第四話 いのち散りゆく



 小鳥のさえずりと昼下がりの木漏れ日が、そっとクロリアの体を包み込む。曖昧な瞬きを何度か繰り返して、彼は目覚めた。
 土と緑の匂いが彼の胸を満たしている。昨晩倒れたときと同じ場所に、その体は静かに横たわっていた。空一面にたれ込めていた厚い雨雲は取り払われ、陽光が森の中に差し込んでいる。一体どれほどの間、こうして眠っていたのだろう。
 明け方に生死を彷徨っていたのが嘘のように、体調は回復していた。そういえばあのとき、白薔薇の少女が辺りで何やら葉を摘んでいたような気がする。あれは毒消しの薬草だったのだろうか。彼女の手当のおかげで、自分は一命を取り留めたのかもしれない。
 じわりと胸に広がる熱さを噛みしめていた、そのときだった。
「!」
 異臭がクロリアの鼻を突いた。海から吹き込んでくる風。その潮の香りに混じって、ひどく不穏な臭いが運ばれてくる。
 弾かれたように身を起こすと、背中の傷が疼いた。しかしいてもたってもいられなかった。クロリアは痛みに顔を歪めながら、臭いの流れてくる方へ駆け出した。不気味さを帯びた風が、疾走する彼の横を抜けていく。
 森を抜け、海岸へたどり着いた途端、信じられない光景が彼の視界に広がった。
「な……何だよ、これ……」
 紅く点々と染まった白浜に、事切れた人魚(セイレン)たちが幾人も倒れ伏していたのだ。
 それだけではない。うち寄せる波が異様な色に染まっている。島の周りの海水だけが、どす黒くてらてらと揺れているのだ。人魚たちの体や髪にもその漆黒がべったりと張りついている。
 一体何が起きたというのか。
 あまりの衝撃に呆然と立ち尽くしていたクロリアは、視界の片隅で何かが蠢いたのを見、慌ててそちらへ走り寄った。人魚(セイレン)の少女だ。まだ生きている。押し寄せ引き返す黒い波に半分浸かりながら、彼女はうつ伏せに倒れていた。
「おい! しっかりしろ!」
 クロリアは必死に呼びかけ、ぐったりとした身体を抱え上げた。次の瞬間、視界に飛び込んできた少女の顔に息を呑む。
 それは紛れもない、アリスだった。
「アリス! 返事しろ、アリス!」
「う……」
 クロリアの腕の中で、彼女は微かに身じろぎした。震える瞼を持ち上げ「……クロ、リア」と弱々しく呟く。その瞳は虚ろだった。
「どうしてこんな――。一体何があったんだ?」
「反乱……。奴隷たちの……」
 切れ切れに紡がれたその言葉を聞き、クロリアは凍りついた。
「川から何か、流れてきたわ……。息が苦しくなって、みんな浜辺に上がって……。そうしたら……」
 言葉は続かなかった。アリスの瞳から涙が止めどなく溢れる。クロリアはアリスを抱いていた手を返し、愕然とした。手袋は真っ赤に濡れていた。深々と脇腹を抉る刺し傷。クロリアは彼女の命の短さを知ってしまった。
「どうして? どうして、こんな、いきなり……。ひどいよ……」
「アリス……」
「みんな死んじゃった……。私も、死んじゃうの? 嫌だ……クロリア、嫌だ、怖い……」
「アリス、しっかりしろ!」
 焦点の定まらない目を見開き、力なく縋りついてくる彼女に、クロリアは必死で訴えた。頼りない体をしっかりと抱きしめる。アリスは壊れたように、何度もクロリアの名を呼んだ。必死に生にしがみつくかのように。
「くろりあ!」
 はじかれたように振り返ると、テテロがひどく慌てた様子でこちらへ駆けてくるのが見えた。
「大変ダヨ、あるぜんガ捕マッタ!」
「何だって?」
「昨日ノ夜、あるぜんト一緒ニ食事ヲシテタンダ。ソシタライキナリ、モノスゴイ数ノ奴隷タチガ入ッテキテ……。ヨソ者ノ俺ハ解放シテクレタケド、オ城ノ人タチハミンナ人質ニナッテル」
「城が――堕ちた?」
 信じられないその事実を、クロリアは無意識に呟いていた。
「そんな馬鹿なこと……。城には番兵があんなにいるんだぞ!」
「本当ナンダ! ヨクワカンナイケド本当ナンダ。スゴイ人数ダッタカラ、キット防御ガ間ニ合ワナカッタンダヨ。ソレニアイツラ、小サイ女ノ子ヲ連レテタンダ」
「女の子?」
「あるぜん、ソノ子ヲ知ッテルミタイダッタ。ソシタラアイツラガ言ッタンダ。『コイツガドウナッテモイイノカ』ッテ……」
 クロリアはハッと目を見開いた。白薔薇の少女。あんな小さな子どもを人質にとったのというのか。彼らと同じ、人間であるにも関わらず――。
 きっと人間たちは、ずっと前からこの日を待ちわびていたのだ。獣人たちに復讐し、主従関係を逆転させるこの日を。白薔薇の少女を城の庭に潜りこませたのも、人魚(セイレン)たちを真っ先に攻撃したのも、すべては周到に用意されたシナリオだったのだ。
「ドウシヨウ、くろりあ……」
 穏やかで平和な、獣人たちの楽園。しかしそれは偽りで塗り固められた、脆い幻想に過ぎなかった。目を逸らしていただけなのだ。もともと平和など、この島のどこにもありはしなかった――。
「クロリア、お願い。みんなを……アルゼン様を、助けて……」
 突然、アリスがクロリアの胸元をぎゅっと握り締めた。
「私、アルゼン様を守れなかった……。私の代わりに、お願い……行って……」
「でも、お前が――」
 クロリアが思わず叫ぶと、アリスは唐突に力なく笑いかけた。
「王子……様」
「え?」
「クロリアは、王子様だから……。お城の人たちを、助けてあげなくちゃ……ね」
 アリスははらはらと涙をこぼしながら、しかし穏やかな微笑を浮かべていた。
「あ、そうだ。王子様を助けた人魚(セイレン)はね……本当は、王子様とは、結ばれないんだって……。女の子は泡になって、消えちゃって……それでも、幸せなんだって……」
「アリス! そんなこと言うな!」
「ねえ……クロリア。抱きしめて、ぎゅって……。そうしたら、怖くなくなると、思うの……」
 言われるままに、彼女を支える腕にそっと力をこめる。クロリアの鼓動を間近に感じ、アリスは儚くも満たされた笑顔を浮かべた。
「……あったかい……」
 そして、その瞳が開かれることは、もうなかった。
「……アリス?」
 声が震えた。何度も何度もその名を呼び続けるが、返事はない。やりきれない感情ばかりが積もり積もっていく。
 彼女は荒波の中、溺れかけていた自分を助けてくれた。それなのに自分は、彼女を助けることができなかった。何ひとつ、してやれなかった――。
「くろりあ……」
 亡骸を抱えてうずくまる背中に、そっと呟く。呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。今の自分にできることは何もないということを、テテロは知っていた。
 波の音。海鳥の声。黒く光る海。血塗られた浜辺。これがこの島の――ランテオの真実の姿だった。
「……行くぞ」
「エ?」
 突然の呟きに、テテロは短く聞き返した。クロリアはアリスの体をそっと砂浜に横たえ、すっくと立ち上がった。テテロの方を振り向き、強く言い放つ。
「アルゼンを助ける。城へ行こう」
「ア……ウ、ウン!」
 身を低くしたテテロに、クロリアがひらりと飛び乗る。六枚の翼を翻し、二人は空高く舞い上がった。
 吹き抜ける風。どこまでも澄み渡った蒼い瞳は、眼前にそびえる城を見据えていた。





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