クロリアとテテロの二人がティエルの町に来て、早三日が経った。 時間は、いつになくゆっくり進んでいった。のんびり、ゆったりした毎日。朝は日射しを目一杯浴びて、時計台の鐘の音を聞きながら、飛び交う鳩を眺める。新しくできた仲間と遊び、行き交う人々と他愛のない話で笑う。そして夜はそよ風に身を任せ、満点の星空の下、深い眠りにつく。いつしかクロリアとテテロは、この心安らぐ生活に何の疑問も持たなくなっていた。ここは楽園だ。離れなければいけない理由など、どこにあるだろう。 今日も風任せに、彼らは町を散策していた。途中、綺麗な小川を見つけた。テテロは水浴びができると喜んで、思い切り飛沫を上げて飛び込んだ。クロリアとミラが、そんな彼を見て笑う。橋に腰掛けながら、クロリアはふと思いついて言った。 「そう言えば、前にもあったよな。こんなこと」 「何ガ?」 「ほら、どっかの町でさ。お前、噴水で同じように水浴びしてた」 アア、アノ時ネ、と、テテロは笑った。 「くろりあガ『大人ゲナイ』ッテ言ッテタッケ」 「そうそう。それでその時……。あれ……?」 「? どうかされましたか?」 ミラがクロリアの顔を覗き込む。クロリアは顎に手を当てて考えていた。何かを必死で思い出そうとしているような、そんな顔だった。 「あの時……俺、誰かに会ったような……」 「エ? ソウダッタッケ?」 「何か凄く嬉しくて、懐かしかったのは覚えてるんだけど……。誰だったっけ? おかしいな、思い出せない……」 感覚は覚えているのに、なぜか顔が浮かんでこない。確か女の子だ。テテロがいた噴水の傍に座って、自分が駆け寄ったら彼女も立ち上がって、それで……。場所はどこだっただろうか? 家、噴水、草原、塔、そう言えばここと同じように鳩もいたような気がする。だが町の名前が出てこない……。喉元まで出かかっているのに、頭の中にある像はぼやけたままだった。テテロは全く覚えていないようだ。しかしクロリアは、そのおぼろな記憶に妙な引っかかりを感じていた。 そのとき。 「!?」 クロリアの視界が真っ白になった。郵便配達の鳩たちだった。彼らが一斉にクロリア目がけて飛んできたのだ。クロリアが思わずのけぞる。するとその弾みで、ベルトポーチから蒼い笛が飛び出した。 「あ……っ!」 半ば反射的に、笛に手を伸ばすクロリア。橋から落ちる寸前で、笛は彼の手の中に収まった。鳩たちは何事もなかったかのように、空の彼方へ飛び去っていった。 「危なかった……もう少しで落ちるとこだったぜ」 安堵の溜息が漏れる。クロリアが大事そうに見つめるそれを、ミラが興味深げに眺めた。 「綺麗ですね。それ、何ですか?」 「笛だよ。変わってるだろ、これ」 「本当ですか? 何て不思議な楽器……」 興味津々のミラに、クロリアは思わず笑みを零した。しばらく笛に見入っていたミラだったが、突然クロリアを見上げて言った。 「あの、今吹いてみてくれませんか?」 きょとんとして、クロリアが視線で問い返す。ミラがふんわりと笑った。 「聴いてみたいです、その笛の音。クロリアさんのお好きな曲で構いませんから」 待ちきれない様子のミラを見て、クロリアも笑顔を浮かべ、頷いた。笛をそっと唇に当てる。笛の冷たさが溶けていく。笛がその存在を、クロリアに示しているかのようだった。クロリアはゆっくりと眼を閉じ、柔らかい息を吹き込んだ。 ふわ……っとした音と風が、辺りを包み込む。楽園に更なる光が注ぎ込んだ。その音色を例えるならば、それはオルゴールやハープ。その風に色彩があるならば、それはパステルの七色。花が笑う。小鳥たちが歌う。その穏やかな戯れに、笛の音が加わる。胸の中が、温かなもので満ちていく……。 不意に、クロリアの閉じられた瞼に何かが映った。金色の草原。夕映えの空。一本の木。その周りではしゃぐ、三人の幼い子供達――。 クロリアは息を呑んだ。見覚えがある。こんな光景には、以前も出会った。あの蒼髪の少年は自分。手に持っているのは、蒼い笛だ。幼年の自分と戯れているのは、深紅の髪を持った少女と、透き通るような金髪の少年。誰だろうか。覚えているようで、思い出せない。逆光で顔が見えない……。 その時だ。小さなクロリアが、その名を呼んだのは。確かに聞こえた。そう、そうだ。あの二人は――! 記憶の断片は、そこでふっつりと途絶えた。 「……クロリア……さん?」 「くろりあ、ドシタノ……?」 ミラとテテロの心配そうな言葉は、クロリアの耳には届いていなかった。クロリアは知らぬ間に、眼を開いていた。それでもまだ鮮明に残っている、残像。金色の世界で見た、懐かしい思い出。 「ジン……、レッド……」 クロリアの唇が、勝手にその名を紡いだ。途端、吹き出すように記憶が甦ってきた。ばらばらになっていたパズルのピースが、一気に形をなしていく。 嗚呼、忘れていた。一番大切にしたかったひとを、記憶を、思い出を、失うところだった。ジン。レディスタ。そう、今はちゃんと思い出せる。大事な、かけがえのない仲間だ。自分は夢に酔っていた。夢はひとを幸福にしてくれる。しかしその代償として、過去の思い出を吸い取ってしまう。安易に安らぎを求めて、全てを手放した自分が馬鹿だった。蒼い笛がいてくれなかったら、今頃自分は……。 「そうだ、俺は……!」 そう叫ぶと共に、クロリアは脱兎の如く、ラファエルの館へと走り去ってしまった。 ラファエルは硝子越しの虚空を見つめていた。流れる金髪が、日の光に煌めく。深いグリーンの瞳には、切なさが滲み出ていた。まるでこの世の全てを受け止め、背負っているかのようだ。迷いも怖れもない。その代わり、世界の儚さへの同情の念もない。遠くから見守るような眼差しで、彼は空を見上げている。 ――時が、来る……。 彼が心の中で呟くのと、部屋の戸が勢いよく開いたのは、ほとんど同時だった。 「……やあ。よく来たね、クロリア」 肩で息をしているクロリアと対照的に、ラファエルは落ち着いたものだった。開け放った扉の前で、クロリアは立ち尽くしている。ラファエルを見据えるクロリアの眼は、いつになく真剣だった。 「……頼みがあります」 「そう。何?」 「俺を……俺たちを、元の世界へ帰してください」 静寂が部屋に立ち込めた。クロリアとラファエルは、お互いに視線を逸らさなかった。ラファエルの表情は、微塵も変わらない。驚きという感情が、全く見受けられなかった。 「前に君は、還るつもりなのかと訊いたとき、そうは答えなかったね」 「今は違います。自分のいるべき場所が判ったんです」 そう。穢れて汚れて、それ故美しい現実世界。そこが、自分の故郷。自分の存在するべき場所なのだ。待っているひとがいる。自分を案じてくれるひとがいる。守りたい人がいる。逢いたいひとがいる。だから自分は、戻らなければならない。義務なんかではない。これは自分の、本当の意志だ。 ラファエルは、クロリアの心境を察した。 「しかしそれは、君自身が編み出した答えだ。相棒の竜君は、本当にそう望んでいるのかい? ……それに、ミラをどうするつもりだ」 クロリアの肩がびくんと震えた。ラファエルは現実だけを、クロリアの目の前に差し出す。それは時に無情な行為となる。 「あの子は君を必要としている。クロリア、そのことは君も判っているはずだ。君がいなくなったら、あの子はまた一人になる。薄汚れた世界で孤独になるより、幸せな世界で孤独になる方が辛いとは思わないかい? 彼女は半年間も、そうして過ごして来たんだよ」 ラファエルの一言一言が、クロリアの喉に突き刺さっていく。 ミラは孤独だったのだ。確かに、安らかで平和な生活と、優しくて思いやりのある生き物や人々は、彼女を幸せにした。しかしその反面、彼女には心のよりどころとなる人間がいなかった。幸せなはずなのに、心にはぽっかりと穴が空いている。そんなもどかしい感覚を、彼女はずっと抱え込んでいたのだ。 「僕は君の未来を強いることはしない。でも決断をするからには、そういった背景も、ちゃんと胸に刻んでおいて欲しい」 クロリアの一途だった眼差しに、迷いの影が掠めた。 その時だ。 「クロリアさん!」 背後にクロリアは、彼女の声を聴いた。ミラだ。テテロも一緒にいる。二人とも不安そうな目で、クロリアを見つめていた。 「くろりあ、ドウイウツモリダヨ!」 「まさか……」 伏し目になるクロリア。二人も状況を察した。途端、テテロの罵声が飛んだ。 「嫌ダ! くろりあ、何デ還ルナンテ言イ出スンダヨ! ココハ楽園ダヨ? くろりあダッテ、良イ所ダナッテ言ッテタジャナイカ。離レナキャイケナイ理由ナンテ無イ!」 「あるさ。俺たちはずっと、あの世界で暮らしてきたんだ。それに、俺たちを必要としてるひとがいる。だから俺は……」 「イルモンカ! くろりあ、オ前ハ『許サレザル者』ナンダゾ!」 クロリアの眼に、恐怖の色が浮かんだ。テテロは尚も続けた。 「元ノ世界ニ還ッテモ、マタ皆カラ恐レラレテ、悲シイ思イヲスルダケダヨ! ココナラ皆、くろりあヲ判ッテクレルジャナイカ!」 「でも……」 「ソレニココハ、俺達竜ノ事モ受ケ入レテクレル。アッチノ世界ジャ、俺達ハ蔑マレルダケダ! くろりあ、俺ハ還ラナイヨ、絶対ニ。ココデ暮ラスンダ!」 テテロの言葉に、クロリアは少なからずショックを受けた。確かに彼が言っていることは正しい。でも、それだけじゃ駄目なんだ……。しかしその思いは、言葉として出てこなかった。自分の中で、決心が揺らいでいくのが判った。 「……クロリア。あともう一つだけ、言わせてくれ」 不意に、ラファエルが口を開いた。 「この町は、夢としての完成度が高い。だから必然的に夢からの脱出は困難になる。丁度、なかなか目覚められない春の眠りと同じようにね。町を出ていくときは、それなりの試練を受けて貰うことになるよ。例えば……」 次の言葉に、クロリアの目が見開かれた。 「……君の中に眠る、『許されざる者』の力を開眼させる、とか」 |