第五話 開眼



 一向に表情を変えないラファエルが、冷酷にさえ思えた。クロリアは完全に言葉を失った。ミラとテテロの顔にも恐怖が走った。
「……それでも、いいかい」
 ラファエルがもう一度問う。
 『許されざる者』の力を呼び覚ます。天使と悪魔の血に秘められた恐るべき力を解き放つ。それはつまり、いつ世界を破滅させてもおかしくないような状態にする、ということに他ならない。
「君の力は、今までも時々現れている。身に覚えがあるだろう」
 ある。今思ってみれば、自分の怪我の治癒は尋常でなく早い。いつか立ち寄ったルロイドの町では、ビルの十階相当の高さから平気で飛び降りたこともあった。次々と放たれるジンの弾丸を、自分は一つも余すことなく、ライトアローではじいている。そもそもこのライトアローも、自分にしか操れない。蒼い笛も、クロリア以外の人間には音を出すことすらできないのだ。
「力が開眼されると、それらの力は極限にまで達する。力を暴走させないためには、相当な精神力が必要だ。今までにない苦痛を味わうことにもなるだろう。それをしっかりと受け入れられるのならば、君を元の世界へ帰そう」
 クロリアの口から「く……」と、小さく声が漏れた。これほどまでに大きいものなのか、夢から脱出するリスクというものは。
 しばしの間、誰も何も言わなかった。物音一つ、聞こえなかった。その沈黙を破ったのは、他ならぬクロリア。すっと顔を上げて、言い放つ。
「……いいでしょう」
「! くろりあ!」
「クロリアさん、本気ですか!?」
 しかしクロリアの眼に、迷いはなかった。全てを受け止め、それでも真っ直ぐに進んでいく決意が、彼の蒼い瞳には映っていた。
 ラファエルは儚げな笑みを浮かべ、近くに寄るように言った。クロリアは一歩一歩、ゆっくりと歩いていく。後ろから引き留めるテテロたちの訴えは、彼の耳には届いていなかった。
 クロリアがラファエルの目の前まで来た。ラファエルは両手を重ね、手のひらを床に向けた。そっと目を閉じ、念じる。途端、床に錬成陣が現れ、カッと光を放った。ラファエルとクロリアを、一陣の風が巻き込む。クロリアは、体が風に解けていくのを感じた。



 気がつくと、クロリアは暗黒に包まれた世界にいた。自分の存在すら不安になりそうなほど、何もない。目の前にいるラファエルだけが、くっきりと鮮やかに映った。そして何と、彼の背中には、巨大な白銀の翼があった。
「……君の予想は正しいよ。僕は天使だ」
 開眼したラファエルは、ひとの心が読めるらしい。透き通るような声で、彼は告げた。クロリアは身動き一つ取れなかった。闇に束縛されているかのようだ。
「僕は神からの命を受けて、地上界へ降りてきた」
「命……?」
「過去に竜と人との大戦があったことは知っているね。そこで人間は、争うことの醜さ、手を取り合うことの大切さを、血と涙と犠牲によって知るべきだった。だが人間は、戦から百年も経たないうちにそれらを忘れてしまったんだ。所詮そんな生き物なのかと、神は哀しんでおられたよ。だから神は一つの試練をこの世界に授けた。人間が戦の虚しさを知り、他を思いやる心を持つまで、歴史を無限に繰り返そうと……」
 クロリアが息を呑んだ。それでは百年前の大激戦は、これから始まる果てしない螺旋への始まりに過ぎなかったというのか。
「クロリア。君の存在も、その大きな流れの一部なんだよ。神が定めたこの試練を越えるための、永い永い旅路のね。だから僕は、真実を提示する者として、君の力を開眼させる。だがその力を使うのは君自身だ。使い方によっては、それを螺旋を断ち切るきっかけにすることも可能だ。勿論、世界の破滅を早めることも……。『許されざる者』として、何ができるのか……よく考えることだね」
 ラファエルは、スッと右手をクロリアの目の前まで持ってきた。指をクロリアの額へ当てる。ラファエルの手のひらに、痛々しい天使の紋章が刻まれているのを、クロリアは見た。そして、紋章がまばゆい光を放った――。
「うあああああああああああああああああ!!!!!」
 クロリアの絶叫が木霊した。熱い。額が火のように熱い。痛い。肉体が砕け散っていくようだ。何も見えない。何も。叫ぶしかない。悲鳴を上げることしかできない。血が煮立っている。体中が燃えている。激痛は額から瞳へと、そして手のひらへと集まっていく。紋章が灼けていく。悶えることしかできない。逃げられない。自分が感じるものは、苦痛だけ――。
 クロリアは気を失った。薄れゆく意識の中で、幻覚を見た。それは両眼から血の泪を流している、幼き日の己――。



 しんと静まりかえった、町長の部屋。テテロとミラはいてもたってもいられないような顔をして、しかし音を立てるのを恐れているかのように動かない。時々視線を泳がせては、ラファエルとクロリアが消えた辺りを見つめる。そうしてしばらく経った頃だった。
「ア!」
 テテロが叫んだ。薄れかけていた床の錬成陣から、二人の姿が浮かび上がったのだ。霧のようにおぼろなそれは、徐々に実体を取り戻していった。途端、ミラとテテロはハッとした。クロリアが、ラファエルの腕の中で気を失っている。
「くろりあ、くろりあ! シッカリシロヨ!」
「ラファエル様、何があったんですか!?」
 我を忘れてテテロとミラが駆け寄る。ラファエルはひざまずいて、ぐったりしたクロリアの体を、そっと床に横たえさせた。クロリアは眠っているようにも見えたが、その顔は悪夢に犯されているように苦しそうだ。もう二度と目を覚まさないのではないかと思うほど、その瞳は深く閉じられている。テテロは妙な焦燥感に駆られた。
「……彼の内に秘められた力を呼び覚ました。すぐ意識は取り戻すだろうが、あまり期待はしないで欲しい」
「え……?」
「もう今までの彼ではなくなってしまっているかもしれない……ということだ」
「!?」
 ラファエルが苦い顔で、呟くように語る。
「開眼した『許されざる者』は、想像を絶するような威力を持ったモノだ。他者にはどうすることもできないほどの――それこそ、純粋な天使や悪魔でさえ一対一では闘えないほどのモノになるだろう。そしてその莫大な力は、クロリア自身にさえ制御できなくなるかもしれない」
「ソ、ンナ……」
「それほどのものを抱え込んでいるんだ、彼は。だから人格や記憶に障害が出ても、全くおかしくない」
 嘘だ、嘘だ……。テテロは何度も心の中で叫び続けた。クロリアは今まで、本当に『許されざる者』なのかと思うほど優しい、普通の人間だった。それがいきなり変わってしまうなんて、信じられない。信じたくない。本当にクロリアは、今までのクロリアでなくなってしまうのだろうか。『許されざる者』に……世界を滅ぼす者に、なってしまうのだろうか。
 テテロはすがるような思いで、無二の相棒の顔を覗き込んだ。優しいのに、綺麗なのに、苦しそうな、クロリアの顔……。
 と、テテロの中で何かがはじけた。洞窟の中で見たクロリアの寝顔が、頭の中に翻った。そしてそのときの、自分の決意も――。
 そうだ。自分は彼を助けなければならない。以前自分を助けてくれたクロリアを、今度は自分が、助けてやらなければならないのだ。例えクロリアが『許されざる者』として変わってしまっても。いや、そういうときこそ。自分が彼を押さえなければ。目覚めさせなければ。恐れていては駄目だ。逃げては駄目だ。現実を見据えろ。そう、今あるままのクロリアを受け止めるんだ。
 テテロの決意が固まるのと、クロリアが微かに身動きするのは同時だった。
「……っ……」
「クロリアさん!」
「くろりあ! 気ガ付イタ?」
 クロリアの唇から、弱々しい声が漏れた。テテロたちの必死な視線を浴びるクロリア。その瞼が、そっと開かれた。クロリアの瞳には、儚げではあるが、確かに光が灯っている。依然と同じクロリアの眼だ。テテロの中で、緊張の糸が少しだけ緩んだ。
「テ……テロ……、ミラ……。心配、かけた……な」
「くろりあッ、大丈夫? ドッカ変ジャナイ!?」
「あぁ……何とか……」
 息の調子はまだ整っていないが、とりあえず意識は戻ったようだ。クロリアがゆっくりとした動作で身を起こす。その動きから、クロリアが体力精神力共に相当消耗していることが判った。一体彼の身に、何があったのだろう。
 そのときだった。
「くっ……ぐああっ!」
 突然、クロリアが苦しみだした。胸をぎゅっと押さえ付け、床にもう片方の手を付く。苦痛に表情を歪めている。テテロとミラはたじろぐばかりだ。そして、次の瞬間。
 バサァ……!
「!」
 クロリアの背から、巨大な翼が現れた。片方は目を細めてしまうほど目映い白銀、そしてもう一方は、全てを呑み込んでしまうかのような漆黒。『許されざる者』の、これ以上ないほどの象徴――。
「あ……あぁ……!」
 背後を振り返るクロリアの眼には、明らかな恐怖と絶望が映っていた。





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