第三話 罪



 痛々しい沈黙が教会を襲った。ただひとつ、教主の叫び声の余韻だけが響き渡る。

《――許されざる者、二ツ月の年、雷(いかずち)と共に大地に降り立つべし。その者、深き刻印の業(わざ)にて戦乱を招き、人々を恐怖に陥れん。悪魔の術を用い、星々と太陽を奪い去り、世界を滅びの道へと導かん――》

 宗教や種族の別なく、代々伝わる古の伝承。その中でまざまざと語られている、世界を滅ぼす『許されざる者』。それがこの無邪気な少年である……と?
「そ、そんな馬鹿な! こんな子供に何ができるというのですか!」
 赤の他人の人々でさえ、唐突に突きつけられた教主の言葉は理解できなかった。しかし彼は狂ったように、唾を飛ばして叫び続ける。
「うるさい! こやつの瞳を見ればわかるのだ。両眼に悪魔と天使の紋章――邪悪なる混血の象徴だぞ! そして……」
 教主は容赦なくクロリアの両手首をつかみ、手袋を強引にはぎ取って高く掲げた。
「見よ! 両手にも刻印が施されておるぞ。皆の者、よくその眼に焼きつけておくがよい。これがあの、世界を破滅へ追いやる『許されざる者』の手だ。天使を冒涜した混血の悪魔の手だ。今、我々が抹殺すべき者の手だ!」
 言い放った途端、教主はクロリアの体を地面に叩きつけた。クロリアが息を詰めて痛みに呻く横で、人々は驚愕に言葉を失った。
 かつての大戦争――カノロス人竜大激戦で、神の使者はふたつの陣営に分かれて参戦した。『生』を司る者と『死』を司る者である。のちに、人間の側についた『生』の使者は天使、竜や獣の側についた『死』の使者は悪魔と呼ばれることになった。
 もちろんこの名は、人間の側が勝手につけた差別用語である。しかし呼び方はどうあれ、彼は天使と悪魔の混血――天使にも、悪魔にも、人間にも竜にも獣にもなりきれないモノなのだ。この世に存在してはならない『許されざる者』なのだ……。
「さあ、今すぐ息の根を止めるのだ! こやつは二ツ月の年、世界に大いなる災いをもたらすぞ!」
 リトは絶望した。この日が来るのを恐れていた。初めてふたつの紋章を目にしたときから感じていた恐ろしい不安が、今この瞬間、現実のものとなってしまった。
 教会はとてつもない恐慌状態に陥った。泣き叫ぶ者、恐ろしさのあまり声を失う者、憤りに任せて怒鳴り散らす者、子供を連れて会場から飛びだしてゆく者――。人々は恐怖のどん底に叩き落とされた。
 リトは咄嗟に、倒れ伏したクロリアの手を引いて逃げ出そうとした。しかしクロリアはあっという間に教主たちに捕らえられ、再び床にねじ伏せられた。頭を踏みつけられ身動きの取れなくなったところに、容赦なく暴行を加えられる。拳や杖や革靴が、雨霰のように降ってきて息もつけない。いや、もとより息をつかせる気などないのだろう。人々が殴りつけ、蹴りつけてくるその一回一回から、心の叫びが聞こえてくるようだった。
 ――今殺さなかったら、殺される。
 クロリアは痛みと恐怖に押し潰されそうになり、むせ返りながら必死でリトたちの名前を呼び続けた。しかしこんな状況では、リトのような老人や、ジンとレディスタのような子供には、救いの手を差し伸べることすらできないのだ。リトは自分の無力さと目の前で起こる惨状にむせび泣き、レディスタは我を忘れて声の限りに叫んだ。
「クロリア! クロリアああああ!」
 酷い光景だった。反響する叫び声は余計に周りの者をパニックに陥れる。もはや教会は修羅場と化していた。
 クロリアは体中をがむしゃらに殴打されながら、聞きつけた恐ろしい言葉に凍りついた。
「誰か、誰かナイフを持ってこい! こいつの喉を掻っ切ってやれ!」
「いや、拳銃をよこせ! こいつは化け物だ、全身を蜂の巣にしない限り死なねえ!」
「それよりのこぎりだ!」
「確か裏の物置に斧が!」
 ――いやだ。
 クロリアの顔が恐怖に引きつった。頭の中が真っ白になった。死にたくない。その動物的本能とも言える思いが、全身を支配した。
 散々痛めつけられたその小さな体のどこに、そんな力が残っていたのだろうか。彼は一瞬の隙をついて身をよじり、奇跡的に人々の間をするりと抜けた。伸びてくる数え切れない手を振り切り、一心不乱に逃げ出す。あざだらけの体を無理矢理に動かし、全速力で駆け抜ける。
 知らず知らずのうちに、彼はルーン神像の前まで走って来ていた。後ろを振り返ると、血眼で押し寄せてくる人々の姿が見えた。殺せ。殺せ。地鳴りのような、正気を失った叫び声が聞こえる。
 クロリアは咄嗟に、ベルトのポーチから笛を取り出していた。その予想外の行動に人々は一瞬ひるみ、その場に立ち尽くした。クロリア自身、どうしてこんな行動に出たのかわからなかった。しかし今は、すがるものがこれしかなかった。
 ――助けて!
 クロリアは息を吹き込んだ。
 そっと目を閉じた。目をつむっていれば、目の前の恐ろしい現実を見なくて済む。外界を遮断し、自分だけの世界に浸ることができる。クロリアは自らのすべてを、その美しい音色に委ねた。
 ――どうしてこんなことになってしまったんだろう。みんなと笑いあって楽しく暮らす日々。そんな生活がいつまでも続くと、そう信じていたのに。自分が何をしたというんだろう。教主様の言う通り、自分の存在自体が罪なんだろうか。
 ――だけど、自分がそんな『許されざる者』だなんて、誰も教えてくれなかった。知らなかった。世界を滅ぼすつもりなんてない。それでも自分に罪があるんだろうか。死にたくない、そう思うことは罪なんだろうか……。
 熱い雫が頬をつたう。笛を奏でる手は止まらない。どうしようもない悲しみが、幼い少年を襲う。もう彼の耳には、涙の色に染まりきった笛の音しか届いていなかった。
 すっかり平静を失っていたクロリアにも、確信できることがひとつだけあった。
 ――昨日までの楽しい生活には、二度と戻れない。
 そう思った途端、クロリアの激情は頂点に達した。音は一層悲しく、すべてを呑み込むような威力を伴って響き渡った。
 どれくらい経った頃だろうか。笛の音が、空中に掻き消えるように止まった。涙ももう枯れ果てた。放心したまま、クロリアは閉じていた瞼をそっと持ち上げた。だが次の瞬間、彼はまたしても残酷な現実に襲われることとなる。
 町が、なかった。
「……え?」
 廃墟となった土地にぽつんと立っていたクロリアの口から、微かに声が漏れた。
 ――何が、起こったんだろう。
 クロリアの頭は恐ろしいほどに冴えていた。視界に入る物すべてが、彼の頭の中にストレートに浸透していく。
 自分たちがいた教会がない。ルーン神の巨像もない。広がるのは瓦礫の山だけだ。集まっていた住民たちもいない。軒を連ねていた家々がない。これらもただの石くずと化している。視界を遮る建物が、何ひとつない。
 足元に視線を落とした。瓦礫の下から、誰かの腕が伸びていた。あっちには足。あそこには潰れた頭。どれも動く気配がまるでなかった。完全に沈黙している。
 そしてクロリアは、自身の犯した罪を理解してしまった。――生まれ育った町を、この手で、破壊したのだ。
「あ、あ……」
 震えが止まらなかった。全身が痙攣して、立っているのが精一杯だった。それでも手にしている蒼い笛だけは、まるで貼りついてしまったかのように離れなかった。
 ――町を消した。自分が。暮らしていた人々を殺した。自分が。この笛で……。
 そう、彼が持っている笛も、どこにでもあるただの楽器などではなかった。俗に言われる『魔笛』――実在するのかすら定かでないとされた、半ば伝説じみた代物。笛が奏者を選ぶとまで言われる、とてつもなく大きな力を宿す楽器だ。これをもってすれば、水なきところに清水を、木々なきところに森林をといったことも可能だ――町のひとつやふたつ、一瞬で消し去ることすらも。
 この笛はクロリアが赤ん坊だった時分から、彼を奏者として選んだのだろう。しかしながら彼は、その膨大な魔力を操るには幼すぎた。
 クロリアの胸中に、自責の念が津波のごとく押し寄せてくる。押し潰さんばかりの勢いで、自らの頭を押さえつける。不安と恐怖と絶望が、彼の体を走り抜けていく。
 ――殺した。自分が。破壊した。自分が。すべて消し去った。そう、この自分が……!
 不意に目の前の瓦礫が、わずかに音を立てて動いた。クロリアがハッと顔を上げる。彼の目の前で、瓦礫は音と埃を立てて崩れた。
「あ!」
 瓦礫の下から現れたのは、埃にまみれたリトたちだった。クロリアが夢中でその名を叫ぶ。
「リト爺! レッド、ジン!」
「クロリア……おお……」
 ふらつく体を懸命に支えながら、クロリアはリトの老いた体にすがりついた。枯れきっていたはずの涙が、次から次へと溢れて止まらない。リトは泣きじゃくる愛しい孫を、強く抱き寄せた。
 ――こんなことは許されない。この子を抱き締めて慰めてやることなど、許されない。彼は存在してはいけないもの。世界を滅ぼす『許されざる者』なのだ。現に今、この子は自分たちの町を跡形もなく破壊してしまったではないか……。
 ――しかし、本当にすべての罪はクロリアにあるのだろうか。この無邪気な少年が不幸の根元だというのか。神はこんなか弱い子供に、死ねと仰るのか……。
 リトの中では『許されざる者』への恐怖よりも、クロリアへの愛の方が遥かに勝っていた。正しいとか間違っているとか、そんなことはどうでもいい。大切な家族が目の前で涙を流している、その事実がすべてだった。
 レディスタは彼らの隣で、力なく座り込んで泣いていた。すべてを失った悲しみと、奇跡的に生き延びたことへの安堵と、クロリアに対する困惑とが入り混じり、塩辛い雫となってあふれ出した。
だがジンは違った。まるで何の関係もない傍観者のような目で、その光景を見つめていた。透き通った銀の瞳の奥で、混沌と渦巻く思いが徐々に決意として固まっていく。
 彼は足元に転がっていた拳銃を、ゆっくりと手に取った。そして何の迷いもなく、その銃口を目の前に差し向けた。誰もその様子に気付かなかった。彼の瞳は不気味に煌いていた。次の瞬間、第二の悲劇が襲った。
 パァン。
 灰褐色の瓦礫に、緋い色が散った。その上に何かがどさりと倒れる。流れ出る鮮血は、瓦礫の上に更なる模様を描き加えていった。少女の叫び声が響く。
「ク……クロリアあああ!」
 レディスタとリトの目の前で、クロリアが仰向けに倒れていた。左腿が深紅に染まっている。
 その傍らにはジンが立っていた。しっかりと握り締めた拳銃からは、青白い煙が細く立ち上っていた。
 クロリアは半ば放心しながらジンの顔を見上げた。美しい銀の瞳には、溢れんばかりの憎悪と悲哀の焔が灯っていた。
「ジン、何を……」
「こいつが、クロリアが……」
 リトの言葉を遮り、ジンは激情に震える声で言った。
「俺たちの住んでた町を……大切な家族を……みんな、みんな奪っちまったんだ!」
 ジンは激しくのたうつ感情に任せ、もう一発撃った。その弾はクロリアの頬を掠めた。
「しかもこいつは『許されざる者』だ。今殺しておかなかったら、いつかこの世界まで壊される!」
 冷静さを失っていくジンに、レディスタは訴えた。
「何言ってるのよジン! クロリアはそんな人じゃないよ! 親友を殺すつもりなの?」
「ああそうだ! クロリアは俺の親友だよ。殺したくないし、死んで欲しくない! でも、『クロリアという存在』は許せないし、許されないんだ!」
 町を消し去ったのは、クロリアが意図的にやったことではない。それこそ『事故』と表現するのがふさわしい事態かもしれない。しかし目の前にいる『クロリアという存在』は、いずれ世界を滅ぼしてしまう者、抹消しなければならない存在なのだ。『クロリアという人間』は殺したくない。でも『クロリアという存在』は消さねばならない。
「だから……だから今、俺がクロリアを……!」
 ジンが、再度そのトリガーを引いた。しかし今度はクロリアもそれを察知し、反射的に避ける。チュンッと音を立てて、今までクロリアが倒れていたところで銃弾がはぜる。
「ジン……」
 クロリアの声が哀しみに震えた。
「クロリア、悪い。こんなことしたくないんだ、俺だって……。でもお前は将来、世界を滅ぼすんだろ?」
 ジンの中に、苦い思いが込み上げる。
 クロリアのような無垢な少年を好き好んで殺す人間など、いはしない。だが、それでも消さなければならない。そしてそれが親友である自分に課せられた使命なのかもしれない――ジンはそう思った。そしてまた震える手を持ち上げ、銃口をかけがえのない友人に向ける。
「そうなんだろ? クロリア……」
 ジンの銀の瞳から、キラリと光る雫がこぼれ落ちた。その美しすぎる涙と、透明すぎる銀の瞳に見つめられ、クロリアは今度こそ身動きひとつすることができなかった。
 嗚呼。次の瞬間、自分は死ぬ。そしてそれでも構わない。すべての罪は、自分にあるんだ――。
 しかし、いつまで経っても銃口が火を噴くことはなかった。ジン自身もトリガーを引くことができないでいた。
 ――できない。今まで一緒に遊んで、一緒に笑ってきた友達を殺すなんて。
 そう思うジンの目には涙が溢れ、視界がぼんやりと揺れる。
「……クロリア、走って!」
 突如レディスタの叫び声が響いた。クロリアは我に返る。
「走って! 早く逃げて!」
 せっぱ詰まったように訴えるレディスタ。
 クロリアは許されない。今生かしておけば、この町どころか世界が壊される。……それでも死んでほしくない。『クロリアという人間』に。
 思いを振り切るように踵を返して、クロリアは町の向こうへと駆けていった。銃弾が追ってくることはなかった。
 クロリアは走りながら泣いた。泣いた。泣いた。今まで自分が生活してきた町、共に暮らしてきた家族、そして仲間……。今、すべてを捨てなければならないのだ。
 なぜ? 自分がここにいるから? 昨日までの幸せな生活はどこへ? 自分は生きていていいのか? 今、ジンに殺されるべきではなかったのか?
 クロリアは激情に任せて走った。いつの間にか雨が降ってきていた。だが頬を打つ雨粒も、体中を襲う寒さも、どうでもよかった。すべてが壊れた……いや、すべてを壊したことへの哀しみだけが、今のクロリアを支配していた。
 雨はますます激しく降り注いだ。





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