第三話 夢に眠る



 ミラとクロリアは昨日と同じように、また町を歩いていた。しかし今日はちゃんとした目的がある。ミラが伝書鳩で、町の長・ラファエルが帰ってきたという情報を手に入れたというのだ。この機会を逃す手はないと思い、朝一番でこうして館へ向かっているのだった。
 町は朝独特の落ち着いた雰囲気が漂っていた。パンを買いに出かける人、井戸に水をくみに来る人などに、時々出会った。昨日の郵便局からは、朝の配達だろうか、白い鳩たちが一斉に空へと羽ばたいていくのが見えた。
 そうしてしばらく歩みを進めると、遂に町の中心部へとやってきた。そこに大きく構えている一つの館がある。まさにここがラファエルの住まいだった。ミラは門をくぐり、呼び鈴も鳴らさず、館の戸を重たそうに開けた。怪訝そうな顔でクロリアが訊く。
「勝手に入っていいのか?」
「えぇ。ラファエル様はこの館を、町の人が誰でも入れるようにしているんです。ここには悪事を働こうなんて思っている人、いませんから。ラファエル様もそれを良くご存じなんです」
 ミラが信じ切った口調で言うと、クロリアも何となく納得してしまった。
 館の中の大きなホールを抜け、ミラは奥へと進んでいく。そして一つの扉の前で立ち止まり、ノックした。こもった柔らかい音がし、中から「どうぞ」と声が聞こえた。二人はそっと扉を開け、中へと入っていく。
 部屋の中は、白や柔らかい金色をベースとした、優しい感じのする場所だった。大きな窓から日の光を取り入れているせいで、全体に明るい。壁がそのまま本棚になっていて、テーブルや棚の上には、見たこともない金銀の器具が飾ってある。右手には緩やかにカーブを描く階段があり、その上に一人の青年が、手すりに寄りかかるようにしてこちらを見ていた。
「久しぶりだね、ミラ。そしてようこそ、旅人くん」
 流れるような長い金髪と碧の瞳をしたその美青年は、笑顔で二人を迎えた。ミラが丁寧にお辞儀をして、挨拶をする。
「突然の訪問をお許し下さい、ラファエル様」
「あ、あの人がラファエル……!?」
 クロリアの心底驚いた声を聞いて、ラファエルはふふっと笑う。
「人々をまとめる役ってのは、胡散臭い中年の男ばかりだと思った?」
 階段を下りてくるラファエルに、クロリアは「いや、そんなことは……」としどろもどろな返事を返す。クロリアの目の前まで来て、ラファエルはにっこりと笑った。年は二十歳くらいだろうか。女でもないのに、美人という言葉が似合う顔つきだった。
「改めてこんにちは。僕がこのティエルの町を統括しているラファエルだ」
「旅人のクロリアです。こちらこそよろしく」
 握手を交わす二人。そのときふとラファエルの表情に緊張が走ったのを、クロリアは見逃さなかった。その一瞬後には、彼の表情は普段通りに戻っていたが。
「さてクロリア。君はいつ頃ここに?」
「昨日です。とある洞窟で眠っていて、気付いたらこの町の草原に……」
「そうか。ということは、君もこの町を欲していた人間の一人なんだね」
 ラファエルの言うことが判らず、クロリアは「欲している……?」と短く問い返す。ラファエルは窓の方まで歩きながら説明する。
「この町は、多くの人間が見た夢から形成されている。自分の存在意義が判らなかったり、深い悲しみに堕ちてしまった人々は、無意識のうちに自分の居場所を求める。そういった願望が形となって現れたのが、このティエルの町なのさ」
 硝子窓にもう一人のラファエルが映る。その顔は優しく、儚く、少し切なげだ。
「それらの願いや憧れを抱いた人は、あるとき突然ここに迷い込む。だからこの町は、入ろうとして入れる場所じゃない。そして大半の人間はそのままこの町へ移り住む。勿論元いた世界へ還る人も少数だがいる。でもその人は、もう二度とここへは来られない。同じ夢が二回見られないのと一緒でね」
 クロリアが、もう一枚の窓へ歩み寄る。硝子越しに見る町の人々は、とても幸せそうだ。彼らの辛く悲しい記憶は、もうどこかへ葬り去られているのだろう。そしてミラもまた、同じように。直面した人生の壁から唯一逃れる手段が、この町なのだ。二度と以前の世界には戻れないという条件付きで。
「クロリア、君の望みや願いもこの町には反映されている。相棒の竜君のものもね。だから町の中では、竜と人間が共存しているし、全ての人が争いを知らず、思いやりを持って生活している。君の本質を知って怯える者もいなかっただろう?」
「ラ、ラファエル様。なぜそれを……!」
 ミラが思わず口を挟む。クロリアが静かに言った。
「握手をしたとき……ですか」
「さすがは旅人だ。洞察力に長けている」
 ラファエルがクロリアの方を振り向き、優しく微笑む。
「君の両手両眼……それぞれ紋章が刻まれていると聞いたよ。僕が感じた妙な緊張感は、そこから発せられるものだろう。決して消えることのない烙印……辛いだろうね」
 そうなのだ。目を背けようとしても、己の体にこれらの紋章が残されている限り、クロリアは自分の本質と向き合い、悶え苦しむことしかできない。現実逃避の許されない体を、彼は授かってしまったのだ。
「君は、元の世界へ還るつもりかい」
 ラファエルの声は優しい。でもクロリアを慰めはしない。現実と真実を、彼の目の前に差し出すだけだ。クロリアは答えようとした。「勿論そのつもりです」と。しかしなぜかその言葉を、唇は紡いでくれなかった。
「……すぐに答えを出せとは言わないよ。気持ちの整理がつくまで、ここでゆっくり休むと良い」
 さ、今日はこの辺で終わりにしようか。ラファエルが笑顔で言った。



 トルコ石のように真っ青な空には、綿のような白雲がぽつぽつと浮かんでいる。この世界は、何て穏やかで綺麗なんだろう。クロリアの頭に、ぼんやりとそんな言葉が浮かんだ。草原に横たわった体は、そのまま土に還ってしまうかと思うほど力が抜けている。視界の片隅で揺れる、小さな花と青々とした草。緑と青と白の鮮やかな色彩が、クロリアを包む。
「クロリアさん……お疲れですか?」
 ミラの声が、上から降ってくる。彼女が自分のすぐ隣に腰掛けたのが判った。クロリアは目を閉じて呟いた。
「……さっきラファエルが言った言葉が、頭を離れないんだ」
「元いた世界に還るか、ということですか?」
 クロリアが無言で頷く。ゆっくりと身を起こし、何を見るでもなく、視線を下に投げて続けた。
「勿論だ、って、答えようとした。でもそれが声にならなくて……。還らなきゃいけないってどこかで思っているのに、それが何故なのかが自分でも判らない……」
 変だよな。クロリアはそう言って苦笑する。
「……それは、本当はクロリアさんが、ここに居続けたい……って思っているということなのではないですか」
 ミラがぽつりと言った。クロリアがはじかれたように彼女を見る。ミラは真剣な眼差しで、クロリアを見つめていた。
「現実世界にいた頃、クロリアさんが持っていた義務感を、そのままにしているのではないですか。そしてそれは、本当は義務なんかではない、クロリアさんが自分自身を縛り付けてしまうだけのものなのではないですか」
 そこまで言って、ふわりと花のように、彼女は笑った。
「自分の人生です。自分の生きたいように生きて、構わないのではないですか?」
 クロリアはまた、地面に視線を落とした。しばらく草原には、風の吹き抜ける音しか聞こえなかった。
「俺にはまだ判らないけど……。でも一つだけ言えるのは、俺がこの安らぎを求めていたのは確かだ……ってことかな」
 おもむろにクロリアが呟いた。そしてミラに儚げな笑みを作って見せた。ミラもまた笑った。そして――。
「あ……」
 クロリアは自分の背中に、何か温かなものが触れるのを感じた。一歩遅れて、それがミラなのだと――ミラが後ろから、抱きついてきたのだと判った。クロリアは頬が熱くなるのを感じた。ミラの包み込むような柔らかさと優しさが、クロリアの感覚を支配した。
「クロリアさん……ずっと、ずっとここにいて下さい……」
 ミラが、クロリアの耳元で囁いた。甘く、優しく、切ない声で。
 クロリアはハッとした。今気付かされた。彼女も現実世界で、何か怖ろしい体験をした一人。この町へ助けを求めに来た一人なのだ。そして彼女を支えてくれる人間は、彼女の傍にいてやれる人間は、この町にはいない。彼女はこの楽園で安らぎを手に入れると共に、孤独をも抱え込んでいたのだ、と……。
「ミラ……」
 クロリアがミラに、体をそっと預けた。頭を彼女の肩に載せる。ミラの体温が伝わってきた。彼女の淡い桃色の髪が、クロリアの頬をくすぐる。全身の疲れが、一気にほどけていく……。
 クロリアは思った。ここが、自分が生きていくべき世界なのではないか……と。





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