第四話 雨の森



 いつの間にか、クロリアは知らない森の中を彷徨っていた。
 ――どこなんだろう、ここは……。
 クロリアはぼうっとする頭で考えた。今まで気付かなかった傷の痛みと激しい寒さが、ふらふらと歩みを進める少年を襲った。視界がぼやけ、意識が遠のいていく。
 ――そうか、死ぬんだ。どこかもわからない森の中で、誰にも知られずに……。
 その時だ。
 クロリアは意識を取り戻した。どこからか獣の低い唸り声が聞こえた気がした。耳を澄ますと、それに何度か咳きこむ音が続く。
 自分の死が近いことを悟ったからだろうか、不思議と恐怖は感じなかった。苦しそうにあえぐ誰かの声にいても立ってもいられず、微かな音を頼りにそちらへ行ってみた。露を湛えた雑草を踏みしめ、少しずつ気配のある場所へと近づいていく。
 その先で彼が見つけたものは、草むらにたった独りで倒れこむ若い竜だった。鳥のような翼を何枚も生やしていて、肩の辺りに深手を負っている。新しい傷のようだ。まだ血が溢れ出している。
 竜はそっとこちらを窺っているクロリアに気付き、キッとその方を睨みつけた。瞳孔は鋭く瞳は紅い。額にはくさび形の傷跡がある。
「ハッ……マサカコンナ所ニマデ、人間ガ来ルナンテナ……」
 自嘲気味に吐き捨てた後、竜は痛々しくうめき、再びその長い首を地面へ横たえた。クロリアは今一歩状況が理解できず、素直に問いかける。
「何のこと……」
「トボケルナ。オ前モ竜狩リノ一味ダロ」
 竜は傷の痛みに苦しみながらも、決して頑なな姿勢を崩さない。そんな彼とは対照的に、クロリアは穏やかな目つきで竜を見つめ、柔らかく話しかける。
「そんな訳ないよ。……その傷、竜狩りのときにやられたんだな。俺に見せ――」
「寄ルナ!」
 長い尻尾が唸りをあげて飛んできた。バシンと激しい音を立てて、クロリアの足元ぎりぎりに叩き付けられる。まともに当たれば骨を粉々に砕くであろう力だった。
「汚ラワシイ人間メ! 今スグココカラ出テイケ!」
 痛みをこらえながらがむしゃらに叫ぶ竜に、クロリアはひるむことなく向かい合い続ける。
「お前……その傷、放っておいたら死ぬぞ」
「ソレデモイイ! 人間ナンカニ助ケラレル方ガ、ヨッポド屈辱ダ! ドウシテモココヲ離レナイノナラ、俺ガオ前ヲ殺シテヤル!」
 竜が片腕を高く掲げた。パァッと眩い光を放ったかと思うと、次の瞬間、短かった爪が鋭い刃と化していた。突然現れた巨大な銀の刃物に呆気に取られながら、クロリアが呟く。
「そうか、お前未知能力竜(アンノウンドラゴン)なのか。だから竜狩りで狙われたんだな……」
 未知能力竜(アンノウンドラゴン)は、世界中で一番稀少とされる種族だ。それぞれ何らかの特殊な能力を携えていて、その数は年々減少している。その一番の理由が人間たちによる極端な狩猟、俗に言う竜狩りだった。これを人間たちはゲーム感覚で行うが、竜たちにとってはとんでもない悲劇の大量殺戮だった。中でも未知能力竜(アンノウンドラゴン)の眼球や皮や牙は高い値で取り引きされるため、竜狩りは人間の金儲けの手段として確立してしまった。この竜の場合、自在に肉体の性質を変えたり、変形させたりする変身能力を持っているのだろう。
 クロリアはそっと微笑み、限りなく優しい眼差しで竜を見つめた。
「……だったらなおさら、お前はこんなとこで死んじゃいけないよ」
 そう言ってゆっくり歩み寄ると、竜は急に怯えだし、必死でそれを拒んだ。
「ヤ……ヤメロ、寄ルナ! 来ルナッ!」
 刃に変身させた爪をぶんぶんと振り回して威嚇するが、クロリアの歩みは止まらない。
「来ルナッテバ!」
 叫んだ瞬間、竜の鋭い刃がクロリアの右肩を貫いた。飛び散る深紅。竜は思わず目を見開いた。弾みだった。そんなつもりはなかったのに。
「う……」
 激痛に歪んだクロリアの口から、微かに声が漏れる。竜は瞬きを忘れてしまったかのように、唖然としてその様子を見つめていた。
 沈黙を破ったのはクロリアだった。彼は何事もなかったかのように、再び竜の方へ歩き出したのだ。これには竜も度肝を抜かれた。
「オ、オイ、来ルナッテ言ッテルダロ! ヤメロ、ヤメロヨ!」
 彼はおもむろに腰を落とし、生々しい傷口にそっと触れた。竜は抵抗することも忘れて呻きながら、焼けつくような痛みに歯を食いしばった。
「心臓までは届いてないみたいだ。でも出血がひどい。早く止めなきゃ」
 クロリアが言い聞かせるように呟いた。そして突然、何の迷いもなく自分のコートの右袖を破った。それをためらうことなく竜の傷口へ押しつける。
「ワアアッ!」
「我慢しろ! 死にたいのか」
 激痛に暴れだす竜を、クロリアが大声で叱りつける。
 根気強く傷口を圧迫し続けると、出血がだんだんと治まってきた。布があますところなく完全にどす黒くなってしまった頃、ようやく血は止まった。クロリアが汗だくになりながら、ほっと一息つく。
「これで、何とか……」
 彼の顔に安堵の微笑みが浮かぶ。竜はそんな目の前の少年を、食い入るように見つめていた。
 今でもそのほとんどが敵対している竜と人間。それなのにこの少年は、自分を殺して売ることもせず、かといってこの場から逃げもしないで、自分の怪我の治療に当たった。しかも自分が、彼を攻撃して傷つけたのにも関わらず。
 竜の中に、たくさんの疑問と不思議な感情がこみ上げてくる。
「オ前、何デ俺ヲ助ケタンダヨ……。俺ハ竜ナンダゾ。ナノニ……」
 竜が複雑そうな声音でそう問うと、クロリアはふわりと笑った。今にも壊れてしまいそうな、儚い笑顔だった。
「竜とか人間とか、そんなの関係ないよ。俺はお前に死んでほしくなかっただけ。それに俺……人間じゃないから」
 人間じゃない? そう、竜が問い返そうとしたときだった。
 クロリアの身体が音もなく地面へ倒れた。思わず竜の口から「オッ、オイ!」と声が飛び出す。竜は今になって、自分が負わせたもの以外にも、その体に数え切れないほどの傷があるのに気がついた。銃で撃たれた痕、思いきり殴られ、蹴られたような痣――。
「マッタク、死ニソウナノハドッチダヨ……」
 雨と血と汗にずぶ濡れになった少年を目の前にして、竜はひとり呟いた。





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