星屑の瞬きが空を埋め尽くす頃、クロリアはそっと目を覚ました。意識は朦朧としていたが、状況把握くらいならできた。自分は洞穴の中にいて、いつの間にか雨が止んでいること、今は夜で、近くの焚き火が視界を明るく照らし出していること、そしてその向こう側に、あの竜が座っていること……。 クロリアが僅かに身動きする音に気付き、竜は焚き火越しに彼を見やった。 「ア、起キタ? 良カッタァ、死ナナクテ」 言葉の意味を頭で噛み砕くのに、多少時間がかかった。身を起こそうとすると体のあちこちが疼き、クロリアは思わず息を漏らした。 「バババ馬鹿ッ、マダ起キルナヨ! 傷口ガ開クダロウガ」 諦めて大人しく横になりながら、クロリアは静かに呟く。 「ここは……」 「偶然見ツケタ秘密ノ洞窟、ナンテネ。隠レ家ニモッテコイダロ?」 竜は悪戯っぽく笑った。 「連れてきたのか? お前もけがしてるのに」 「何言ッテンダヨ。竜ノチ……エット、チウ……」 「治癒能力?」 「ソレソレ。俺タチニハソレガ人間ノ何倍モアルンダ。ダカラアレグライノ傷、何テコトナイノ」 得意げに話した後「……マァ、アノママダッタラ確カニ危ナカッタケド」と小声で付け加える。クロリアは「そっか」と短く呟いて、真っ黒な土の天井を見上げた。 「ソーイヤ、マダ名前ヲ聞イテナカッタナ。何テ言ウノ?」 「……クロリア」 「フーン……。ナァくろりあ。サッキ『人間ジャナイ』ッテ言ッテタヨナ? アレ、ドウイウ意味?」 その無邪気な質問に、クロリアはすぐには答えなかった。答えられなかった。思い出したくない昼間の出来事が、脳裏に鮮やかにフラッシュバックする。 しばしの沈黙が流れる。しかし竜が返答を急かすことはなかった。そのさり気ない気遣いが、今のクロリアにとっては有難かった。しばらく経ってから彼は重い口を開いた。 「……そのまんまの意味。人間じゃないんだ。知ってるだろ、『許されざる者』って」 息を呑むのが聴こえた。今になってクロリアは竜の反応が怖くなった。だが竜は故郷の住人たちとは違い、突然突き放すような真似はしなかった。 「オ前ガ……?」 クロリアは哀しげにこくりと頷いた。当然竜も、そんなことはすぐには信じられなかった――この目の前の繊細な少年が、将来世界を滅ぼすなどと。 クロリアはベルトポーチに収まっていた蒼い笛を軽く掲げ、ゆっくりと話した。 「それで、町の人から殺されそうになった。夢中でこの笛を吹いたら、いつの間にか町がなくなってた。俺にも何が何だかわからなくて……気付いたら、ここに……」 ぼんやりと上に向けられたクロリアの瞳が潤む。虚ろなその様子を見つめながら、竜はひとつ溜息をついた。 「……同ジダナ」 クロリアが竜の方を見やる。竜はその大きな眼に揺れる炎を映しだしながら、呟くように語りだした。 「俺モ昨日、住ンデタ村ヲ失ッタ」 「……竜狩りか」 哀しげに頷く竜の姿が、どこかクロリアに重なる。 「ダケド、ヨク覚エテナインダ。アンマリ酷イ光景ダッタカラ。家族モ仲間モ、ミンナ殺サレテサ。必死デ戦ッタンダケド駄目ダッタ。ミンナ俺ノ目ノ前デ死ンデッタ。今デモハッキリ目ニ焼キツイテルノハ、スッゴク緋イ、炎ト血ダケ……」 竜は一度、言葉を切ってうつむいた。搾りだすように語るその様子が痛々しくて、クロリアは胸が苦しくなった。 竜が再び顔を上げる。今度はその眼に、ただならぬ憎悪をみなぎらせて。 「ダカラ、人間ヲ許サナイッテ決メタンダ。仲間モ、家族モ、ミンナミンナ奪ッテイッタ人間タチヲ、俺ハ……絶対許サナイ」 クロリアはぞっとした。この竜は本気だ。紅蓮の瞳がそれを物語っている。復讐のため、無差別に虐殺されていった仲間たちのためなら、きっと自分の命も顧みないだろう。 「……違うよ」 静かな声に、竜ははじかれたように顔を上げた。クロリアは仰向けに寝転がり、哀しげな眼差しで天井を見上げていた。 「人間がみんな、そういう奴ばっかりだと思ったら……それは、違うよ」 その言葉に、突然竜は憤りを露わに怒鳴りだした。 「確カニソウカモ知レナイ。ケドナ、俺ノ仲間ハ『竜ダカラ』ッテ、タッタソレダケノ理由デ皆殺シニサレタンダゾ! ダカラ俺モ復讐スル。『人間ダカラ』ッテイウ理由デ!」 「なら……お前が味わった苦しみを、その人たちにも味わわせることになる」 竜は一瞬言葉に詰まった。 「竜狩りの奴らがお前たちにしたのと同じことを、お前はやろうとしてる……」 「デモ! ……ダッタラ、オ前ハドウナンダ?」 クロリアがびくんと体を強ばらせる。 「町ノ奴ラハ『許サレザル者』ダッテワカッタ途端ニ、オ前ヲ殺ソウトシタンダロ? 憎ク思ワナイノカ? 怒リモ感ジナイノカ!」 激情に任せ、きつく言い放たれる言葉。クロリアは少し目を細めた後、呟くように、しかしはっきりと告げた。 「……でも、最後まで見捨てないで、手を差し伸べてくれる人がいたから。大事な家族と友達がいたから……」 クロリアの瞳は虚ろだったが、それでもその言葉には確信があった。 「だから俺、人間を憎んだりはしないよ」 クロリアはそれっきり、何も言わなかった。竜も完全に言葉を失ってしまった。長い長い沈黙が、一人と一匹だけの洞窟を満たす。 しばらくして、クロリアがそっと切り出した。 「そう言えばお前、名前は?」 竜はちらとクロリアの方を見やり、ぼそりと言った。 「……ナイ」 「ない?」 「俺ノ親……名前ヲツケル前ニ、竜狩リデ殺サレタカラ」 「あ……ごめん」 クロリアは申し訳なさそうに謝った。だが意外にも竜は、先ほどの様子からは想像もできないような穏やかな微笑を浮かべた。 「ウウン、別ニ気ニシナイ。……ソレヨリ、謝ルクライナラオ前ガ名前ヲツケテヨ!」 突然の頼みに、クロリアは驚きを隠せない。 「名前?」 「ソ、名前。ドウセ俺ニハモウ肉親ナンテイナインダシ、コノママジャイロイロ不便ダロ」 「えっと、そうだな……」 顎に手を当てて考えこむクロリアを、竜は黙って見つめていた。そしてふと、クロリアが小さく呟く。 「テテロ」 「テ、ててろォ?」 素っ頓狂な声で、その名を繰り返す。 「オイ、何ダヨソノ間抜ケナ名前! モット格好イイノナイノカヨ?」 「文句言うなよ、お前が俺に頼んだんだから!」 「デモサー。アマリニモセンスガナサスギダロ!」 「だったらもういい、寝る!」 「ア、チョット待テヨくろりあ! ゴメンゴメンッ、謝ルカラ!」 ふたりは同時に笑いあった。久しぶりに心から笑えたと、どちらもそう思っていた。何か通ずるものがあった。そしてそれを、お互いに確信していた。 その後もクロリアと竜は、いろいろなことを話しあった。その様子はまるで、彼らがずっと前からパートナーだったのかと思わせるほど自然だった。そしてふたりとも、いつの間にか疲れて眠っているのだった。 明くる日の朝早く、竜は目覚めた。起き抜けで視界がぼうっと霞み、手でごしごしと両目をこする。目の前には、もはや真っ黒になって原型すらとどめない焚き火がある。そしてその向こうにはあの少年、クロリアがいるはずだった。 「!」 彼の姿はどこにもなかった。こんな朝早くから出かけたのだろうか。竜は辺りをきょろきょろと見回してみるが、やはり彼の気配はどこにもなかった。 竜とクロリアは、偶然出くわしただけの関係だ。だから彼が何の断りも入れないでこの場を後にしてしまうなど、考えてみれば当然のことなのかもしれない。 しかし竜は、なぜか気分が落ち着かなかった。たった一晩共に過ごしただけの少年がいなくなっただけで、こんなにも胸の奥が締めつけられるのはなぜだろう。 この気持ちは、一体――。 しばらくした後、竜は思い立ったように洞窟を飛び出した。 洞窟から少し離れた森の中。クロリアは道なき道をあてもなく進んでいた。 結局、竜に何も言わずに出てきてしまった。その理由は自分でもわからないが、ひとつだけ言えることがある。――いつからか、自分はあの竜に自らの面影を重ねていたのだと。 故郷をなくし、すべてを失い、見知らぬ場所を彷徨って偶然出会った一人と一匹。ふたりとも笑ってもどこか淋しげで、負の感情と心の痛みに溺れていた。だからクロリアは、どうしてもあの竜を自らと重ねて見てしまう。そしてその彼を、こんな孤独な旅に巻き込みたくなかった。 延々と続く藪の中を進みながら、クロリアはそんなことを考えていた。そして次の瞬間、ぐらりと視界が傾いた。 「わ!」 注意力散漫だった。クロリアは地を這うようにうねる木の根につまずいていた。小さな叫び声をあげ、勢いのままその場に倒れ伏す。 身を起こそうとした途端、体のあちこちから焼けつくような痛みが迸った。起こしかけた体が、再びその場に崩れ落ちる。 クロリアは包帯の上から、肩や腿の傷口に触れてみた。塞がりかけていた傷口が、また口を開けてしまっている。やはり無茶だったのだろう。 そのとき彼は、どこかから何者かが近づいてくるのを感じた。身構えようとしたが、傷口が激しく痛みそれを阻む。どうすることもできないまま、彼はただ接近してくる音を聴いているしかなかった。次第に、重めの羽音と風を切る音が大きくなる。 まさか――。 「くろりあ!」 目の前に降り立ったのは紛れもない、昨日の翼竜だった。クロリアが傷の痛みも忘れて叫ぶ。 「お前! どうしてこ――」 「馬ッ鹿野郎! ソノ傷デ本当ニ森ヲ歩キ回レルト思ッタノカ? 少シハ頭使ッテ考エロヨ!」 竜はクロリアを見下ろしながら、声の限りに喚き散らした。意外なほどの凄まじい剣幕に、クロリアも言葉を呑みこんでしまう。 「俺ニハ散々アンナ説教シトイテ! ソレデ俺ハ生キヨウッテ決メタノニ、自分ダケ死ヌツモリダッタノカ? 命ヲ大切ニシテナイノハ、オ前ノ方ジャナイカ!」 呆然とするクロリアに構わず、竜は一息ついて、少し落ち着いた調子で続けた。 「オ前、ソンナンジャ旅ナンカデキナイダロ。俺ガオ前ノ足ニナッテヤル」 「え?」 クロリアは思いもしなかった提案に耳を疑った。 「俺モ一緒ニツイテッテヤル」 「で、でもお前……」 「俺ダッテモウ帰ル場所ガナインダゾ。くろりあダケジャナイ」 当たり前のように言われたその言葉に、クロリアの胸の奥がじわっと熱を帯びる。 ――クロリアだけじゃない。 とても不器用で、最高に温かい言葉。 「ホラ、早ク乗レヨ! ア、ソレカラ俺ノコト、オ前ッテ呼ブノヤメロヨナ! 俺ニダッテ立派ナ名前ガアルンダカラ!」 「名前?」 竜の背によじ登りながら、クロリアはきょとんとして尋ねる。竜は自慢げに振り返り、満面の笑みを向けた。 「オ、自己紹介ガマダダッタッケ? ててろダヨ!」 一人と一匹はそのまま、暗い樹海からすっかり雨の上がった青空へと飛び立った。 |