第五話 螺旋を断ち切る者



 広場には獣人たちがごった返していた。ランテオ島の住民をすべてかき集めたかのようだ。しかしこの異様な光景も、これから行われることを考えれば当然であった。
 空気は痛く重苦しい。日はもう随分と傾き、真っ赤な光で城を鮮やかに照らし出している。民衆はざわめきながら、悲痛な面持ちでその不気味な様を見つめていた。
 城門が重く軋みながら開いた。群衆が一斉にどよめく。門の向こうに現れたのは紛れもない、首に奴隷用の鉄輪をはめられたアルゼン女王だった。
 周りを屈強な人間たちに囲まれながら、彼女は静かな足取りで広場の中央へ向かう。行く手には細長い漆黒の影を落とす磔台が待ちかまえていた。
「アルゼン様!」
「アルゼン様、お逃げ下さい! お逃げ下さい!」
「どうか、どうか代わりに私たちを殺して!」
「人間どもめ、どこまで卑怯な奴らだ!」
「女王様!」
「アルゼン様!」
 悲痛な叫びの渦の中、歩みを進めるアルゼンは無表情だった。悲哀も、後悔も、恐怖も、諦めすらも、その深紅の瞳には灯っていない。映りこむのはただ、目の前にそびえる磔台だけだった。彼女もまた知っていたのだ。こうなることが必然であったと。
 足取りは堂々としていた。その威厳を欠片も損なうことなく、首輪に繋がれた鎖を役人に引かれるまでもなく、自らゆっくりと死に近づいていく。
 広場に響くのは嘆きばかりではなかった。歓喜の声、指笛、罵声に嘲笑……奴隷の身分から解放された人間たちもまた、場の異様な空気に酔っていた。これまで自分たちを散々こき使い、傷つけ、蔑んできた獣人たち。その頂点に君臨する憎き王が、遂にその生涯を閉じる。夕日の燃えるような朱は、彼らの長く苦しい日々に終止符を打つ救済の光だった。
「しかし、あんなに淡々とした態度を取られるのも癪だよなぁ」
「もっと泣き叫んで苦しんでくれりゃあ、こっちの気も少しは晴れるんだけどな」
 様々な声が飛び交う中、人混みの中で人間の男たちが不満げに話している。するとそれを聞きつけた若者がにやりと笑った。
「それじゃ、ちょっとやってみるか?」
 男たちが興味津々で見守る中、彼はおもむろに足下に転がっていた小石を手に取ると、ためらうことなく振りかぶった。
 風を切る音。小石はアルゼンのこめかみを直撃した。
 よろめく体。どよめきが巻き起こる。獣人も人間も、ひどく興奮しながら何事か叫びあっている。人波がこちらに押し寄せんばかりに蠢く。不意の出来事に役人たちも思わず足を止め、アルゼンの方を凝視していた。
 しかし次の瞬間、彼女はうつむいていた顔を上げ、再び何事もなかったかのように歩き出したのだ。
 辺りがしんと静まりかえる。アルゼンの首の鎖がちゃり、と鳴るのすら聞こえた。白く透き通るような頬に血が伝っている。そのことだけが、今の出来事が現実であったことを証明している。
「……あのアマ!」
 激情に任せて飛びかかろうとする若者を、すっと伸びてきた手が制した。
「そう熱くなるな。あの女は死ぬ。それですべてが終わるのだ。何を今更、感情を逆撫でする必要がある」
 正論に口答えすることもできず、若者はぐっと唇をつぐんだ。男は若者には目もくれず、冷酷さとしたたかさを併せ持った眼差しで、磔台に向かっていくアルゼンを見つめていた。
 この独特の風格を持った男こそ、今回の決起の指導者であった。身には城から奪ってきたであろう高貴な服を纏っている。彼はかつてこの島に漂着した人間のうちのひとりで、軍人として剣を振るった時代もあったという。長きに渡る奴隷生活を強いられてもなお、頑とした意志を胸のうちに秘め続け、主従逆転の機会を狙っていたのだ。
 アルゼンが磔台のもとまでやってきた。いよいよ処刑が執行される。観衆たちは息を押し殺してその様子を見つめた。真っ白いしなやかな衣装に身を包んだアルゼンが、拘束された両手を頭上に上げた姿勢で磔台に括りつけられる。血のように染まった夕空に向かってその身が掲げられ、執行人たちが一斉に弓矢を引いた――。
「やめろ!」
 張りつめた沈黙をひとつの声が断ち切った。執行人たちの手が止まり、辺りがざわめきに包まれる。すると誰からともなく、磔台の上空を指さし始めた。向かってくるのは一匹の竜。その背に跨る少年の手には、光り輝く弓矢が握られている。
「撃て!」
 呆然としていた執行人たちが指導者の一声で我に返った。一斉に矢をつがえ構える。ひと筋の光の矢と無数の木の矢がアルゼンに差し向けられる。
 空気を切る音。金属が弾ける高音。アルゼンの体がふわりと重力に引かれて落ちる。直後、磔台に無数の矢が突き刺さった。アルゼンを拘束していた鎖を光の矢が砕いたのだ。
 アルゼンがくずおれた体を起こしたとき、目の前には見覚えのある背中があった。右袖の破れた茶のコート。ふと通り抜けた風が、その淡い空色の髪を撫ぜてゆく――。
「クロリア!」
 彼はアルゼンを背後に庇い、ライトアローを握りしめたまま執行人たちを見据えていた。その蒼く鋭い瞳にたじろぎながら、男たちは口々に叫ぶ。
「き……貴様、処刑を妨害するか!」
「今すぐそこを退け! さもないと――」
 ひとりがギッと弓を引き絞った。矢が空気を切り裂く。しかし彼が当たり前のようにライトアローを振り払うと、矢は目の前で呆気なく一刀両断されていた。
「さもないと……何だって?」
 静かな声に、執行人の男は思わず身を震わせた。
「気の済むまでやればいいさ。その代わり、もう誰も傷つけさせない。絶対に死なせない」
 執行人たちが一斉に弓を引いた。数え切れないほどの矢が彼の身に降り注ぐ。しかしそれすらもすべて、余すことなくクロリアの刃が薙いでいく。目にもとまらぬ速さで翻った刃のもと、無惨な残骸と化した凶器はばらばらと地面に砕け散った。並はずれた力を見せつけられ、男たちの腰がみるみる引けていく。
「これはまた……おもしろい奴がいたものだ」
 くつくつと笑う声がクロリアの耳に届いた。視線をそちらに向ける。一目見て、その男が人間たちの長なのだとわかった。豪奢な身なりに余裕の笑み、冷たく濁った瞳に烏の濡れ羽のような髪。年の頃は四十といったところか。
 男はカツカツと靴を鳴らしながら歩み寄った。
「しかし所詮は綺麗事だ。君はこの島の者ではないな? よそ者に何がわかる。この島には『誰も傷つかない』平和などありはしない。あるのは支配と隷属だけだ。それがすべてだ」
 歩きながら、腰の剣に手をかける。
「革命を終わらせるには最後の生け贄が必要なのだ。この島の土に、その女の血を注がなければならない。そうすれば私たちは――忌まわしい過去から解放されるのだ!」
 勢いよく引き抜かれた剣がぎらりと光った。振り下ろされたそれを、クロリアのライトアローが受け止める。
「女を殺せ!」
 剣のぶつかり合う音が響き渡るのと、男が叫ぶのとは同時だった。しまった、という顔でクロリアがアルゼンの名を口走る。人間たちがどっと押し寄せた。無防備な女王を串刺しにせんと、無数の刃物が向かってくる。
 誰もが息を呑んだ瞬間、アルゼンの周りに目映い光が迸った。男たちが呆気なくはじき飛ばされる。群衆たちは目を見張った。女王を取り囲むように、頑丈な壁がそびえていたのだ。それがしゅるんと音を立てたかと思うと、次の瞬間、壁が消える代わりに一匹の竜が立ちはだかっていた。
「くろりあ、コッチハ任セトケ!」
 気の強そうな笑みを浮かべ、テテロはそう言い放った。クロリアがほっとしたのも束の間、その隙をついて、男は剣を握る腕にぐっと力を込めた。
「小癪な……なぜ邪魔をする。よそ者の貴様らには関係のないことだ!」
「ああそうさ! しかしだからこそわかった。よそ者の俺だからこそわかったんだ。この島は悪い夢に取り憑かれている。目を覚ませ! こんなことは無意味なんだ!」
 男は剣を滑らせ、再び強く打ちつけてきた。鋭利な刃のぶつかり合う音が激しく響き渡る。飛び散る火花の向こう側で、男が高らかに笑う。
「幻想に取り憑かれているのは貴様の方だ! こうして私と剣を重ねていながら、何が平和だ? 何が目を覚ませだ! この島が狂っているのなら、それもよかろう。ランテオだけではない、もともとこの世は狂っているのだ。今更何を迷う必要がある!」
「憎しみに任せて過ちを繰り返すな! 他に道があるんだ。今の状況を変えるためにアルゼンを殺す必要なんてない……。あなたたちが手を汚す必要なんてどこにもないんだ!」
「ならばどうしろというのだ! 獣人どもは我々を憎んでいる。このまま引き下がれば昨日までの生活に逆戻りだ! 残る邪魔者は貴様らだけなのだ。死ぬがいい、小僧!」
 男の腕に一層の力がこもる。彼を傷つけたくないがために防戦一方のクロリアは、じわじわと押し迫る剣に焦りを感じ始めていた。歯列の隙間から息が零れる。このままでは――。
「クロリア様だけではない!」
 突然の声に、男もクロリアも思わず振り返った。純白の制服にぴんと立った長い耳、憤怒に燃える紅の瞳――アドルフの姿がそこにあった。小柄な彼には大きすぎる剣を握りしめている。そしてその足元には、気を失った人間の若者が倒れていた。
「奴隷の分際でよくもこのような……。覚悟!」
「よせ、アドルフ!」
 クロリアの必死の引き止めに構うことなく、アドルフが剣を振りかざして向かってくる。しかしその刃は指導者の男に届くよりも早くはじき返された。アドルフの目の前に、剣を構えた別の男が立ちはだかっていた。
「邪魔をするな、ケダモノが!」
 突然、磔台の方からアルゼンの短い悲鳴が聞こえた。彼女を背後に戦うテテロの表情に余裕がなくなっている。相手の人数が増えすぎて、防御が追いつかなくなってきているのだ。
「アルゼン様!」
 アドルフが見るに堪えかねそちらへ向かおうとした、そのときだった。
 背中に剣が突き立てられた。アドルフの瞳孔がぎゅっと引き絞られる。純白の制服から多量の深紅が吹き出す。その様を目の当たりにしたクロリアの頬に、真っ赤な飛沫が飛び散る。地面に倒れこむアドルフの姿が、クロリアの網膜に焼きついて離れない。まるで時間を何倍にも引き延ばしたかのように――。
「アドルフーッ!」
 クロリアがその名を絶叫した。指導者の男が剣を翻す。はじき出されたライトアローが高く宙を舞い、地に突き刺さった。仰向けに倒されたクロリアの喉を、刃の切っ先が掠める。
「わかったか小僧……。貴様の綺麗事では一匹の兎すら守れん。戯言を吐くしか能のないその喉、私が破ってやろう」
 濁った碧の瞳が、凍りつくような冷たさをもってクロリアを見下す。テテロが自分の名を叫んでいる。その声を遠くに聞きながら、クロリアはとてつもない無力感に襲われるのを感じた。
 目指しているものは、望んでいるものは、皆同じなのに。それに辿り着こうとあがき続けるうちに、すれ違いばかりが深まっていく。お互い手を取り合えばいいだけなのだ。しかしそれのどんなに難しいことか。相手が信じられなくて、どうしても許せなくて――そうしてまた、犠牲ばかりが増えていく。
 ――自分もその犠牲になるしかないのか。
 ――こんなにも……こんなにも願っているのに!
 そのときだった。近くで土を踏みしめるささやかな音をクロリアは聞いた。夕焼けの光をたっぷりと受けて朱く染まった銀の髪。血塗られた土の上に裸足で立ち、小さな手をぎゅっと握りしめて――白薔薇の少女が、丸い大きな瞳で真っ直ぐにこちらを見つめ返していた。





back main next
Copyright(C) Manaka Yue All rights reserved.

inserted by FC2 system