――きっと、また逢える。







 闇のように深い青の中、静かに浮かび上がり、水面にそっと顔を出す。そんな心地がした。ゆっくりと目蓋を開く。捉えた光はぼやけ、何と認識することもできないまま、呆然と静寂の音を聞いている。
「……ジン?」
 懐かしい響きが耳に届いた。衣擦れの音。いまだはっきりしない視界の片隅に、動く人影が見える。深紅の髪が揺れるたび、ふわりと花のように微かに香る。
「ジン!」
 黄金色の瞳と見つめ合った途端、胸元に衝撃を受けて息を詰めた。こらえきれずむせると、彼女は慌てて身を起こし、何度も謝罪を口にした。その申し訳なさそうな声音も、抱きつかれた重みも、すべてが甘く胸を締め付ける。あまりにもリアルな感覚に戸惑った。
「……レディスタ」
 見上げながら、掠れた声で確かめるように呟く。レディスタは透き通る瞳を潤ませながら、今にも泣き出しそうな微笑みを浮かべた。案の定、ほどなくして目元から雫がぱたぱたとこぼれ落ちる。そのまま声を殺すことも叶わず泣き出してしまった。
 ――一体、何が起きているのだろう。
 ただひとつ確かなのは、今目の前で愛しい人が泣いているということだった。重い腕を何とか持ち上げ、とめどなく伝う涙を指先で拾う。微かな感触に気づいたレディスタが、まるで赤子のように手を握り返してきた。震える喉で懸命に声を引き絞る。
「ジン、わかる? 私たち生きてるんだよ。生きてるんだよ……」



 あとから入室してきたラスターの説明を受けて、少しずつ現状が掴めてきた。
 第二次人竜大激戦は『盾』の見事なはたらきにより全面衝突を回避し、無事に終戦を迎えたそうだ。それが三日前のことだという。自分がアルフィレーヌと相討ちをした――いや、正確にはそう信じて疑わなかった――のがその頃だから、治療を受けながら三日三晩も眠り続けていたことになる。
 しかしよくも生き延びたものだ。聞くところによると、内部崩壊したエテルニアの中から救助されたときには全身打撲に内臓破裂、出血過多、意識不明――と、ほとんど死人のような状態だったらしい。もちろん打たれた右目は失明していた。潔く死んでいたらラスターに迷惑をかけずに済んだなと呟いたら、レディスタに頬をはたかれた。
 彼女もこの名医に救われたひとりだった。気が触れてノイエンの竪穴に身を投げ、吸い込まれるように闇に消えていったあの日。落下するさなか意識を取り戻し、機械翼を羽ばたかせて九死に一生を得たという。しかし上まで飛び立つ体力もなく、救助が来るまで暗闇の底で数日間、飲まず食わずでしのいだらしい。もともと一番侵食のひどかった右腕はこれ以上の転移を防ぐため、涙を呑んで切断されたそうだ。今では義手をはめている。
「そういえば、テテロは……?」
 真っ白いベッドに身を沈めながら、ジンがふと呟く。ともにエテルニアに向かい、軍勢を引き止めると言って麓で別れ――その後彼はどうなったのだろう。
 するとどうしたものかという風に、レディスタとラスターが顔を見合わせた。
「大丈夫、ちゃんと帰ってきてるよ。ただちょっと……今、あんまり元気がないの」



 ガラス越しに差し込む淡い光を、理由もなく眺めていた。いつの間にか日は傾き、先ほどまで自分の体を温めていた光は、今では廊下の一点を明るく照らしている。時折、同じ姿勢を取り続けて痛くなった体を少しだけ動かす。そのたびに長椅子が存在を主張するように軋み、三対の翼が柔らかく触れあう。
 しっぽの位置を微妙にずらそうとしたとき、廊下を二人組が歩いてきた。いや、正確には歩いているのはひとり。もうひとりは車椅子に乗っている。
「テテロ」
 呼びかけられ、ルビーのような瞳をゆっくりとそちらに向ける。ゆったりとした病院着に身を包み車椅子に腰掛けるジンと、その後ろで微笑むレディスタの姿があった。
「じん! 目ガ覚メタンダ!」
 思わず知らず明るい声が飛び出た。夢中で駆け寄り抱きつこうとすると、レディスタに慌てて止められてしまった。ふれあい笑いあう、幸せなひととき。そっと頭を撫でてくるジンの手は温かかった。
「元気そうじゃないか」
「ウン! ケガモアンマリナカッタシ、病気モシテナイシ。じんニ比ベタラスッゴイ元気ダヨ!」
 思わずジンが苦笑いする。テテロは屈託のない笑顔を浮かべつつも、「デモ」と遠慮がちに付け加えた。
「チョット……チョットダケネ、気ニナルコトガアッテ」
 ジンがそっと見つめる中、何とは無しに窓の外を見やる。
「戦争ガ終ワッテ、れっどモじんモあるぜんモ、ミンナ生キテ帰ッテキテ、ホントニ良カッタッテ思ッテル。ソレナノニ、ナンデダロウ……。何カガ変ナンダ」
 声のトーンが緩やかに変わっていく。逆光に照らされながら、テテロが急に振り返った。
「ネエじん。ナンデコンナニ落チ着カナイノカナ。ポッカリ穴ガ空イテルミタイナンダ。何カ、トッテモ大切ナモノヲ忘レチャッタミタイニ……」
 不安に揺れる紅の瞳が縋るように見つめてくる。彼の言葉を継ぐように、レディスタも遠慮がちに口を開いた。
「私もね、テテロ君の気持ちわかるんだ。戦争の痛みももちろんあるけど、でもそれだけじゃないの。この違和感、うまく説明できないんだけど……」
「大丈夫。説明する必要はない」
 静かにそう呟き、そっと目を閉じる。この二人と同じ感覚を自分も共有しているのだと、直感的に悟った。
 胸に何か大きな空白があるのだ。レディスタと幼少期を過ごし、故郷を天災で失い、旅人として放浪し、テテロと出会い、『盾』に参入し、大戦を迎え――今まで本当にいろいろなことがあった。空白などあろうはずもない、激動の年月を歩んできた。そのはずなのに、なぜだろうか。最も大切なパズルのピースが抜け落ちているような、そんな奇妙な不安定感を、確かに覚えている。
 ジンはゆっくりと瞬き、緩やかに微笑んだ。
「この足がまた歩けるようになったら……なくしたピースを探しに行くのも、悪くない」



 廃墟一帯に涼やかな風が吹き抜ける。空は鮮やかに澄み渡り、日差しは大地に眩しく反射する。季節の移ろいを全身で感じながら、一匹の竜と二人の男女が草むらを踏みしめていく。
 欠かさずリハビリを続けているとはいえ、ジンの足取りはまだ頼りない。レディスタは彼の隣にそっと寄り添い、テテロはついつい先を急いではパタパタと戻ってくるのを繰り返している。
 あれから数ヶ月。彼らが『探しもの』のために目指したのは、人軍の最終兵器エテルニアの跡地だった。天穿つ白銀の塔の内部は今や完全に崩れ去っており、オルガンパイプの連なる荘厳な外壁だけが虚しくそびえている。
 この地に何か手がかりがある、そんな気がすると言い出したのはテテロだった。これまで生きてきた中で最も鮮烈な印象を、この場所には覚えている。しかし当時の記憶――彼がここでラグの獣人たちと人軍を必死に迎え撃っていた体験は、その感覚にはほど遠いというのだ。
「来レバ何カ思イ出ス……ッテ、思ッテタンダケドネ」
 エテルニアの内部、山と積もった瓦礫の上を歩きながら独りごちる。五感を研ぎ澄ませ、必死に記憶の糸を辿る。見上げると、遙か高くそびえる外壁の向こうに、いびつに切り取られた青空がある。廃墟はどこまでも静まりかえり、時折小鳥のさえずりが鼓膜をくすぐる。
「……デモ、駄目ミタイ」
 どれほど静寂に身を浸していただろうか。テテロがふと入り口近くで佇む二人を振り返り、苦笑いとともに告げた。無駄足になったことを詫びながら瓦礫の山を下り、早く帰ろう、と出口に向かう。
 本当に良いのだろうかと、心配そうなレディスタの視線が彼を追う。だがテテロは止まる気はないようだ。ひとつ息をついて、ジンの方を向く。
「ジン。私たちも――」
「待って」
 静かな、しかし切実な呼び止めにテテロも振り返った。ジンの端正な横顔は、必死に聴覚を研ぎ澄ましているようにも見える。透き通る銀の瞳は、吸い込まれるように塔の中央を見つめている。
「あれは……」
 うずたかく積み上がった瓦礫の頂。彼方から降り注ぐ陽光が、真っ直ぐにその一点を照らし出す。その煌めきに包まれるようにして、誰かがそっと佇んでいる。儚く、音もなく。まるでそれは、幻想的な一枚の絵画のように。古い物語のワンシーンのように。――心の空白を、埋めていくように。



 ある日の昼下がり。何もなかったかのように、廃墟の上に広がる青空を、小鳥が舞っていた。





〈 クロリアの蒼い笛  完 〉





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