コレデイイ?」 ラジオが喋った。そう、これはテテロが化けた姿なのだ。 クロリアは無言でラジオを手に取り、ストラップをベルトに引っ掛けた。ぶらん、と力なく垂れ下がるラジオ。人々もまさかこれが竜だとは思わないだろう。 クロリアはゆっくりと顔を持ち上げ、駅の出口を見つめた。あの向こうに広がる、廃墟と化した平和の町。どんな惨状が待ち受けていようとも、彼は全てを受け止めるつもりでいた。信じたくない残酷な現実もある……と。しかし、いざそれを目の前にしてみると、クロリアの足は地面に張りついたかのように動かなくなった。胸がキリリと締めつけられる。 いつまでもそこに立ち尽くしているクロリアに、テテロが心配そうに言った。 「……くろりあ」 落ち着いて。テテロは心の中でそう続けた。クロリアの顔は平静を装ってはいたが、彼の抱えている不安と焦燥は容易に見て取れる。いつになく余裕のない瞳の色。今までクロリアは、数多の惨劇を目の当たりにしてきた。だが今回ばかりは、かけがえのない育ての親と親友の命がかかっている。そして彼らが助かっているという保障は……ない。身の震える思いで、クロリアはただならぬ緊張感と闘っているのだ。 テテロの声を聞きつけて、クロリアはハッと我に返った。少し遅れて、ぎこちない微笑を浮かべる。 「大丈夫。大丈夫さ」 当然、テテロは安心できなかった。いつもは見入ってしまうほど綺麗な笑顔なのに、今はただ、見ていて苦しかった。彼が辛い思いをしていることは明らかなのに、周りの人に迷惑をかけたくない一心で、全てをその背に負おうとする。クロリアのその優しさが、時として痛々しかった。 そんなことを考える今のテテロは、とても不安そうな顔をしているだろう。だが今はラジオの姿になっているので、クロリアに悟られることはない。それが唯一の救いだった。 もう一度、クロリアは町の方を見た。もうその目に迷いはない。意を決して彼は歩き出した。靴音の余韻が儚く響き、消えていく。 ゲートをくぐった途端、目の前にシルヴィラスの町並みが広がった。そして同時に、クロリアは短く息を呑んだ。 想像を絶する光景だった。以前までの、光と希望に満ちた風景が嘘のようだ。町は一面灰色で、あらゆる建物はみな原型を留めない姿でそこにある。ほとんど平面と化した町の様子が、海竜たちが繰り出す津波の威力を物語っていた。 からからに干からびた泥に混じって、数えきれないほどの死体があちこちに転がっていた。倒壊した建物に下敷きにされた者、溺れ死んだ者、逃げる途中で力尽きた者……皆、見るも無残な姿をしていた。生き物が腐った臭い、泥の臭い、そして流された血の臭いが、ない交ぜになって辺りに立ち込めている。クロリアは思わず鼻を手で覆い、顔をしかめた。そうせずにはいられないほどひどい悪臭だった。 町の中へ立ち入ると、その惨状は更に生々しくクロリアの眼に映った。人間、竜、幻獣……これまで平和に楽しく暮らしていた住民たちは死体となり、瓦礫と泥に埋もれて沈黙していた。クロリアの踏みしめる土はどす黒い。おそらく、犠牲者たちの生命を維持していた液体の成れの果てだろう。 しばらく歩みを進めると、噴水のある中央広場に出た。相手は海竜なのだから、水場に行けば一層住民たちが不利になる。それなのに、そこには多くの人々と生き物たちが集まっていた。まさしく、パニックがもたらした惨劇だった。広場には、半分泥に埋もれ冷たくなった体ばかりが、ごろごろと転がっている。 心臓を引き裂かれるような思いで立ち止まるクロリア。やっとのことで逃げ出してきた彼らも、全員まとめて無残な死を遂げたのだ。吐息が無意識のうちに震えた。 動かなくなりそうな体に鞭打ち、彼は更に奥へ進んだ。だんだんと瓦礫は少なくなり、気がつくとクロリアは視界の開けた場所へ出ていた。リトとレディスタの家があったあの丘だ。向かいには、彼女のお気に入りだった塔が今もそびえている。しかしどちらも、遠目からわかるほどぼろぼろに崩されていた。 生気を失った野原を踏みしめ、クロリアは丘を登っていった。丘の上に建てられた家の前まで来て、呆然と立ち尽くす。 先日、クロリアとテテロが立ち寄ったときの面影はどこにもない。柱や壁はところどころ残っていたが、他は皆、原型を留めないほどの瓦礫となっていた。海竜の繰り出した津波に襲われたのだろう。色鮮やかなテーブルクロスも、日の光を柔らかに取り入れていたガラス窓も、リトのお気に入りだったロッキングチェアも、今では何ら区別なく、全てが入り混じり、泥にまみれている。 途端、クロリアはどうしようもない恐怖に駆られた。はじかれたように駆け出し、必死に敷地を歩き回った。あるものを探し求めて、次々に瓦礫を退けていく。しばらくそれを続けていたが、不意に何かに憑かれたように、静かに立ち止まった。 「――ない」 悲哀とも安堵とも取れる声音で呟かれた、その言葉。そう、クロリアが探し回っていたのは人間の遺体だった。つまりリトもレッドも、何とかここからは逃げ出せたということだ。しかしながら、それは彼らが生き残っているという証拠にはならない――。 「くろりあ!」 テテロが叫んだ。突然クロリアの体が脱力し、その場にくずおれてしまったのだ。腰に吊り下がったテテロが、がしゃんという音と共に地面に叩きつけられる。 「ごめん……。気分が、悪くなって……」 片目を覆うようにして頭を押さえるクロリア。顔色がいつになく悪い。額には汗がにじみ出ている。不安と緊張が限界にまで達してしまった、そんな様子だった。無理もない。親しい人の死という現実が、いつ目の前に差し出されてもおかしくない状況なのだ。それに加え、今の彼には船旅の疲れも溜まっている。 テテロはしばらく彼を休ませた方がいいと悟り、そっと口をつぐんだ。クロリアはじっとうずくまったまま、浅めの呼吸を繰り返した。 それからしばらくした頃だ。テテロが二度目の声をあげたのは。 「くろりあ、危ナイ!」 クロリアがビクンと体を震わせ、勢いよく後ろを振り返る。すぐ近くに痩せた少年の影があった。ぼろを着て、両手に斧をしっかりと握っている。ギラリ、滑らかな弧を描く刃がきらめいた。だがクロリアの体は動かない。ライトアローを引き抜くことも、逃げることもできない。振り下ろされる斧の向こうに、腹を空かせた獣のような形相を見た。クロリアの瞳孔が凝縮する――。 ドンッ。 「あっ!」 何かがぶつかる音と、少年の叫び声が響いた。気がつくと、クロリアの目の前に二人の人間が倒れ込んでいた。下敷きになっている方は斧の少年、のしかかっているのは見知らぬ男性だ。彼が少年に突進してきたらしい。 「何すんだ、放せよ!」 じたばたと苦しそうにもがく少年を押さえつけ、男は彼の斧を取り上げた。こうして二人を見てみると、その体格の差は歴然だ。四角い顔をした見るからに屈強な男に、ひょろりと痩せた少年が敵うはずがなかった。 男はすっくと立ち上がり、寝そべる少年に向かってドスを効かせて言った。 「今すぐ立ち去れ。さもないと……」 男は斧を高々とかざした。少年はヒッと怯えた悲鳴をあげる。一歩だけ後ずさり、次の瞬間にはまっしぐらに駆け出していった。 呆然とその姿を目で追っていたクロリアは、男が自分の顔を覗き込んでいるのに気がついて我に返った。 「馬鹿なやつだ。こんなところで無防備にうずくまってるなんて、あきれた度胸の持ち主だぜ」 男は手斧をぽいと投げ捨てた。被害者であるクロリアを気遣う様子もなく、彼はべらべらと容赦なく続ける。 「今やここは無法地帯なんだぞ。この町に残された奴らは、生き延びようと必死だ。そのためにどんな手も使ってくる。強盗、物乞い、人殺しもまた然り、だ」 そこまで話して、男はふうっと溜息をついた。先ほどよりも落ち着いた様子で、クロリアに問いかける。 「お前、この町の人間じゃあないな。どうしてこんな、何にもなくなっちまったとこへ来た」 「……家族と親友がここに暮らしていたんです」 クロリアは視線を落としながら、生気のない声で語った。 「でも、俺が旅に出ている間に町が襲われて……。会って、二人が生きていることを確かめたくて来たんです。せめて安否の確認だけでも……」 うんうんと頷きながら話を聞いていた男が、最後の方で、何かを思い出したように顔をあげた。 「もしかしたら、力になれるかもしれん」 その静かな声に、クロリアはハッと息を呑んだ。 「生き残ったやつは、すぐ隣のトレーユって町に一時的に避難してるんだ。数日後に列車が出て、ちゃんとした医療施設のある都会に移るらしい。とは言っても、運よく助けられた一部の人間だけだがな。竜や獣人たちは見殺しだったそうだ。お前の探しているやつが人間なのなら、もしかしたらそこに――」 「どこですか!」 かじりつくような勢いでクロリアが言った。男がのけぞってひるむ。そんな彼にはお構いなしに、クロリアは勢い込んでまくし立てた。 「教えてください。どこなんですか、その町! 場所を教えてください!」 「おいおい、待てよ。落ち着けって」 今にも飛び出しそうなクロリアを引きとめ、男は冷静になるよう促す。だがクロリアは引こうとしなかった。 「リト爺とレディスタがそこにいるかもしれない。少しでも可能性があるなら、確かめに行きたいんです! お願いします!」 クロリアはもどかしそうに、しかしきっぱりと言い放った。 男は少しためらっていたが、クロリアの必死さにおされ、首をゆっくりと縦に振った。そして向けられた瞳は、厳しい光を放っていた。現実は甘くないということを、物語るような眼差しで。 |