第七話 届け


 クロリアが目覚めたとき、窓の外では既に高く日が昇っていた。あれから半日が経っていたのだ。
 彼は昨日、テテロに連れられてリトの家まで戻った。腹から血を流しているのを見て仰天するリトに、二人は塔でジンと出会ったことを告げた。そしてクロリアは療養のため、すぐさまベッドに寝かせられたのだった。彼自身、負った傷はもちろんのこと、たび重なる戦闘の疲労も溜まっていたので、こうしてゆっくり休めたのはありがたかった。きっと今の今まで死んだように眠っていたのだろう。
 そっと身を起こすと、無音だった部屋に衣擦れの音が妙に大きく聞こえた。体調はすっかり良くなっているようで、意識もはっきりしている。この分だと、傷も大事に至らずに済みそうだ。包帯の巻かれた脇腹に手を当てて、そんなことを考える。
 おもむろにベッドから降りて窓辺へ向かった。陽光を浴びて白く透けるカーテンを横に滑らせ、鍵を外して窓を開放する。爽やかな風がクロリアの頬を撫でていった。窓枠に寄りかかり、ぼんやりとシルヴィラスの町並みを眺める。
 まったくのどかな町だ。外界でどんな惨いことが行われているか、きっとここの人たちは知らない。人は日々憎しみあい、殺しあう。その矛先はもはや人間だけにとどまらず、かつての敵である竜族や獣人たちにも向けられている。それが日々エスカレートしていく。世界中が少しずつ不穏な空気を漂わせ始めていることに、旅人のクロリアは感づいていた。
 コンコン。
 思わず知らず険しい表情をしていたクロリアの耳に、ふと小さな音が聞こえた。振り返ってみると、開いたドアの向こうにテテロが立っていた。
「ヤット起キタナ。調子ハドウ?」
「ああ、もう大丈夫。心配かけたな」
 クロリアがそう返すと、テテロは返事の変わりににかっと笑った。しかしそれはすぐに複雑な表情に変わった。
「……アノサ、ゴメンナ」
 唐突な謝罪の言葉に、クロリアはきょとんとした顔でテテロを見つめた。
「アノじんッテ奴……オ前ノ友達ダッテ知ラナクテ、アンナコト……」
 申し訳なさそうに呟くテテロに、クロリアは「無理もないよ」と苦笑いを浮かべた。
 きっと自分が眠っている間、彼はリトから聞いたのだろう、自分たちの過去から今に至るまでを。もちろんそれ自体は構わなかった。テテロは心から信頼できる相棒だ。すべてを打ち明けることにためらいはない。ただ、テテロにもこんな重いものを背負わせてしまったのかと思うと、心苦しさは否めなかった。
 部屋の扉がまたしても開いた。テテロの背後に見えたのはレディスタの姿だった。
「あ、レッド」
「……」
「心配かけて悪かったな。おかげでだいぶ良くなったよ。予定通り、明日には出発できそうだ」
「……そう」
 レディスタのそっけないそぶりに、笑顔で話していたクロリアも少し心配になった。テテロはクロリアを見、レディスタを見てから、気まずそうに部屋を去った。
「レッド……?」
 心配そうに尋ねても、レディスタは返事もしてくれない。無言のまま、コツ、コツと小さな足音を立ててクロリアの方までやってくる。
 目の前まで来ても、うつむく彼女の顔は深紅の前髪に隠されて見えない。クロリアは気まずい空気の中、そんなレディスタをただただ見つめるしかない。しかし次の瞬間、彼の思考は停止した。
 ――レディスタが、クロリアの胸に飛び込んできた。
「な……」
 クロリアの顔が真っ赤に染まる。彼女の重さと柔らかさと温かさに、彼は戸惑うばかりだった。以前アトルスの町でもこんなことがあったが、それとこれとは別だ。何しろ今自分の腕の中にいるのは、幼馴染みであるレディスタなのだから。恥ずかしさと驚きに阻まれて思考がついていかないまま、クロリアがそっと声をかける。
「レッ――」
「もう! もうやめようよ!」
 レディスタの大声がそれを阻んだ。紅い艶やかな髪に触れようとしたクロリアの手が止まる。
「私、クロリアにもジンにも死んでほしくない! 戦って欲しくないの!」
「!」
 クロリアは言葉を失ってしまった。喉から絞り出すようなレディスタの一言が、彼の胸に突き刺さる。
 自分だってそれを望んでいるわけではない。リドアールで楽しく、無邪気に暮らしていた頃に戻りたい。でも。
「もうこんなことはやめたいのに。やめさせたいのに。私にはその力がない……」
 透き通った金の瞳に涙を滲ませながら、震える声で呟く。クロリアの中に熱い思いがじわりと染み渡る。彼の胸にきつく顔をうずめていたレディスタは、突然顔を上げて訴えた。
「みんな、こんなことは望んでないのに! どうしようもないことなの? 必要なことなの? 親友が親友を殺すのが? ねえ……!」
 頬を伝い、光り輝く水玉となって落ちる涙。とどまることを知らないそれは、レディスタの心に溢れ出す悲しみそのものだった。
 クロリアは彼女の顔を見つめたまま黙りこくってしまった。彼女の問いに答えられなかった。
 これからどうするべきなのか、それは自分にもわからない。生きるべきか、殺されるべきか。自分の命が絶たれれば、世界の人々は歓喜に叫ぶだろう。未来の破壊神が滅びた、と。――しかし本当にそれで世界は救われるのだろうか。憎しみ、争い、血を流すという恐ろしい循環はそのままに、世界を確実に蝕んでいくのだ。
 それに、かけがえのない親友であるジンが、同じく無二の友であるクロリアを殺そうとしている。こんな悲惨なことが、世界を救うためには避けては通れない道だというのか。それで辛い思いをするのが自分だけならまだしも、今目の前で泣いている彼女はどうなるのだろう。世界が『許されざる者』の死に歓喜する中、彼女は独り悲嘆に暮れるのだ。本当にそんなことが正しいと言えるのだろうか。
 様々な思念が複雑に絡まりあい、クロリアの心の中をのたうって回る。
 彼は何事か言おうとして、すぐに口をつぐんだ。そして少しのためらいの後、そっと、壊れやすい硝子玉を包み込むようにレディスタを抱きしめた。突然訪れたぬくもりに、レディスタは息を呑んだ。
「レッド……」
 愛しい名前を呟くが、続ける言葉が見つからない。
 ――泣くな、なんて言えない。彼女の涙は自分のせいなのだから。
 ――ごめん、なんて言えない。自分はこれからも彼女を悲しませるだろうから。
 それを望んでいるわけではない。しかし旅を終わりにすることはできない。事実は変えられない。後戻りはできない。
 だからクロリアには、不器用に彼女を抱いて、その名を呼んでやることしかできなかった。他の誰が知るだろう。世界を滅ぼすはずの者が、こんなにも無力だったと。
 やりきれないその思いを察したのか、レディスタはそれ以上何も言わず、その腕の中で肩を震わせて泣き続けた。



 翌朝、シルヴィラスの町は冷えた空気と真っ白な朝霧に包まれていた。家々にはまだ灯りも見られず、町は限りない静けさを湛えていた。旅人と翼竜の足音だけが、その静寂をそっと破る。彼らの姿は遠ざかるごとに霧に包まれ、薄い影となり消えてゆく。
 彼らはもう、レディスタたちの家からだいぶ離れたところを進んでいた。いつかクロリアがテテロのもとを去ったときのように、今度はやっとのことで再会した家族のもとをそっと後にするのだ。許されるのなら、ずっとこの町で穏やかに暮らしたい。しかしそれは叶わない。
 黙々と歩き続けていたクロリアの足が、不意に止まった。
「くろりあ?」
 テテロが不思議そうに振り返る。クロリアは何か、遠くのものを見つめるような眼差しをしていた。
「テテロ、あれ」
 クロリアが顎でしゃくった先を見てみると、遠くに朝霧でぼやけたレディスタの塔があった。
「ア、コナイダノ塔ダネ。……ソレガドウカシタ?」
「……行こう」
「ハ?」
「行くんだよ、あそこに」
 言いながら、クロリアはテテロの背に飛び乗った。彼が一体何を考えているのか、テテロにはさっぱりわからなかったが、たまには彼の気まぐれに付き合ってやってもいいと思い、その翼を大きく広げた。
 冷たい空気を切って塔にたどり着き、ごつごつした石畳の上に立つ。テテロが見守る中、クロリアは迷うことなく塀に足をかけて上に飛び乗った。一歩踏み出せば真っ逆さまだ。これにはテテロも仰天した。
「マママ待テッ、早マルナくろりあ!」
「ばか、何考えてるんだよ」
「ソリャコッチノ台詞ダ! 何ナンダヨ一体……」
 声を立てて笑うクロリアに、テテロはいらいらした口調で聞き返す。クロリアはそっと微笑んで答えた。
「この町を離れる前に、ちょっとやっておきたいことがあってな」
 塔を背にして立ち上がり、シルヴィラスの町に向き合う。ベルトポーチから蒼い笛を取り出し、クロリアは爽やかな声で言い放った。
「……さて、夜明けの儀式を始めようか」
 笛にそっと口づけ、息を吹き込む。
 朝霧の中に浮かぶ町に、透き通った美しい音色と柔らかな光の泡とが降り注ぐ。冷たい空気に温かな何かが滑り込み、町全体を優しく包み込む。清き笛の音は、オルゴールやハープ、オカリナにも似た優しさを湛えて響き渡る。幾重にも重なり生まれる和音が、朝の空に広がってゆく。
 クロリアはその不思議な音色を、東の彼方にまで伸ばしていく。緩やかな風にのってふわりと飛んでいく、音と光の雫たち。それが地平線に達したとき、目が眩むほどの光が飛び散った。
 ――日の出だ。
 眠りから目覚めた朝日は、暗くよどんだ天空を照らしだし、言葉では言い表せないような美しいグラデーションを生み出す。そして、町を覆っていた朝霧をもそっと取り払う。
 地上で醜い争いが起こっても、たくさんの悲しみが生み出されても、生ける者たちが許されない罪を犯しても、朝日は絶えず自分たちを見守り、導きの光を与えてくれる。
 世界を讃えるかのような眩しい陽光とともに、蒼い笛の音は大地に浸透していく。シルヴィラスの町はこうして朝を、今日を迎えた。
 クロリアは笛を奏で続けた。この町を去る前に届けておきたい思いがあった。そしてそれは今、蒼い笛の音に乗って、シルヴィラスの町、そしてそこに暮らす大切なひとへと運ばれてゆく。
 ――届け。



 まだ夜が明けて間もないうちに、レディスタはそっと目を覚ました。おもむろに身を起こして、それとなく窓の方を見やる。
 そのときだ。朝の静寂の中に、レディスタはかすかな旋律を聞きつけた。ハッとして、もう一度よく耳をすます。布団をはねのけ、上着を羽織って表へ出る。
 サンダルを履いた素足に朝露が冷たかった。頭上には七色に彩られた朝の空が広がる。その優しい光とともに、柔らかく爽やかな音色が耳に届く。素晴らしい一日の始まりに、レディスタは心を洗われた気がした。
 聞き覚えのある美しい音色は、朝霧の向こうに霞んだあの塔から聞こえてくる。それがわかったとき、レディスタは確信した――懐かしい、クロリアの蒼い笛の音だと。
 幼い頃はあどけなかったその音色は、今では荘厳な大コーラスを思わせるものに変わっていた。彼はもう、昔のように笛の力に怯えることはなくなったのだろう。クロリアが自分の意志で生み出す、果てしなく壮麗な旋律。レディスタは目頭が熱くなるのを感じた。



 ――ありがとう。私もう、泣いてばかりいるのはやめる。クロリアがその笛を吹けるように、私にしかできないことがきっとある。だから私は、それを信じて進んでいこう。世界も、クロリアも、ジンも、みんな助けることだってできるはずだから。それを叶えたいから。
 ――私たちはばらばらになってしまったけれど、それでも確かに繋がっていると感じるの。だからきっとまた会えるよね。この世界のどこかで……!





back main next
Copyright(C) Manaka Yue All rights reserved.

inserted by FC2 system