第三話 縛られた天使



 ――この島の、現実。
 夜の帳がゆっくりと落ち始めた頃、クロリアはひとり、通された客室のベッドに横たわり、物思いに耽っていた。
 あの後、アルゼンはクロリアに様々なことを教えてくれた。
 このランテオ島は、かつて獣人たちが人間からの迫害を逃れるため、決死の覚悟でたどり着いた幻の地だった。彼らはこの島にとどまり、独自に生活し、発展していった。人間の手の届かない夢の島――その噂を聞きつけた人魚(セイレン)や幻獣たちもまた、荒海を越え、続々と集まってきた。
 ところがある日、偶然にも人間の船がこの地に漂着した。獣人たちの間に緊張が走ったが、流れ着いた人間たちは誰もが疲弊していて、武装もせず、食料も底を突いていた。そんな彼らの弱体ぶりを見て、島の住民たちはひとまずの安心を得たのだった。いくら人間といえども、これほどまでに衰弱していれば、危害を加えてくることもないだろう。
 しかし次に彼らの頭を悩ませたのが、この人間たちをどうするかという問題だった。再三自分たちを傷つけ迫害してきた憎き存在だ、この場で皆殺しにしてしまってもよかった。しかしもし、そのことが大陸に知れ渡ったら……? この島へはそう簡単には乗り込めないだろうが、大陸にいる獣人たちに手を出すことは簡単だ。報復のため、彼らへの迫害がますますひどくなるだろうことは想像に難くなかった。
 この難題について、住民たちの間では長いこと討論が続いたが、遂にひとりの獣人がある提案をした。
 ――人間たちを、自分たち獣人の奴隷としてこの島に残そう。そうすれば無闇に犠牲を出さずに済むし、人間たちへのささやかな報復にもなろう。
 住民はこれに賛同し、島には奴隷制度が設けられた。そうして月日は流れ、今に至るのである。
 クロリアはアルゼンの話を頭の中で繰り返しながら、自分の中に渦巻く複雑な念を感じていた。
 あの鎖の少女も奴隷だったのだ。きっと彼女は何も知らない。なぜ自分が束縛されているのか、なぜ自分がろくに食べ物も与えられず、みすぼらしいなりでいなければならないのか……。少女の無垢な透き通った瞳が、今もクロリアの眼に焼きついて離れない。
 ぎゅっと目を瞑る。ちらつく少女の影を振り切ろうとするように。しかし途端、彼の意識はまるで霧がかかるかのごとく白く濁っていった。自らがひどく疲労していたことに、今更になって気づく。そしてそのまま、柔らかな布団の感触に身を委ね、クロリアは深い眠りへと落ちていった。



 ……ガタン。
 ぼんやりとした意識の中、彼は微かな物音を聞いた。うっすらと目を開ける。室内に月光が差し込み、横になったクロリアを優しく照らしだしている。開け放たれた窓からは心地よい風が――。
 ――風?
 窓は閉めきっていたはずなのに、なぜ。
 はじかれたように起きあがった瞬間、後頭部に耐え難い衝撃が走った。ボクッという嫌な音とともに、視界が真っ暗になる。何が起こったのかわからないまま、クロリアはベッドから床へとたたき落とされた。
「く……」
 歯列の隙間からうめき声を漏らす。朦朧とする意識の中、クロリアはうつ伏せになったまま上を見上げた。
 みすぼらしいなりをした男が二人。背中に月光を浴び、顔は影になって見えない。手に何か細長い物を握りしめている。それが勢いよく振り上げられる。
「がは……っ!」
 鈍器は腹を直撃した。口の中に血の味が充満する。立て続けに強打された痛みに、クロリアは顔を歪めた。
 ほとんど無意識のうちに、彼の左手が腰のベルトポーチをまさぐる。ライトアローを引き抜き、苦悶の表情を湛えたまま眼前に掲げた。瞬間、溢れる光とともに、柄の両端から弧を描く長い刃が現れる。
 思いがけない光景に相手が怯むのを、クロリアは見逃さなかった。身を起こした刹那、月光を浴びて煌めく刃がヒュッと風を切る。二人の男が持っていた鈍器は、気づいたときには綺麗に一刀両断されていた。
 訳のわからない悲鳴を上げながら、男たちは一目散に逃げだした。あっという間に窓を乗り越え、庭園へと駆けだしていく。
「待て!」
 後を追おうとした途端、クロリアの体がぐらりと危なげに揺らいだ。容赦のない眩暈と鈍痛が、立て続けに彼を襲う。
「く……」
 油断してしまった。あれだけ強く殴られれば、ただではすまないことくらいわかっていたのに。クロリアは顔面を片手で覆いながら、ふらつく意識を必死に押しとどめ、再び駆けだした。
 背後の城内からは、悲鳴やら物音が断続的に響いている。ただごとではない。張りつめた空気を全身に感じながら、先ほどの二人を追いかける。
 ――訊かなければ。一体何が起きているのか、あの男たちは知っている。
 庭園を抜け、暗い森の道を進む。距離が詰まってきた。男たちが走りながら振り返り、その顔に恐怖の色を浮かべる。あと少し。クロリアの伸ばした指が彼らの服をかすめた、そのときだった。
 空気を切る音。背中の一点に衝撃が走る。灼熱の痛み。クロリアは短い叫び声を上げ、勢いのままに倒れ伏した。
 肘を突いてぐっと上体を起こすと、男たちがあっという間に走り去っていくのが見えた。急いで立ち上がろうとした体が、途端に崩れ落ちる。恐ろしいほどの早さで全身から力が抜けていく。
 うつぶせのまま、クロリアは背中に手をやった。痺れて震える指に、細長い固い物が触れる。なけなしの力を振り絞り、己の背中からそれを引き抜く。
 矢だった。ぎらりと黒光りする鏃は、自分の血で濡れていた。
 矢先に毒が塗り込められていたのだろう。体は重く、ただ意識が遠のいていくのを見送るしかない。蒼い瞳から光が失せていく。真っ暗になっていく視界。クロリアは完全に気を失った。



 空を覆い尽くす灰色の雲が、はらはらと涙を零す。土埃は収まり、木々は沈黙し、辺りは昨晩の喧噪が嘘のように静まりかえっている。雨粒が繊細な睫毛をしっとりと濡らしたとき、クロリアは目を覚ました。地面に横たえられた体をわずかにずらし、ぼんやりとした頭で何事か考える。唇が微かに動いた。
「俺……死んで、ない……」
 力なく笑んだ途端、体内を駆け抜けた寒気にクロリアは身震いした。冷たい土、冷たい雨が、彼の体を包み込む。
 ――そう、死んでいない。……今は。
 ろくに止血もしないまま気を失っていたのだ、今自分がどんなに危険な状態かは考えずともわかる。しかし体が動かないのだ。気力も体力も、痛みすら失せ、すべての感覚が麻痺している。クロリアはそっと自嘲した。予言に語られた、世界を終焉へと誘うはずの存在。その最期がこんなに呆気ないなどと、誰が想像しただろう。
 そう、『許されざる者』の末路など所詮こんなものなのかもしれない。自分が悪しき存在だと知りながら、あがいて、もがいて、醜く彷徨い続ける。生きていてはいけないはずの者が、他の命を奪いながらその生を長らえる。家族や、親友や、相棒の好意に甘んじて、幻想に溺れ、真実から目を逸らして……。
 ――けれど、それももう、終わりだ。
 そう自覚した途端、クロリアは生きる気力を手放した。もうその体は一寸も動かなかった。
 生気を失ったその顔に、ふと影が落ちた。彼は思わず知らず、視線だけを動かしてそちらを見やった。誰かが目の前に立ち尽くしている。
 細い素足。まだほんの小さな子どもだ。粗末な服をまとい、肩にベージュの布きれを羽織っている。更に視線を上げると、柔らかな銀の髪に挿された、しんなりと雨に濡れた白薔薇が見えた。
 クロリアは儚い笑みを湛え、微かな声を搾りだした。
「……や」
「お兄ちゃん、どうしたの?」
 初めて聞く少女の声は、おっかなびっくりではあっても、あどけない可愛らしさに満ちていた。
「死ぬんだよ。もう、死ぬんだ」
「どうして死ぬの?」
「生きてちゃいけないから、だよ……」
 感覚を忘れたはずの身で、クロリアは胸にさざめきにも似た痛みを感じていた。少女の無垢な、不安そうな視線がそうさせた。彼女は心配しているのだ、自分のことを。
 ――いいんだよ。そんな目をしなくてもいいんだよ。忘れてくれ。そんな価値、自分にはないのだから。
 やりきれない思いに任せて瞼を伏せたそのとき、クロリアの背中に何か温かいものが触れた。驚いて見上げると、微笑みかける少女が肩に羽織っていたはずの布が消えている。
「お兄ちゃん、おそとは寒いんだよ。雨にぬれたらかぜひいちゃうよ」
 横たえられたクロリアの体に丁寧に布を被せながら、少女はそう言った。
 ――なぜ? なぜこの子は……。
 クロリアは見開いた瞳にすべての感情をない交ぜにしたような色を湛え、少女を見つめた。吐息が震える。
「お前……」
 知らず、手が伸びた。目の前に差し伸べられたそれを、少女はきょとんとした顔で見つめてから、ふわりと笑った。彼女はぐったりと力の抜けたその手を取り、林檎のような頬に当てた。手袋越しでも感じる。ふっくらとした指。温かな肌。
「ね、こうするとあったかいでしょ」
 そっと目を閉じていた少女は、しばらくしてふとクロリアの方を見つめた。彼は顔を地面に伏せ、肩を小刻みに震わせていた。
「……お兄ちゃん?」
「ごめん……ごめんな……!」
 潤んだ声で、クロリアはそれだけ言った。それきり彼は、少女の前で顔を上げようとはしなかった。雨はふたりを包み込むように降り続けていた。





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