第六話 鎮魂曲



「イオ! 何をしている、離れなさい!」
 指導者の男がきつく言い放った。しかし少女は意に介さない様子で、足元の倒れて動かないアドルフに視線を落とした。死の匂いの充満するこの異様な状況に怯えもせず、ただひたすらに、じっと。
「……おじちゃん、うさぎさんが……」
 小さな唇から、静かな呟きが零れて落ちた。クロリアが目を見開いた。少女はそっとしゃがみこみ、最期の温もりを残した毛皮を優しく撫でる。
「うさぎさん……かわいそうだよ。死んじゃったんだよ? どうしてそんなにいじめるの? かわいそうだよ……」
 次第に冷たくなっていく亡骸に、透明な雫がぽとりと染みる。男は愕然として、昂ぶる感情のままに叫んだ。
「何を馬鹿なことを……イオ! 今までお前にひどいことをしてきたのはこいつらなんだぞ。こいつらはお前の敵なんだ! わかるだろう。良い子だから早くここから離れなさい」
「やだ! だってそしたらおじちゃん、そのお兄ちゃんを殺しちゃうんでしょ? あのねこのお姉さんも殺しちゃうんでしょ? そんなのやだ!」
 潤んで震える声で、少女はなおも続ける。
「あたし、お兄ちゃんともお姉さんともなかよしなの。このお花もね、そのねこのお姉さんがくれたんだよ。とってもやさしいんだよ。悪いひとじゃないの。だからもうひどいことしないで。痛いこと、しないで……」
 涙で顔をぐしゃぐしゃにして、イオは力一杯訴えた。まるで自分が今まさに痛みを受けているかのように、彼女は泣いていた。昨日までの辛い過去がそうさせていた。
 指導者の男にも、周りの人間にも、アルゼンにも、そして獣人たちにも、幼い少女の必死の言葉が突き刺さる。皆、時が止まったかのように立ちすくんでいた。
 イオの痛みを誰もが知っていた。獣人たちは大陸で、人間たちはこの島で、同じように迫害に苦しんだ。この世を恨んだ。運命を呪った。
 ――それなのに。
 その苦しみを互いに知っているというのに、同じ痛みを相手に与え続けていた。憎んだはずの所業を、躊躇いもなくこの手で犯していた……。
 しんと静まりかえった広場に、土を踏みしめる音が響いた。イオは泣きはらした顔を上げ、夕日の眩しさに目を細めた。目映い光を背に受け、誰かが目の前に立っている。
 美なそのシルエットは、テテロの肩を借りて佇むアルゼンのものだった。テテロの手によって拘束からは解放されたものの、縛りつけられて感覚を失った彼女は、彼の力を借りてここまで歩いてきたのだった。
 途端、信じがたいことが起こった。群衆が湧いた。イオまでもが目を見張った。アルゼンが彼女の前にがくりとひざまずいたのだ。
「私たちは、愚かでした……」
 アルゼンは小さく、落とすように呟いた。
「かつて人間たちは私たち一族を蔑み、陥れてきました。だから私たちの復讐は正当であると信じた。けれどそれは違いました。言い訳をしているのだと本当は気づいていたのです。気づかないふりをしてしまった。先に剣を手放すことを恐れてしまった……」
 そう。恐れていただけだ。力を振るってきた相手に、力以外の何かをもって向かいあうことを。
「あなたの言うとおりです、イオ。ひどいことをするのは……もうやめにしましょう」
 アルゼンは切なそうな微笑を浮かべ、イオを見つめ返した。痺れて震える指をそっとイオの頬に滑らせると、瞬く間にイオの両眼から雫が溢れ出した。声を上げて泣き出す彼女を、アルゼンはそっと、母親のような温かさで抱き寄せた。
「今まで辛かったですね。私たちが経験した辛い思いを、あなたたちにも味わわせてしまった。本当に、本当にごめんなさい。そして、私たちを救ってくれてありがとう……」
 皆が声もなく見守る中、夕日に照らされた獣人の女王と人間の少女の影が重なる。ふたりの間には力も差別も存在しなかった。ただ、ささやかな愛だけがそこにあった。
「馬鹿な。人間と獣人が、そんな……」
 クロリアの喉元に剣を突きつけていたことも忘れ、指導者の男は呆然と立ちすくんだ。
「今度は……今度はそんな卑劣な演技で、我々を欺こうとでも言うのか!」
 アルゼンはイオの顔を優しく拭った。その小さな手をそっと取り、静かに立ち上がる。疑心暗鬼に囚われた男の目を真っ直ぐに見つめ、確信を持った声で告げた。
「私は剣を捨てたのです。この子との絆にかけて誓いましょう。あなたがたとこの身ひとつで向き合います。私たちの犯した罪は重い。罰は甘んじて受けましょう。ただしお互い、もう二度と過ちを繰り返さないよう……それだけを願います」
 迷いのない真摯な眼差しは、男をひどく混乱させた。人間と獣人は相容れない存在なのだ。敵同士、憎みあっているのだ。昔から当たり前のようにそう決まっていた。こんなことがあるはずがない。こんなことが――。
「……そうだ、あり得ない。人間と獣人が手を取り合うだと? 昨日まであんな仕打ちをしておきながら、共に生きるだと? そう、考えられない。そんなはずはない……」
「信じて。どうか――」
「罠だ!」
 男は濁った目をカッと見開き叫んだ。イオの肩がびくりと震える。
「信じられるものか。罠だ。そうだ。忘れるところだった。私はこの女を殺さなければ……殺さなければならないのだ。そうすれば我々は解放されるのだ。そう、それがすべてだ……」
 男は口角から泡さえ吹きながら声高に唱え続けた。手放しかけていた長剣を再び握りしめる。視線は定まらず、しかしその眼は爛々と輝いている。尋常でないその様子に、獣人も人間も息を呑んだ。
「やめてっ、おじちゃん!」
 剣が高々と振り上げられる。アルゼンは動かない。イオは彼女の足元にすがり、ぎゅっと目を閉じた。高笑いが頭の奥で鳴り響く――。
 刃がアルゼンを切り裂くことはなかった。イオがおそるおそる瞼を開けると、クロリアが目の前に立ちはだかっていた。ライトアローが再び男の剣を受け止めていた。蒼の瞳が射抜くように男を見つめる。
「……もう誰も、彼女が死ぬことを望んでいないんだ。怖がらないで、剣を捨てろ。そうすれば解放される」
 キリキリと重なり軋む剣の向こうで、男はひどく怯えていた。クロリアがそっとライトアローを返し、男の手から剣を落とそうとした瞬間、半狂乱の叫び声が夕空をつんざいた。
「できるものか! 穢らわしい獣人め! この女の死が望まれていないだと? 我々も、貴様らも、許し合うことなど……そうだ、許されるはずがない! 血だ、血が必要なのだ! 貴様らと手を取るくらいなら、私は……!」
 信じられないことが起こった。刃が貫く音と視界に広がる紅が、時を止めたようだった。クロリアたちの目の前で、男の体がゆっくりと傾く。そのまま彼は血の尾を引きながら、重力に導かれるように倒れこんだ。
 男は振りかざした剣を、自らの胸に突き立てたのだ。
「おじ、ちゃ――」
 イオは声を震わせた。アルゼンは彼女の視界を覆うように、強くその小さな体を抱きしめた。我に返ったクロリアとテテロが駆け寄ると、男は血眼を剥き出しにしたまま、既に絶命していた。
「ソンナ、ドウシテコンナコト……」
 ショックで思い詰めた顔をするテテロの横で、クロリアはギリ、と歯を食いしばった。
 彼は遂に猜疑心の渦から抜け出すことができなかった。きっと彼も知っていたのだ。獣人も人間も、互いに償いがたい大きな罪を犯していたのだと。剣を手放せば、その途方もない現実を直視することになった。彼は最期の最期まで、ずっと怯え続けていた……。
「――あなたが」
 男の瞼をそっと下ろすと、クロリアは静かに立ち上がった。
「あなたがこの島で最後の犠牲者です。どうか、安らかに……」
 突然、音とも風ともつかない不思議な力が人々を包み込んだ。血塗られ荒んだランテオの地を浄化していくように、澄み切った音色はすべてを呑み込んでいく。心の奥底へじんと染み渡るその力が、たったひとつのちっぽけな笛から生まれているなど、一体誰が考えるだろう。
 憎悪と悲哀のさなかで命を落とした犠牲者たちの魂が、島のあちこちから遙かな空へと昇ってゆく。その光のひとつひとつがすべて、あらゆるくびきと苦悩から解放されているようにと願う。クロリアも、テテロも、アルゼンもイオも、人間も獣人も。皆自然と同じ願いを共有し、強く祈っていた。
 偽りの平和で包み隠された楽園、一夜にして悲劇の舞台と化したランテオを、夜の帳が押し包む。ふわりと立ちのぼる光たちが、清らかな音色とともに星空へと還ってゆく。それはクロリアの奏でる、静かで厳かな鎮魂曲。たったひとつの、死者への手向け――。



 早朝の澄んだ陽光が、厚い雲の隙間から島へ降り注ぐ。その様を眺める胸の内は晴れやかでなく、かといって悲しみに溺れることもなく。海はその心の風景を映し出すように、珍しく穏やかに凪いでいた。
「……もう、発たれるのですか」
 アルゼンの静かな声は冷たく張りつめた空気の中、一層透明に聞こえる。潮の音と混じりあい心地よく響くその声に、クロリアはほのかに笑んで言った。
「立ち止まることはできないんだ、アルゼン。やらなきゃならないことがある。それを見つけるために、俺たちは旅を続けないと」
 光の柱となって差し込む朝日が、彼の顔を片側だけ明るく照らす。息を呑むほどに美しく迷いのないその様を見て、イオと手を繋いで佇むアルゼンが、緩やかに微笑んだ。
 憎悪と悲劇の連鎖。それはこの島に限った話ではない。今世界は大きくうねり、その途方のない螺旋回廊へ呑み込まれ始めている。ランテオでの悲劇がこの世界全体にも待ちかまえている。何ができるかはわからない。しかし何かをするために自分は――『許されざる者』は生まれ落ちたのだ。
「俺ニハ、難シイコトハヨクワカンナイケドサ。ジットシテチャイケナイ……ソレダケハハッキリシテルンダ。ダカラあるぜんモいおモ、ココデオ別レ」
 元気でね、とテテロは無邪気に笑い、イオの頭をくしゃくしゃと撫でた。イオも花が咲いたような笑顔を返す。
「お兄ちゃんたちも元気でね! イオも、お姉ちゃんと一緒にがんばるから!」
 そう。このささやかな笑顔からすべては始まる。これまでの傷を、互いを隔てていたひび割れを、焦らずにゆっくりと癒していけばいい。それは決して簡単なことではない。道は長く険しい。しかしその行く手には、きっと温かな光が待っている。大丈夫、歩んでいける。アルゼンとイオ、ふたりの柔らかな手が結ばれている限り――。
 クロリアとテテロは笑顔を残し、そのまま自然に浜を発った。ふわりと砂を少しだけ巻き上げ、早朝の気流に乗って、遙か上空へと消えていく。温かく手を繋いだふたりに見送られて。
 クロリアは島を見下ろした。血塗られた激動の時を歩み、決して忘れられることのない悲劇を巻き起こした地が、アルビオンの海に浮かんでいる。しかし、以前には見られなかった澄んだ光を、クロリアは確かにそこに感じていた。





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