流転する世界
頬を伝う涙の理由は――







第一話 運命に導かれて



 汽笛が紅い空に響き渡る。いつの間にか、窓の外はすっかり夕暮れ時になっていた。規則正しい振動を窓枠についた肘に感じながら、クロリアは無言のまま地平線を見つめる。テテロは向かいの席で、すやすやと寝入っていた。
 シルヴィラス行きの列車は、予想どおりかなりダイヤが乱れていた。と言うより、列車の数が極端に少なくなっていたのだ。おかげで二人は駅で数時間も待たされた。しかもいざ乗ってみると、汽車のスピードはかなり遅い。この分だと終点に着くのは夜明けになりそうだ。それでも今の彼らには、移動手段がそれしかなかった。傷の完治していないテテロに、長距離飛行をさせるわけにはいかない。
 だがクロリアが思い悩んでいるのは、出足が遅れたことなどではなかった。
 列車の数が少ないというのは、利用者が減ったということだ。それは同時に、その場所に列車を通わせる必要がなくなったことも意味する。つまりシルヴィラスにはもう――。
 クロリアは緩く首を振った。夕日に柔らかく染まった蒼髪がさらりと揺れる。こんなことを考えてしまう自分が嫌だった。しかしそれでも現実は否定できない。シルヴィラスの一件は、今までの話を聞く限り、決して生半可なことではないのだから。
 彼は町に着くまでに睡眠をとるつもりだった。これまで無理ばかりして、精神的にも肉体的にもかなりの疲労が溜まっていたからだ。だがそれにも関わらず、今のクロリアに眠る余裕はなかった。頭の中はあの平和で穏やかなシルヴィラスの町、そこに住む育ての親、そして何より、先日再会したばかりの幼馴染みのことでいっぱいだった。
 レディスタ……。
 心の中で静かに、しかし切実にその名を呼ぶクロリア。赤みがまだほんの少し残る空に、星が瞬き始めていた。



「ねえ。あそこに座ってる人、ちょっと素敵じゃない?」
「本当だ。うわー、かなり格好いいよ!」
「えっ、どこどこ?」
 ウエイトレスの少女たちがこそこそと言葉を交わしている。視線の先にいるのは、窓際のテーブルで珈琲をすする、旅人らしき少年だった。身にまとう服も横の椅子に掛けられているマントも、全て黒一色。その漆黒にガーネットのピアスがよく映えている。短めの金髪に端正な顔立ち、そしてその瞳は純粋すぎるほどの銀だ。
 朝も過ぎた頃。ここは駅の広場の一角にあるカフェだ。港に着いた旅人や商人は、大抵まずこの広場までやってくる。船乗りたちにとって、疲れを癒そうと一息つくにはおあつらえ向きの場所というわけだ。そのお陰で、この喫茶店も景気は上々だった。
 少女たちは三人で集まり、興味津々で旅人の方へ近づいていった。少年が気配に気づいてフッと顔を向けた途端、少女たちは頬を染めた。一目で女の子を夢中にさせるような美少年だ。可愛らしさの残る、しかし綺麗に整った顔立ちをしている。
「と、突然ごめんなさい。旅人さん……ですよね?」
「お一人で旅を?」
「ああ」
「すごい! 私には絶対できませんよ」
 一声聞いただけで、きゃいきゃいと騒ぐウエイトレスたち。
「これから別の町へおいでになるんですか?」
「そうだな。ここを出たらすぐに向かうよ」
「そんなぁ、もっとゆっくりしていって構いませんのに」
 少女が残念そうに言った。すると他の一人が少し遠慮がちな声音で尋ねる。
「あの、宜しければこの辺りの町についてお教えしましょうか? ロルクとかディゼルダなら、列車で一時間もすれば行けますよ」
「私たち、近場の町のことはちょっとだけ詳しいんです」
「そう。有名なお店とか、観光地とか、居心地の良い宿とか」
 そんな少女たちを見て、旅人は可笑しそうに笑った。思わぬ反応に驚き、ウエイトレスたちが慌てふためく。
「す、すみません。私たち何か変なことを――」
「いや、そうじゃない。俺が聞きたいことは、君たちが知らなさそうなことばかりだな、と思って」
 端麗な笑みに見入りそうになりつつも、少女たちは必死になって言った。
「そ、そんなことないです! 仰ってみなきゃわかりません!」
「それじゃあ聞いてみようか……。『許されざる者』について、何か知ってるかい?」
 一瞬にして気温がぐんと下がったような感覚。少女らの顔から血の気が引いた。旅人の周りにいた客までもが静まり返る。ウエイトレスの一人が、引きつった笑顔で言った。
「ご……ご冗談はよして下さい、旅人さん。そんな縁起でもないこと……」
「冗談なんかじゃない。真面目に質問したつもりだよ」
 平然とした顔で淡々と話す少年。少女たちは恐怖と困惑の入り混じった表情で、互いに顔を見合わせた。
 古代伝承に記された、世界を滅ぼすとされる『許されざる者』。彼は二ツ月の年、強大な魔力を携えて大地に降り立つという。そしてその運命の年は、いつの間に時が過ぎていったのか、何とひと月後にまで迫っていた。この想像を絶する漠然とした予言を、身をもって実感することは難しい。だから人々は、予言を自分のこととして受け止めようとはしなかった。しかし彼らは同時に、そこはかとない不安と恐れも抱いていた。音もなく忍び寄ってくる二ツ月の年の存在は、確実に、人々に得体の知れない恐怖感を募らせている。
 そんな中、この少年は何のためらいもなくその名を呼んだのだ。少女たちが戸惑うのも無理はなかった。
 しばらくしてから旅人は一つ息をつき、優しいとも哀しいとも思える微笑を浮かべた。
「知らないのなら、かえってその方が幸せかもしれない。唐突な質問、すまなかったな」
 そしてまたカップを持ち上げ、静かに珈琲を飲み始める。少女たちは彼の期待していた返事ができなかったことを悟り、残念そうにしていた。居心地の悪い空気にも耐えかねて、その中の一人がむりやり話題を変えようと呟いた。
「あーあ、羨ましいな。自由に世界中を歩き回って、いろんなものを見たり聞いたり……。素敵よね、旅人って」
「だけど危険なこともいっぱいあるじゃない」
「そうそう。竜とか猛獣とかに遭ったり。それだけは絶対に嫌よ、私」
「そうだ、竜と言えば。昨日そこの道を、竜を連れた旅人さんが歩いてたっけ。ほら、あっちの駅に向かって」
「いたいた! 羽を何枚も生やした気味の悪い竜が。まったく、あんな汚らわしい生き物と一緒にいるなんて最低!」
「でも旅人さんの方はかなり格好よかったよね。もったいないなぁ……」
 少女たちのお喋りを聞いていた旅人が、ある一言にピクンと反応した。
「翼を幾つも持った竜――?」
 突然口を開いた少年を、店員たちはきょとんとして見つめた。彼はカップを唇から離し、少し急かすような口調で問う。
「その旅人、容姿は?」
「えっと、茶色のコートを羽織ってました。年齢は多分、私たちとそう変わらないかと……」
「髪や瞳の色は蒼だったか?」
「はい。すごく澄んでいて綺麗な色をしていました。あの、お知り合いですか?」
 少年は目を見開いた。まさかこんなところに奴がいたとは。しかもここまで近づいておきながら、自分は奴をみすみす逃がしたのか――!
 次の瞬間、彼はマントを肩に掛けて席を立った。何も言わず、足早に玄関へ向かっていく。いきなりのことにウエイトレスたちは面食らい、黒い背中に引き止めの声をかけた。少年はスッと振り返り、少女の手に何か小さなものを握らせた。
「支払いはこれで足りるな」
 彼女がそっと手を開くと、そこにあったのは何とクレス金貨だった。珈琲一杯とはとても釣り合わない金額だ。何事もなかったかのように再び歩いていく少年に、少女は思わず叫んだ。
「い、いけませんこんなに! 旅人さん!」
「急ぎの用事ができた。受け取ってくれ」
「そんな……。一体何があったんですか?」
 今や客も店員も、皆こちらを凝視していた。およそ遠慮というものを知らない視線が突き刺さる。少年はドアの前で立ち止まり、静かに呟いた。
「――獲物を狩りに行く」
 店中がしんと静まり返る。謎めいたその言葉を理解する者は、誰一人としていなかった。旅人は沈黙する彼らにはお構いなしに、そっとドアの向こうに消えた。
 町をしばらく進むと、いつの間にか視界の開けたところに出た。駅の前までやってきたのだ。その向こうにはあまりにも殺風景な景色が広がっていた。赤茶けた大地と、地平線に向かって敷かれた一本のレールしか見えない。その先に待ち受けるのは、荒廃した平和の町、そして――。
 少年の黒マントが、砂塵を伴った風にたなびく。ふわりとそれが持ち上がった瞬間、腰に吊った金属が不気味に光った。そう、それはたった一人のターゲット『許されざる者』を狩るための銃器。
 彼は確信していた。奴は必ずあの町にいる、と。レールの続く先を見つめながら『狩人』は呟いた。
「……待っていろ、クロリア」





back main next
Copyright(C) Manaka Yue All rights reserved.

inserted by FC2 system