第六話 蒼い笛の音は



 互いに距離を置き、人軍と竜軍が遂に対峙する。だが彼らの燃えるような眼差しは、今、思いがけない衝撃に揺れていた。見つめる先にいるのは敵軍ではない。彼らの間に立ちはだかる『盾』――ひとりずつ互い違いに東西を向き、固く手を繋いで連なる人の鎖だ。
 その中央には、たおやかな純白のドレスに身を包んだアルゼンがいる。指導者たる彼女も他の者たちと何ら変わりなく、身を守るすべを一切脱ぎ捨てて、その身ひとつで佇んでいる。
「……話には聞いていたが、まさか本当に実行に移すとは」
 人軍の士官らしき男が、苦虫を噛み潰したように吐き捨てた。あらゆる種族が混じり合い、はるか地平線まで伸びる鎖。ある者はその中に我が子を見つけ、ある者は友を見つけ、ある者は愛する者を見つけ――人竜問わず、動揺とざわめきはとどまるところを知らず広がっていく。
 アルゼンは深呼吸をひとつした後、ゆっくりと唇を開いた。
「――思い出してください」
 清らかに澄んだ声が大平原に響き渡る。
「思い出してください、私たちが本当に守るべきものを。従うべきものを。戦わねばならない相手を。進まねばならない道を」
 彼女の喉には精霊たちによる拡声の魔法がかけられ、淡く光を放つ。儚くも力強い希望をその身に宿し、この世界へ、すべての命へ、限りない愛と祈りを語り紡ぐ。
「――これが、私たちの出した答えです」



 無数の弾痕。焼け焦げ剥がれ落ちた壁。立ちのぼる白煙。エテルニアの脳髄を包む殻の部屋は、壮絶な攻撃を受けて無惨な変貌を遂げていた。
「まったく、どこまで愚かなのかしら」
 ノイズの混じった声で、グロテスクな全身兵器と化したアルフィレーヌが呟く。
「今の私に、そんなおもちゃひとつで立ち向かおうなんて。そのくせ起動装置を盾にして戦うなんて、たちの悪いことだけは思いつくのね。ま、あんまり長くはもたなかったみたいだけど」
 人ならざるおぞましい顔をいびつに歪め、目の前に倒れ伏すジンを見下す。
 いまだに息をしているのが不思議なほど、彼の体はぼろぼろだった。体中に無数の傷を受け、流れる鮮血は漆黒の服をいっそうどす黒く染め上げていく。右手に握りしめたたった一丁の拳銃は、化け物となり果てたアルフィレーヌの前では憐れなほどに無力だ。
 ジンは荒い呼吸を繰り返しながら、左手を床についた。全身にありったけの力をこめる。血と汗を滴らせながら、震える体を無理やり押し上げる。
 その姿に、アルフィレーヌは思わず面食らった。
「あらあら……まだやろうっていうの? 無様ね。醜いわ。立っているのもやっと、って様子じゃない」
 動揺を悟られまいと強気に言い放つ。おかしい。無機生命体に身体を捧げた自分と、目の前の死に損ない。立場の差は歴然としているのに、心のどこかで――。
 ジンが顔を上げた。銀の眼差しがアルフィレーヌを射抜く。迷いなく真っ直ぐに煌めく、何者をも恐れない眼光。瞬間、胸にこみ上げた感情の正体に、彼女は気づいてしまった。
「何なのよ、その目は!」
 絶叫し、力任せに腕を振り払う。金属の触手がしなやかに伸び、凶悪な鞭となってジンの顔面を打つ。衝撃で体は吹き飛ばされ、凄まじい音を立てて壁に激突した。
 それでも彼は生きていた。息も絶え絶えに、朦朧とした意識を奮い起こす。
 ――拳銃。大丈夫、まだ握っている。目は……嗚呼、ひとつ潰れたか。
 目蓋をこじ開ける感触が、右目にはもう感じられなかった。
「さあ、もういい加減にしてくれるかしら? 愛するエテルニアを目覚めさせなくては。今度こそ」
 吐き捨て踵を返そうとした瞬間、その足元で弾丸がはぜた。すさまじい形相で振り返ると、隻眼のジンが、しかし先ほどとまったく同じ眼差しをこちらに向けていた。
「させるか……」
 チャッと音を立てて、腰から短剣を引き抜く。傷だらけの体のどこにそんな力が秘められているのか。微塵の躊躇いもなく、刃を構えて目の前の化け物へ突進する。
 だが、弱りきった捨て身の攻撃を避けるなど造作もないことだ。ひらりとかわされ、目標をとらえ損ねたジンの短剣は、勢いのまま向こう側の壁に斬りこんだ。
 嘲笑が高らかに響く。ジンは構わず、再び短剣を手に斬りかかる。当然いとも簡単に避けられ、ジンの体はまたしても壁へと激突する。アルフィレーヌは腹を抱えるほど笑いながら、何度も何度も、最後の力を振り絞る彼をもてあそんだ。
「嗚呼、いい眺め! これが世界に名を馳せた、正義の暗殺者のなれの果てよ! 憐れ、なんて憐れなの!」
 いつまでも獲物を捕らえることなく、壁に突き刺さるばかりの短剣。もう何度目かもわからないそれを、ジンは渾身の力で引き抜き、そっと振り返った。
「……本当に憐れだな。死の足音がすぐそこまで迫っているのに、気がつかないとは」
 高笑いがぴたりと止んだ。怪訝そうな視線と力強い片目の眼差しが交差する。静寂の中、余韻が少しずつ消えていく。それにつれて耳に届く微かな音。歯の隙間から息を出すような掠れた音が、あちこちから聞こえてくる。
 次の瞬間、アルフィレーヌが目を見開いた。
「あなた、まさか……!」
 間違いない。今、鼻を突いたこの臭いは――ガスだ。エテルニアの動力を支える燃料ガスが漏れているのだ。
 慌てて振り返り、驚愕する。なぜ気づかなかったのだろう。ガス漏れを起こしているのは、これまでジンが斬りつけてきた場所からだった。この男は勢い余って壁に激突するふりをして、剥き出しになったガスパイプを狙っていたのだ――。
 動揺を隠す余裕もないアルフィレーヌを見つめながら、ジンは再び右手に拳銃を握りしめた。ぎょっとする彼女に構うことなく、人差し指をトリガーにかけ、頭上に高々と掲げる。
「あなた、自分が何をしようとしているかわかっているの? そんなことをすれば!」
「俺だってただじゃすまない。百も承知だ。始めからこうするつもりだった」
「……っ、それだけじゃないわ。『許されざる御方』もエテルニアの中にいるのよ! あの方まで巻きこむつもり?」
「こんなことで死ぬ奴じゃない。それは俺が一番よく知ってる」
 どれほど叫んでも、脅しても、まったく動じない。一寸の揺らぎもない声を聞くたび、胸の内に認めがたい感情が押し寄せる。こうしている間にも、部屋の中にはガスが充満していく。一歩でも踏み出そうものなら、トリガーにかかるジンの指先に力が込められる。焦燥の荒波に、アルフィレーヌの足元はとっくに掬われていた。
「やめなさい! そんなことをしたらエテルニアは……! この子が滅びたら予言はどうなるの? もう誰もこの世界をもとに戻せな――」
「少し黙れ。最期くらい静かに祈りたい」
 そう言って、生き残った左目をそっと閉じる。部屋中に満たされたガスを吸い込むたび、ただでさえ遠のきそうな意識がぐらつく。半狂乱の叫びが木霊し、容赦なく頭蓋を揺さぶる。もう時間がない。
 暗闇の中、あらゆる記憶が走馬燈のように駆けめぐる。失った故郷を、哀しげな瞳を、不器用な鎮魂歌を、狂気の微笑みを、強い眼差しを――そして亡くした人の笑顔を想う。今逢いにいくと、心の中で静かに呟く。
 ゆっくりと天を仰ぐ。たったひとつ残った希望の光にすべてを託し、引き金を引いた。
「幸運を。クロリア」



 天を穿つ白銀の塔が身震いした。爆音と黒煙をまき散らし、内部から崩壊していく。足元が激しく揺さぶられ、クロリアは反射的に手すりにしがみついた。
 駆け上がってきた螺旋階段の下を覗きこむ。エテルニアの脳髄を包むゆりかごの部屋が、瓦礫となって跡形もなく崩れ落ちていく。粉塵がもうもうと舞い上がり、あっという間に視界を阻んだ。
 蒼い瞳がぎゅっと収縮する。自らの足場が危ういことも忘れ、クロリアは愛しい人の名を声の限りに叫んだ。滲む視界。崩落する瓦礫に混じり、透明な雫がひとつ、ふたつ、きらめきを残して落ちていく。光と闇の翼は力なくしなだれ、主の体に合わせて小刻みに震えた。
 そのときだ。頭上がぱあっと明るく開けた。見上げると、エテルニアの頂を抜けた先に、目映いばかりの青空があった。厚くたれ込める暗雲を裂き、僅かな隙間から降り注ぐ光がクロリアを照らし出す。あらゆる想いが、祈りが、決意が、心に流れ込んでくる。
 ぎゅっと唇を噛みしめ、胸が張り裂けそうになるのを押し殺す。神々しい両翼が音を立てて大きく広がった。巻き起こったつむじ風は、降り注ぐ瓦礫すらも吹き飛ばす。クロリアの体は軽々と飛翔し、聳える塔の向こう、黒雲を穿つ光を目指して突き進む。瞳に映りこむ蒼穹は、どこまでも蒼く、蒼く――。
 ――奏でに行こう。今、最期の調べを。



 ざわめきに包まれる大地を、竜軍の長が踏みしめる。一歩、また一歩と歩み寄る先には『盾』の中央に佇むアルゼンがいる。目の前まで迫った竜は、研ぎ澄まされた翼の爪を喉元に突きつけた。口々にざわついていた両軍からどよめきが巻き起こる。
「獣人の王よ。その類い希なる勇気と人望は賞賛しよう。だが思い知るがいい。貴様らのしていることは、偽善以外の何ものでもないと」
 燃えたぎる戦意を秘めながらも、竜は至って冷静に、アルゼンの深紅の瞳を見据えて語る。
「弱りきったこの惑星が今ある生命のすべてを育み続けることは、もはや不可能なのだ。ならば、減るべきは有害な種」
「そしてそれが、まさに竜族なのだ」
 アルゼンの背後で銃器を構える音がした。人軍の軍師が、アルゼンを挟んで竜と相対する。
「憎悪に負け、愚かしく未来を捨てに来たとでも思っていたんだろうが……そうではない。我々は皆、未来のために戦いに来たのだ。この惑星のために滅ぶべき種を選びに来たのだ」
 凶器に板挟みにされたアルゼンを見て、『盾』のメンバーがどこからともなく身をすくませた。
 誰もが未来を想っている。誰もが平和を願っている。それなのにすれ違い、ぶつかり合う。そうしてすべての生命が計り知れぬエネルギーの津波となって、怒濤のごとく、膨大な運命の渦に巻きこまれていく。そんな中、自分たちの祈りはあまりにも無力だ――。
 不屈と信じていた正義の心が、圧倒的な負のエネルギーを前にして大きく揺さぶられる。その向こうに見え隠れする絶望、恐怖。隣人から隣人へ、繋いだ手を辿って次々に伝搬する。
 前後から凶器を突きつけられてなお、アルゼンは微動だにせず、凛と前を見据えていた。仲間の動揺が手を介して、空気を介して、痛いほど伝わってくる。押し寄せる闇を切り裂くように、冷や汗で滑る両隣の手を、全霊を込めて握り返した。
 ――大丈夫。
 想いは繋いだ手を伝い、不安を押しのけて両端へと届けられていく。
「貴様らの出した答えがいかに脆弱か、その身をもって知るがいい!」
 爪は振りかぶられ、引き金にかかった手指に力がこもる。前から、後ろから、大地をなめるようにして軍勢が蠢きはじめた。手を繋ぐすべての者が決死の覚悟をした、その瞬間。
 空からひと筋の光がこぼれ落ちた。突然の明るさに目が眩む。光は迷うことなく真っ直ぐに、佇むアルゼンを照らし出す。細く、しかし決して途切れることなく、平和の使徒に向けて純然と降り注ぐ。アルゼンは長く繊細な睫毛をふわりと伏せた。
 ――笛の音が、きこえる。
 調べはオルゴールのように煌めき、心の水面に波紋を残して消える。手を繋ぐ者も、人も、竜も、そのささやかな旋律に気づきはじめる。場所にも距離にも囚われず、その音色は等しくすべての魂に降り注ぐ。
 ――そして。
 天が裂けた。風の精霊が羽衣を翻すが如く、地平線まで厚く垂れこめた暗雲があっという間に吹き払われていく。大地いっぱいに目映い陽光が降り注ぎ、世界が色彩を取り戻す。抜けるような青空が、無数の生命を見下ろし微笑む。
 胸を震わせ、魂に直接届く壮麗な音。至高の旋律が大地を、空を、すべての空間を埋め尽くして響く。高く、低く、あらゆる音色は幾重にも折り重なり調和し、神々しい力となって鳴り渡る。
 大地が息を吹き返した。焼け焦げた草原にどこからともなく緑が生い茂り、空との境界まで広がっていく。風はそよぎ、一面を埋め尽くすいのちを愛でる。
 彼らの目の届かないところでも、笛の音は世界中に奇跡を運んでいた。消し炭と化していた森に青葉が茂り、枯れ果てた泉には清水が満ち満ちて、廃墟となった人里には花が咲き乱れた。民は何事かと外に出て、頭上を振り仰ぐ。蒼穹はあたたかな光に満ち、小鳥が祝福の歌を奏で舞う。生きとし生けるものの心と惑星全土を潤す音色が、惜しみなく世界を包みこむ。
 完全に戦意を喪失した無数の人と竜の群れ、その真ん中で、アルゼンがゆっくりと蒼穹を振り仰いだ。
 ――見ていますか、クロリア。あなたの守る世界は、こんなにも美しい……。



「それは、世界再生の魔法」
 この世ではない空間、みずみずしい光に満たされた世界で、リリスが歌うように囁く。
「この星にはびこる偽りの神と、その所産である天使と悪魔(わたしたち)、そして自身すらも贄として、その旋律は奏でられる……」
 リリスに寄り添うようにして、ラファエルもそっと言の葉を紡ぐ。
「……彼は、よく気がつきましたね」
「ええ。彼は揺るぎないものを見つけ、認め、信じた。その果てに――自らを無に還すと知ってなお」
 感じ入るように呟いて、そっとラファエルの方を振り向く。儚い微笑を極上の顔に浮かべ、リリスは吹っ切れたように言った。
「さあ、私たちもこれで終わり。忘れられましょう、すべての意識と歴史から」
 ラファエルもまた、エメラルドの瞳を細めてそっと微笑んだ。霞のように薄れ消えてゆく姿を、互いに見届けながら。



 エテルニアの麓で争っていた者たちもまた、一人残らず動きを止め、無二の奇跡に魅入られていた。荘厳な旋律が溢れ響く中、見開かれたテテロの眼からはらはらと涙がこぼれ落ちる。星の息吹を取り戻す至高の大魔術――その音色が奏者の自己犠牲の上に成り立つものだと、自然に悟った。
 瞬間、溢れ出す記憶。明るい笑顔、儚い微笑み、ともに乗り越えた苦境、こぼした涙、透き通る声、穏やかな温もり、深く蒼い眼差し――そして、最後に交わした言葉。
 愛しいその名を泣き叫んでも、神々しい音に満ち満ちた世界で、その声は届かなかった。



《――聖なる者、我らを救わんと、神風と   に大
                    地に降り立つ し。その 清き蒼 笛の業(わざ)にて
    救わん。 天使の   い、   陽 昇ら
                                    光差 、  み、       せ
                                                      ――





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