第六話 行き違う想い


「どうしたの? クロリア」
 レディスタの柔らかな問いかけに、石壁にもたれて回想に浸っていたクロリアは我に返った。
 ここはレディスタが言っていた素敵な場所――町はずれにある石造りの塔だ。さほど高くはないが、ここから一望できるシルヴィラスの町は溜息が出るほどに美しい。今はちょうど夕暮れどきで、真っ赤な夕日が町全体を緋色に染めあげ、建物が影を長く後ろに伸ばしている。
「この眺めに見惚れちゃう気持ちはわかるけど。腕組んで黄昏ながら、一体何を考えていたのかな?」
 深紅の長髪を揺らして悪戯っぽく尋ねるレディスタに、クロリアは破顔した。
「いや、ちょっと子供の頃を思い出してさ」
 故郷も思い出も、生きる希望すらすべて失ったあの日。しかし今は、無二の相棒テテロがいつも傍らにいてくれる。かけがえのない家族や幼馴染みとも今日、数年ぶりに再会できた。クロリアの胸の中には今、何か温かなものが満ちている。しんと静まりかえった夕凪のような、どこまでも穏やかな気持ち。一体何年ぶりに味わった気分だろう。
「リドアールにいた頃の?」
「ああ」
「……そっか」
 そう呟いて、レディスタは切なげな視線を地面に落とした。ずっと忘れていた――いや、ずっと抑えこんでいた心の傷が疼く。軽くうつむくレディスタの髪は、重力に任せてさらさらと流れた。
「……いつ、この町を出るの?」
 唐突な質問。聞きたくないけれど、聞いておかなければならない話。何とかいつもの調子を保とうと努力してみたが、どうしてもその声は寂しげに響く。
「そうだな、はっきりとは決めてないけど……明後日くらいには」
 クロリアが静かな声で答える。レディスタは咄嗟に口を開いたが、思いとどまって言葉を呑みこんだ。
 やはり行ってしまうのだ。しかもそんなに早くに……。
 わかりきっていたことだった。クロリアは旅人なのだ。風に任せて世界を巡る、それが今の彼の生き方なのだ。それなのに心のどこかで淡い期待を抱いてしまっていた。ずっとここにいる、と答えてくれるのを願わずにはいられなかった。
 ――戻れないんだね、私たち。
「……ごめんな」
「な、何よいきなり」
 心を見透かされたようなその謝罪に、レディスタはどぎまぎしながら聞き返した。端麗なその顔で申し訳なさそうに微笑むなんて反則だ。
「だって、そんな寂しそうな顔されたら謝りたくもなるし」
「だ、誰がそんなっ」
「え、違うの? 残念だなー、心配してくれてるんだと思ってちょっと嬉しかったのに」
 そう言ってあははと笑うクロリアを見て、レディスタの顔がかーっと熱を帯びる。思わず必要以上の大声が口をついた。
「もう、人をからかって喜ぶなんて最低!」
 両手の拳を振り上げて「このーっ!」とクロリアを追いかけるレディスタ。二人の楽しげな笑い声が響く。まるで懐かしい思い出に帰ったような、穏やかなひととき。このまま時間が止まってしまえばいい――そんな淡い願いを抱いた、その時だった。
「……クロリア?」
 突然、クロリアの動きがぴたりと止まった。不審に思ってその顔を覗きこんだレディスタはハッとした。自分の知らない顔。刃のように研ぎ澄まされた、旅人としてのクロリアの顔だ。夕日に照らされてもなお蒼い彼の瞳は、窺うようにして背後に向けられていた。そしておもむろに低く呟く。
「――レッド、ちょっと下がってろ」
 クロリアは右腰のベルトポーチからライトアローを引き抜いた。そっとレディスタを背後に庇い、身構えた瞬間。
 パァン!
 目にもとまらぬ速さで、クロリアは二枚の長い刃を召還した。高めの銃声に続いて、キンッと何かが弾けたような音が聞こえた。呆然とするレディスタの足下に、小さな物が転がり落ちる。弾丸だった。何か硬い物にぶつかったように、先端が潰れている。
「え……」
「逃げろ、レッド!」
 呆然と立ちすくむレディスタに、クロリアが叫ぶ。だが彼女がその場から動くよりも早く、事は起こった。
 クロリアの肩越しに、こちらを見つめる黒マントの人間が見えた。鉛色に鈍く光る拳銃を掲げている。はっきりとその姿を確かめる余裕もないまま、立て続けに銃口が火を噴いた。
 パパパンッ!
 レディスタは思わず目をぎゅっと閉じた。しかし何の衝撃も来ない。またしても足下にいくつかの潰れた弾丸が転がっているのに気がつく。
 そのときレディスタは初めて悟った。クロリアの持っている不思議な形のあの剣が、すべての弾丸を受け流しているのだ、と。
「逃げろ、早く!」
 クロリアはもう一度叫んだ。レディスタは恐怖に震える気持ちを押さえつけ、螺旋階段の前まで駆けた。そしてそこから、クロリアと黒マントの人物との戦闘を見守る。
 何という戦いだろうか。速すぎて、レディスタには二人の動きを追うことすらできない。漆黒のマントに身を包んだ何者かは、ひらひらと舞い踊るようにして弾丸を放つ。武器としては不利な立場にあるクロリアも、その素早い攻撃に一歩も引いてはいない。飛んできた弾をいつの間にか剣で受けている。その反射神経と技術の高度さは、もはや人間業ではない。
 形勢は突然逆転した。クロリアが目にもとまらぬ速さで漆黒の人物の前まで躍り出た。一瞬の隙をつき、拳銃をライトアローで一刀両断する。銃器は綺麗に二分された。
 クロリアは相手との距離を取り、勝ち誇ったように言った。
「これでお前の攻撃手段はなくなった。観念しな」
 しかし謎の人物は、その言葉に動じるどころかフッと微笑を浮かべた。クロリアがほんの少し気を緩めた瞬間、彼は忽然と姿を消した。
「!」
 しまった、と周囲を見回すクロリア。次の瞬間、背後に背筋の凍るような気配を感じた。腹部に熱い感覚が走る。耐えがたい激痛がクロリアを襲った。
「ぐ……!」
 口端から血を滴らせ、クロリアは呻いた。がくりと膝が折れる。
「いやぁ! クロリア、クロリア!」
 レディスタは自分の置かれている状況も忘れて、クロリアのもとへ駆け寄った。脇腹から鮮血がとめどなく溢れている。目の前に立っている黒マントの人物の手には、紅の滴る短刀が握られていた。
 そこで初めて、彼女はその人物の顔を見た。漆黒の布で口元が覆われているが、若い男だということはわかった。フードの間からわずかに覗く金の髪、非情な光を帯びた銀の瞳。
「愚かだな。武器ひとつで世界を渡っているとでも思ったか」
 残忍な薄笑いを浮かべて彼は言った。クロリアが自嘲気味に吐き捨てる。
「は……。アトルスでの傷を、わざと狙いやがったな」
 そう、今クロリアがやられたのは、以前アトルスの町で負傷した部分と同じ箇所だった。その場面をこの男は見ていたのだ。あの、夜空を四角く切り取ったような窓際から。
「何年ぶりだろうな。こうしてお前と話すのは」
 クロリアは鋭い視線を向けて言い放った。
「――ジン」
 呟かれたその名に、レディスタが驚愕する。
 黒マントの人物は軽く笑って、フードとマスクを外した。現れたのは、先程の戦闘や台詞からは想像もつかない、優しそうな少年の顔だった。そしてその顔を、クロリアもレディスタもよく知っていた。紛れもなく、幼い頃リドアールで共に遊んだ親友――ジンのものだ。
 しかし瞳の輝きだけが思い出と違っていた。昔のような純粋な光は、今はもうその瞳の中には見いだせない。銀の眼はただただ冷酷に透き通っている。
「……知っていたか」
「当たり前だ。リドアールでの思い出、忘れるわけないだろ」
 クロリアは痛みに歯を食いしばりながらも、きっぱりとそう言った。ジンはその様子を見て、口元だけで笑った。レディスタは締めつけるように、ぎゅっと胸元を押さえつけた。胸の奥に何かが詰まっているような感じがした。
「そう、あの頃は楽しかった。俺だって忘れた訳じゃない」
 ジンは今までより少し柔らかい声で言った。しかしその言葉とは裏腹に、短刀をもう一度クロリアの目の前にかざす。
「だが、俺の決意がこの七年で揺らいだ訳でもない」
刃がクロリアに向かって振り下ろされる。レディスタの悲鳴が高く響き渡った。
「やめてぇぇぇ!」
 そのときだ。刃先がクロリアの胸を捕らえるよりも速く、ひとつの影が目の前に現れた。夕日を受けて存在感を増すそれは、誰であるか認識する暇も与えない。気付いたときにはその者によって、ジンの右手から短刀が叩き落とされていた。
「!」
 不意を突かれたジンと呆気にとられるクロリアたちとの間には、一匹の翼竜が立ちはだかっていた。クロリアが思わずその名を叫ぶ。
「……テテロ!」
「くろりあモれっどモ、殺サセハシナイ!」
 テテロはジンを睨みつけながら、己の両手を長い刃へと変身させた。
「……用があるのはクロリアだけだ。お前を殺す理由はない」
「デモ、俺ハオ前ニ一発食ラワセル理由ガアル」
 冷たく言い放つジンと、怒りを露わにするテテロが対峙する。テテロが刃を振りかざして飛び出そうとした、その時だった。
「やめて、テテロ!」
 呼び止められ、テテロの動きが止まった。その隙を見逃すことなく、ジンが彼のふところまで一気に迫る。突き出される短刀を、テテロは間一髪のところで身を翻して避けた。ジンの手の届かない空中にとどまり、レディスタを見下ろす。
「何ダヨれっど! コイツハくろりあヲ――」
「いいから早くクロリアを連れて逃げて、お願い!」
 今度はクロリアが口を挟む。
「ば、馬鹿言うな! それじゃあお前が――」
「私は大丈夫だから。クロリアこそその傷、放っておけないでしょ!」
 レディスタをジンと二人きりにすることなど、危険極まりない。信じたくなくてもジンは今、殺意に満ちた暗殺者と化しているのだ。しかしレディスタの強い意志を感じさせる言葉に、クロリアの心は揺らいだ。
 テテロは決心のつかない彼の服をくわえ、強引に自分の背に乗せた。
「おい、テテロ……」
「行コウ! 今ハれっどヲ信ジルシカナイヨ」
 確かにここでジンと戦い続ければ、負傷したクロリアの方が危ないに決まっている。クロリアは観念し、そっとレディスタの方を振り返った。
「……戻ってこいよ」
「当然!」
 レディスタもきっぱりと返す。その言葉を合図に、二人は夕暮れの町並みへと飛び去っていった。塔の上の人影は、レディスタとジンの物だけとなった。
 二人は距離を置き、しばらく互いを見据えていた。ジンの静かな声が、その複雑な沈黙を破る。
「……七年ぶりだな、レッド」
 先程までの冷たい印象はどこへ行ったのだろう、呟く彼の表情はとても柔らかかった。懐かしい声、懐かしい笑顔。声変わりしているものの、大人びているものの、彼は間違いなくかつての親友のジンだった。そう確信した瞬間、レディスタの胸に激しい感情がどっと流れ込んできた。
「ジン……っ」
 やっとのことで、彼女はジンの名を呼ぶことができた。
「どうして、どうしてよ! リドアールが失われたのは、もう何年も前のことなのに! ジンとクロリアは、いつも一緒だったのに!」
 堰を切ったように叫ぶレディスタの両眼は、声を張り上げるごとに潤んでゆく。
 幼い頃、ともに遊び、ともに笑い、ともに故郷を失った。ジンは未来を守るため、大親友のクロリアを殺そうとした。そして二人とも、レディスタの前から姿を消した。
 ジンがいなくなった理由はこれだったのだ。クロリアを見つけ、今度こそその命を絶つために、彼までもがすべてを捨てて旅に出ていたのだ。
「レッド……」
「故郷を失ったって、二人は親友同士のはずでしょ? どうしてまだクロリアを許してあげられないの? あれは事故だったのよ! クロリアは世界を滅ぼしたりなんかしないわ……!」
 慰めるように呼びかけるジンの声も、レディスタには届かない。溢れる涙は止まらず、こぼれ落ちて塔の敷石に濡れ跡をつけていく。
「もうやめて。二人が殺し合うなんて、そんなの耐えられないよ……」
 これ以上言葉を続けることができなかった。涙と激情が次から次へと込み上げてくる。声と足が震える、両足で立っているのが辛いほどに。レディスタは濡れた顔を拭うのも忘れ、嗚咽を漏らしながらその場に佇んだ。
「……俺は今だって、お前もクロリアも大好きだ」
 低く囁くような声に、レディスタは伏せていた顔を上げた。
「親友だと思ってる。かけがえのない、大切な」
「じゃあどうして――」
 レディスタはまたしても大声をあげそうになったが、ジンのもの言いたげな視線に気づき、途中で言葉を呑み込んだ。
「言ったはずだ。俺が狙うのはクロリアじゃない、『許されざる者』なんだ。例えそれが親友だろうと、消さなきゃならないんだ、この手で」
 黙って彼の言葉を聴いている間にも、やりきれない思いがレディスタの心に重くのし掛かってゆく。目尻から新たな雫が押し流される。
「お前にもわかるだろう。この七年の間、ただそれだけを信じて生きてきた。昔の自分を殺して、暗殺者としての腕を磨いて、世界のあちこちを彷徨って――何も間違ってなんかいない」
「わからない……わからないよ……」
 ジンはこの世界を守ろうとしてくれている。個人のことよりも、世界のことを優先して生きている。自らの負った使命に忠実に、ただそれだけを胸に――そう、何も間違っていない。でも肯定したくない。できるはずがない。
 なぜ親友が親友を殺さなければならないのだろう。神はこんな無情なことをお望みなのか。こんな悲劇を背負うために、二人は生まれてきたというのか。誰を憎めばいい。どうすればいい。どうすれば――。
 答えのない問いが、レディスタの頭を駆け巡る。やりきれない思いが彼女の心を掻きむしる。
 黙って彼女の様子を見つめていたジンは、そっと落とすように呟いた。
「……すまない」
 うつむいていたレディスタが弾かれたように前を向いたときには、もうジンの姿はなかった。





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