第二話 あるひとつの記憶



 透き通るような音が一面に響き渡る。澄んだその音は、草原にぽつんと一本だけ生えた樹の上から聞こえてきた。根元には十歳ほどの女の子と男の子が寄りかかって座り、気持ちよさそうにその音色に耳を傾けている。
 音が止むと、赤毛の少女は樹の上を見上げながら可愛らしい声で言った。
「綺麗な音。やっぱりあたし、その笛好きだなぁ」
 隣でそっと目を閉じていた金髪の少年も、彼女に続いて振り仰いだ。
「俺も。なあ、もう一回吹いてくれよ、クロリア」
「えーっ、またぁ?」
 彼らの頭上から呆れ声が降ってきた。枝に腰掛けて半円状の笛を手にしているその少年は、疲れた様子で溜息をついた。
「仕方ないなぁ。じゃ、今日はこれで最後だからな!」
「もう、ケチー」
 少女が薄ピンクの頬をぷうっと膨らませて拗ねる。しかし美しい音色が再び耳に届いた途端、その顔はすぐ心地よさそうにほころんだ。



「ただいま、リト爺!」
 クロリアは通りに面した小さな家の扉を開けるなり、元気よく言った。物柔らかそうな老人が、部屋の奥から微笑みかける。
「おかえり、クロリア。今日は何をしてきたのかね?」
「笛吹いてあげてたんだよ。そしたらレッドもジンも、もう一回もう一回って言うから疲れちゃった」
「ほっほっほ、そうかいそうかい」
 リトは顔中の皺をくしゅっと寄せて、楽しそうに笑った。
 この二人、一見ごく普通の祖父と孫に見えるが、実は互いの間には血の繋がりがない。街の片隅に捨てられていたクロリアを、リトが偶然拾ったのだ。その頃はまだ生まれたての赤ん坊だったクロリアは、リトに名を与えられ、実の孫のように育てられ、こうして元気に毎日を過ごしている。
 それにしても、クロリアは昔から不思議な少年であった。彼が道端に捨てられているのを見つけたとき、その隣に両親の手紙などは一切なく、あるのはひとつの笛だけだった。すやすやと眠るクロリアは、見慣れない形をしたその蒼い笛を、柔らかい小さな両手でしっかと抱きしめていた。彼のお気に入りのおもちゃなのだろうと思い、リトはそれをクロリアと一緒に家へ持ち帰り、思い出の品として引き出しにそっとしまっておくことにした。
 それから何年か経った頃。引き出しの奥に眠っていて存在すら知らないはずのその笛を、幼いクロリアは見つけた。それだけならまだ、好奇心旺盛な年頃の子がやったことだから、という言葉で片付けることもできよう。しかしその後、まだ鉛筆を握ることもおぼつかないというのに、彼は見事なまでに笛を奏でてみせたのだ。その頃のクロリアにも似た、柔らかくあどけない音色を、リトは今でもよく覚えている。
「ねえねえリト爺、リト爺ってば」
「ん? ああ、どうしたね、クロリア」
 回想に浸っていたリトが我に返る。クロリアは木製の椅子にちょこんと座って、テーブルの上の立て鏡と睨めっこをしていた。
 今日の夕食のことだろうか。それとも明日の集会のことだろうか。リトはのんびりそんなことを思っていたが、幼いクロリアの口からこぼれた無邪気な質問は、彼に思わぬ衝撃を与えた。
「なんで俺の目と手には、変な模様があるの?」
 沈黙が小さな部屋を満たす。
 リトはこの疑問を恐れていた。幼いクロリアの瞳と手のひらにそれぞれ刻まれた、二つの紋章のことを。
 拾ったときからそうだった。クロリアの蒼い両眼には、片目ずつ違う刻印が施されていた。決して人為的には描けそうにない、細かな文様だ。そしてそれと全く同じ物が、彼の両の手のひらにもあった。初めてそれを目にしたときから、リトは不吉な予感を覚えずにはいられなかった。四六時中クロリアに手袋を嵌めさせているのはそのせいだ。日の光の下に曝してはいけないような気がした。なぜならその刻印は――。
「そ、そうじゃな。きっとそれは、ルーン様がクロリアにくれた宝物じゃよ」
「ルーン様って、あの神様の?」
 クロリアは納得しきれていない様子で、ふーんと唇を尖らせた。
 ――神様がくれた宝物? 違う。本当はそんな……。
 クロリアはリトの思いも知らずに、今度はちゃんと彼と向き合って言った。
「じゃあ、この笛が俺にしか吹けないのも、ルーン様がくれたご褒美なのかなぁ」
 リトの笑顔が崩れる。そう、これもまた、問いかけられるのを恐れていた事実。
 蒼い笛は、なぜかクロリアにしか奏でることのできない代物だった。他の誰がどんなに躍起になっても、決して弱々しい音ひとつ出せない。唯一このちっぽけな少年、クロリアだけが演奏できるのだ。
 不可思議なことだらけだ。目の前の愛する孫、クロリアという子は――。
「そう、そうじゃ。クロリアがそう思うのなら、きっとそうじゃろう」
 リトはできるだけ自然な笑顔を作って言った。クロリアはそれに満足したのか「そっか!」と無邪気に笑って、二階へ続く階段を駆けていった。リトはもどかしさに胸が締めつけられたが、クロリアを心配させたくない一心で、そのことを忘れようと努めた。



 ひんやりとした空気と小鳥のさえずりが、ガラス窓の隙間から零れてくる。早朝、リトはクロリアを軽く揺すって起こしてやった。
 今日はこのリドアールの町の全体集会、一年に一度のルーン教信者の集まりなのだ。クロリアは十歳になった今年が初めての参加だった。ずっとこの日を楽しみにしていたから、いつもは遅くまで眠りこけている彼も、今朝ばかりはすっきりと目覚めた。
 服装を整え、信者の証である茶色のコートを羽織る。絶えず天空より見守るルーン神を、飾らない清き心をもって地上から崇め奉る――地味なその衣装には、そんな意味が込められているらしい。幼いクロリアには丈が長すぎたが、本人は気にするどころか、特別な衣装を身につけていることに不思議な高揚感を覚えて満足していた。
 日が地平線から顔を覗かせる頃、リトはだぼだぼのコートを嬉しそうに羽織ったクロリアの手を引いて、家を後にした。うっすらと立ち込める朝もやの中、町の中心にある大集会所へ向かう。
 二人が会場へ着いた頃には、もうすでに多くの信者たちが集まっていた。ジンとレディスタの姿もあった。それぞれ両親に何事か言ってから、クロリアたちの方へ合流する。子供たちは揃ってコートの裾を引きずりながら、うきうきする気持ちを抑えつつ、人波に流されるようにして教会へ入っていった。
 教会に入るのすら初めてだった三人は、その圧倒的な壮大さに心を打たれた。
 磨き上げられた大理石の床には、もうひとりの自分が映っている。建物全体がシンメトリーになっていて、壁という壁が美麗な装飾にびっしりと覆われているその光景は、見飽きることがなかった。窓は見事なステンドグラスで彩られ、数えきれないほどの天使や使徒が描かれている。それを通して差し込む朝日は、色とりどりに染まって、場内を美しく照らしだしていた。
 しかし何よりも彼らの心をとらえたのは、目の前にそびえる巨像だった。古より民を見守り続ける天空神、ルーン。光り輝かんばかりのその姿に、三人はお喋りも忘れて見入ってしまった。
 いつの間にか、ずらりと並べられた長椅子には空きがなくなっていた。教会は一面、茶色い人々で埋め尽くされている。辺りがだんだんと静かになっていき、沈黙が大会場を満たした。
 ほどなくして右袖から、円筒形の白い帽子を被り、純白のローブをまとった教主が現れた。教主は同じような制服を着た二人の宣教師を両隣に置いて、ルーン神像の前の演台に立った。
「今年も、この聖なる日がやってきました。すべての幸福は、天空神ルーン様が、遙か彼方の空より絶えず我々を見守って下さったからこそ得られたのです」
 教主の太い声はマイクも通していないのに、しんとした空気の中で実にはっきり聞こえた。宗教がどのようなものなのかまだよくわかっていないクロリアたちも、その酔いそうな重厚感を肌でひしひしと感じていた。
「まずはルーン神へ静かな祈りを捧げ、今後も争いなく、皆が平和に暮らせることを……」
 ふと教主が言葉を止めた。どうしたのだろう、とひそひそ話す声が四方八方から聞こえる。
 教主はしばらく様子を窺うように息をひそめた後、ゆっくりとした足取りで、民衆の方へと歩いていった。すべての人々がその様子を見守る中、教主はカツカツと靴音を立てて、奥へ奥へと進んでいく。
 やがて、あるところで彼の足が止まった。皆が一斉にそちらを凝視する。注目を浴びせられたのは他でもない、幼い少年クロリアだった。
 クロリアはぽかんとした顔で、教主の顔をじっと見上げた。別に彼は、教主の演説中に何かした訳でもない。しかし教主は彼の戸惑いなどお構いなしに、その蒼い瞳を穴が空くほど見つめた。まるで何かを観察するように、眉間に皺を寄せて、いつもは穏やかそうなその顔に真剣な表情を浮かべて……。
「うっ……うああああ!」
 瞬間、教主は叫びながら後ろに飛び退いた。誰もがその奇怪な行動に目を見張った。側近の宣教師たちが慌てて教主の体を支える。
「どうしましたか、教主様!」
「と、捕らえろ! この子供を捕らえろぉ!」
 がくがくと震えながら教主は叫んだ。周りからどよめきが巻き起こる。クロリアの隣に座っていたリトは思わず息を呑んだ。
「な……何を仰るのです、教主様! クロリアが何をしたと仰るのですか!」
「そうだよ、クロリアはなんにも悪いことしてないよ!」
 並んで座っていたジンやレディスタも思わず叫び返す。しかし次に放たれた教主の言葉で、すべてが変わった――未来ががらがらと崩れてゆく、その音と共に。
「黙れ! この子供……こやつは『許されざる者』だ!」





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