第三話 癒えない傷



 クロリアとその腰に下がったラジオ――もといテテロがトレーユに着いたのは、太陽が頭の真上に昇った頃だった。
 小さな町は、シルヴィラスからの難民で溢れかえっていた。病院はすぐ満員になり、特設された臨時施設ですら全ての難民を収容することはできなかった。運悪くはみ出してしまった人々は、埃っぽい風を吸い込みながら、地べたに体を寄せ合って座り込んでいる。町が崩壊する以前の明るい輝きは、その瞳には映っていない。
 クロリアはここまで案内してくれた男と別れ、レディスタやリトを探しに出た。まず町の病院へ向かったのだが、そこの名簿に二人の名前はなかった。それで今は、特設病院の方へ足を運んでいるところだ。
「くろりあ、見ツケタ?」
「いや……。でも、絶対どこかにいるはずだ」
 時折周りを見渡しては、小声でそんなやりとりを繰り返す。人ごみの中にリトやレディスタの姿が見えないか、祈るように探し回った。どこかにいる、と自分に言い聞かせながら、クロリアは先を急ぐ。
 その時だ。
「!」
 視界の片隅で何かが動いた。ハッとしてその一点を凝視するクロリア。
 人ごみの中に、ベージュのベールをすっぽりと被った少女がいた。胸の前にパンを大事そうに抱えている。そしておもむろに、たった一つのそれを道端に座る子供たちに手渡した。子供たちの母親は目に涙を溜めながら、少女に何度も頭を下げた。きっとこの町では、あまりの避難者の数ゆえ、食事の配給もままならないのだろう。
 クロリアが見守る中、不意にその人は振り返った。そっと、自然な動作で。
 そうして見えた少女の顔に、クロリアは目を見開いた。少女のベールがひらりと舞い、さらさらと前髪が揺れ、金色の瞳がクロリアのそれと向き合う――。
 途端、彼女は背を向けて走り出した。はじかれたように、一目散に駆け抜けていく。いきなりの行動に驚き、クロリアは一瞬立ち尽くしてしまった。しかしすぐに気を取り直し、少女の後を追う。
 今の少女はきっと、いや、間違いなく――! クロリアの真っ直ぐな蒼の瞳は、もう彼女しか映していない。じわじわと二人の差は縮まり、まもなくクロリアは少女に追いついた。咄嗟に路地裏へ逃げ込んだ彼女の手を、しっかりと捕まえる。
 反射的に少女はクロリアの方を振り向いた。その反動で、頭を覆っていたフードがふわりと取り払われる。中に収まっていた真紅の長髪が、まるで花が開くかのような滑らかさで、しなやかに波打ちながら下りた。
「やっぱり……レッド!」
 クロリアが思わず口走る。同時に、目じりが熱くなるほどの安堵感が一気にこみ上げてきた。レディスタが生きていた――その事実が、無条件に嬉しかった。胸の中を埋め尽くしていた不安と焦燥が、するすると紐解けていく。
 しかしレディスタの方は、怯えたような目でクロリアを見つめている。次の瞬間、彼女は突発的に叫んだ。
「放して!」
 思いがけない言葉に、クロリアの顔が引きつった。
「お願い、やめて! 放してよっ!」
 少しでも手の力を緩めれば、あっと言う間に逃げていきそうな勢いだった。レディスタは身をよじり、必死で手を振り解こうとしている。やっとの思いで再会できたこともあって、クロリアは彼女が自分のもとから離れるのを恐れた。
「お……おい、どうしたんだ! 俺だよ、レッド!」
 尚もレディスタは拒絶し続ける。クロリアはぐっと唇を噛み、彼女のもう片方の手を乱暴に押さえつけた。細い手首を握り締め、後ろの壁に縫い付ける。
「痛っ……!」
 短い悲鳴をあげるレディスタ。しかし今のクロリアには、レディスタを思いやる余裕などなかった。逃がしたくない。もう二度と離れたくない。その切な思いが、彼を駆り立てていた。
 キシ……。
 不意に、何か硬い音がした。金属の軋むような、鼓膜をくすぐる音だ。何かと思い、クロリアは今しがた押さえたレディスタの右腕を見た。音は確かにそこから鳴っている。袖の中から出ているレディスタの腕を目に留めた瞬間、クロリアの瞳孔がぎゅっと凝縮した。
 ――柔らかな肌色を湛えているはずの腕が、機械化している。
 いや、一部は辛うじて元のままの肌を保っている。しかしその光景はまるで、機械が彼女の腕を蝕んでいるようだった。うねる銀色の木の根とも、金属片の寄せ集めともつかない物体が、彼女の腕にまとわりついている。その姿にクロリアは、自分の体を侵食する天使と悪魔の文様を重ねてしまった。
「これは……」
 しばらく絶句していたクロリアが呟くと、レディスタは悲痛な面持ちで視線を逸らした。綺麗な金色の瞳から、光が失われていく。
 痛い沈黙が二人を包んだ。路地裏の向こうの道を、何人もの人が機械的に通り過ぎていく。古い映画のフィルムをスローモーションで再生しているような、そんな感覚だ。
「……怖かったの」
 ぽつり、レディスタが言葉を零した。
「見られたくなかった。こんな、化け物みたいな腕……。だから逃げてたの。クロリアに会えてすごく嬉しかったのに、私、怖くて……」
 潤んだ瞳を懸命に逸らしながら、レディスタはかみ締めるように言った。苦しそうに顔を歪めているのに、涙を流すことは決してしない。必死に耐えているその様子が、儚くて、痛々しくて――ひどく愛おしい。
 クロリアは切なげな声で、静かに呟いた。
「……何があったのか、聞かせて」



 温かな光の降り注ぐ、シルヴィラスの町。青空はいつにもまして鮮やかだ。いつものようにレディスタは、買い物がてら町を散歩していた。前に抱えた紙袋の中の林檎が、彼女の歩いた後に甘酸っぱい匂いを漂わせていく。
 クロリアが町を出ていってから、もう三日も経つ。彼が長居をしないことくらいわかっていたが、やはり傍から彼の気配がなくなってしまうと、寂しさを感じずにはいられなかった。
 何年ぶりかに再会したクロリア。大人びてはいても、幼い頃の面影をちゃんと残したあの笑顔。夕暮れの塔で初めて見た、旅人としての鋭い瞳。彼が塔の上から吹いてくれた、蒼い笛の音。何もかもはっきりと思い出せる。
 ──そして、哀しみに溺れていた自分を抱きしめてくれた、クロリアの温もり。切なげな声で自分の名を呼んで、優しく包み込んでくれた。あの時は涙を流すことで精一杯だったけれど、今思い返すと頬が熱くなってしまう。あんなにクロリアを近くに感じたのは初めてだった。彼の温かみがそのまま伝わってきて、すぐ耳元で名前を囁かれた。本当に、吐息を感じることができるくらい近くで……。それを思うだけで、胸がどきんと高鳴ってしまう。
「号外、号外ーっ!」
 新聞売りの高らかな声を耳にし、レディスタは我に返った。ぼうっとしているうちに、いつの間にか中央広場まで来ていたらしい。
 刹那、レディスタはその場の異様な雰囲気を感じ取った。人や獣人や竜たちが、新聞売りの撒き散らす紙を掴み取っては、紙面を指差し、口々に何か言い合っている。レディスタは、足元に落ちていた新聞を拾い上げた。見出しを一目見た途端、驚愕に目を見開いた。
 “火炎竜がアトルスを襲撃 八千人の死者 一夜のうちの大惨事”
 レディスタは思わず、新聞紙をくしゃっと握り締めた。震える手を必死に押さえ、記事を読む。
 それは一昨日のことだったらしい。明け方、何十もの竜たちが何の前触れもなしに町へ押し寄せ、人々を民家ごと押し潰し、焼いてしまったという。命を落としたのが八千人と書いてあるが、それはあくまで今現在見つかっている数にすぎない。瓦礫の撤去作業は今でも続いている。そこから新たに見つかる犠牲者も多いだろう。それに、町に住んでいるのは人間だけではない。獣人、幻獣、仲間である竜も大勢集まっているのだ。もちろん襲撃をした竜たちも無傷ではないだろう。彼らも合わせたら、一体どれほどの犠牲者数になるのだろうか。
 アトルスといえば『物売りの集う町』として有名な一大商業地域だ。竜族への偏見も差別も持っていない、至って平和で賑やかな町だった。それなのになぜ──。
「復讐だな」
 隣で同じように新聞を立ち読みしていた男性が、ぼそりと呟いた。不安そうな視線を送りながら、レディスタが小さく言う。
「復讐?」
「そう。近頃、竜狩りが流行ってるだろう。皮とか肉とか、商業目的で狩猟すんのももちろんだけど、ここんとこ娯楽としての竜狩りが増えてんだよな」
 百年前の史上最悪な戦争、カノロス人竜大激戦。それを境に、一時的に人間の竜狩りは減った。しかし獣を狩るという行為は人間の性らしい。大戦の記憶が薄れていくにつれ、人々はまた竜族の狩猟を再開した。しかも最近は消費目的ではなく、単なる娯楽としても広まってきているのだ。
「竜たちからしてみれば、やっぱり頭にくると思うんだよ、そういうの。だからここで一気に復讐しようとか、そういう意図じゃねえかなあ。この火炎竜たちは、この切羽詰まった状況の中で、竜と人がのうのうと共存してるアトルスが気に入らなかったんだろうな」
 すると周りにいた竜たちが、口々に同意見を唱えた。「それは一理ある」とか「外の人間は過激だ」とか、深刻な面持ちで語り出す。
 冷静に考えれば、多くの竜たちは、復讐が更なる悲劇を招くことくらい容易に想像がついただろう。しかし今の世界情勢は、そんな穏やかな雰囲気ではなかった。あちこちでいがみ合いが絶えず、いつなんどき戦火が燃え上がるか判らないほど緊迫している――言うなれば一触即発の状態なのだ。竜たちが平静を失って感情に流されてしまったのも、無理はなかった。
 しかし、数少ない共生の町がひとつ潰れたというのは、あまりにも衝撃的な事件だ。もしかすると──。
「次に襲われるのは、この町かもしれないな……」
 誰かが呟いた。広場にいた住民たちが、一斉にどよめく。
「言わないで! 考えただけでも恐ろしい……」
「そうさ、そんなことあるはずがない。こんなに平和な町が他にあるか?」
「アトルスだって、竜と手を取り合って歩んできた町なんだぞ。このシルヴィラスと変わりないじゃないか……」
 胸が締め付けられる思いで、レディスタはその場に立ち尽くしていた。
 その夜、レディスタはなかなか寝つけなかった。炎を上げ滅びていくアトルスの町が、網膜に焼き付いて離れなかった。瞼を閉じると、真っ赤な火と血、そして泣き叫ぶ人々が脳裏を掠める。実際に現場にいたわけでもないのに、レディスタにはそれが恐ろしいほどの臨場感をもって迫ってきた。
 ──次に襲われるのは、この町かもしれない。
 誰かがぽつりと零した言葉。忘れようとしても忘れられず、考えまいとするほど頭を何度も駆け巡る、あの言葉。
 あり得ない。そんなことがあるはずがない。これほどまでに平和で穏やかな町が戦場に変わるなど、考えられない。大丈夫だ、この町は。どんなに似ていても、アトルスとは別の町なのだから。同じように考える必要はない。平気だ。眠ってしまえば、何も怖いことはない……。
 自分にそう言い聞かせ、レディスタは瞼をそっと閉じ、眠りについた。
 ──しかし現実は残酷だった。
 真夜中、シルヴィラスの町は轟音と悲鳴に包まれていた。
 竜の猛り。凄まじい破壊音。襲ってくる濁流。深紅の血。流される死体。逃げ惑う住人。泣き叫ぶ子供……。襲ってきたのは、町の南方に位置する海岸からやってきた海竜たちだった。シルヴィラスはそれまでの穏やかさが嘘のような、悲惨な状態と化した。その地獄さながらの町を、レディスタはリトを連れて駆け抜けていた。
「リト爺、頑張って。もうすぐ広場に着くから……!」
 レディスタは必死でリトの手を引き、彼が転ばないぎりぎりの速さで、中央広場へと向かっていた。
 二人が住んでいた丘の家は、竜の繰り出す津波によって、あっという間にめちゃくちゃにされてしまった。二人とも無事に脱出できたのが信じられないほどだ。全て濁った激流に押し流された。家も、写真も、財産も、手紙も。レディスタは思い出を全て粉々にされてしまったような感覚を覚えた。溢れそうになる涙を懸命に堪え、ただひたすらに道を行く。
「ああ……」
 レディスタの口から、安堵の溜息が零れ落ちた。やっと広場が見えてきたのだ。彼女は苦しそうに息をするリトを励ましながら、足を速めた。きっと多くの住民がここまで避難している。全員まとまって、一刻も早くこの町から逃げよう――。
 しかしレディスタは愕然とした。数え切れないほどの住民が、あちこちに倒れ伏している。石畳の上に溜まった濁水は、死人の血で染まっていた。
 ふと、倒れていた獣人がレディスタとリトを見つけ、息も絶え絶えにこう言った。
「来る……な……」
 その意味は、身をもって思い知らされることになった。
 突如、噴水から一頭の海竜が姿を現した。憎しみの炎をともしたその瞳は、まっすぐにレディスタたちを見据えている。レディスタは恐ろしさのあまり、逃げることも忘れて立ち尽くした。そんな彼女をリトはどんと突き放し、言った。
「レッド、逃げるんじゃ!」
「だ、だめよ! リト爺も一緒に……」
「いかん! 逃げるんじゃ、はや──」
 言葉はそれ以上続かなかった。海竜の巨大な爪が、リトの背中を薙いだ。鮮血が周りの空気を染める。老いた体が、ぱしゃんと水を跳ねさせて石の上に倒れた。レディスタはしばし我を忘れた。しかしその事実が把握できた瞬間、どうしようもない絶望と恐怖が彼女を襲った。
「り……リト爺! リト爺ー!」
 海竜が、今度は彼女に目を向けた。レディスタの肩が、大きくびくんと震える。
 逃げる間もなかった。レディスタは右腕に、妙な感覚を覚えた。見てみると、自分の右腕が大きく裂け、そこからものすごい勢いで紅い液体が噴き出していた。続けて足やわき腹にも同じ感覚が走った。何が起こったのかわからなかった。しかしそのとき、痛みという言葉では表しきれないような激痛が襲いかかった。熱い紅いものは、レディスタの頬にも飛び散った。彼女は顔を引きつらせた。
「あ、あぁ……いや……いやあああああああ!」
 レディスタの絶叫が、夜空をつんざいた。
 その後のことは、あまり覚えていない。海竜たちの猛りがふっつりと途絶えたこと。辺りがだんだんと明るくなり、騒ぎも治まっていったこと。自分がただ、痛みも忘れて放心していたこと。それくらいしか思い出せなかった。
 明け方頃、レディスタは誰かの声を聞いた。頬や肩を叩かれ、必死に何か呼びかけられた記憶がある。彼女の意識は朦朧としていたが、彼らが自分を助けようとしていることは何となく察した。
 自分は生き残ったのか――。
 それを悟った瞬間、レディスタは完全に気を失った。





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