この世界に、至上の救いを。







第一話 第二の神託



 何ひとつ動く気配のない、静かな夜。夜空には星屑が散りばめられ、どこからともなくかすかな風の息吹が聞こえる。
 人々の穏やかな寝息すら聴きとることができそうな静寂の中、レディスタは病室の窓から、丸く切りとられた星空を見上げていた。手には一枚の紙切れ。きゅっと握りしめたそれに、あらためて視線を落とす。何かをじっとこらえるように、沈黙したままうつむく。
 やがて、紙切れはそっとテーブルの上に置かれた。暗闇の中、ただひとつ光を放つランプのもと、黒のインクで密やかに記された言葉が浮かび上がる。
「ごめんなさい……」
 そのたった一言を、もう一度、落とすように呟いた。



 ――これでよかったのだ。これで。
 道中、レディスタは何度も心の中でそう言い聞かせた。星明りの下、柔らかな土を踏みしめて歩く。明かりも持たずに、真っ暗な森の中をあてもなく彷徨う。ときどき草や木の根につまづきそうになりながら、ただひたすらに、人の気配のないところへ、誰もいないところへ。
 ふと何かに導かれるようにして、レディスタは背後を振り返った。足音がはたと止まる。何も見えない。何も聞こえない。草木の匂いと沈黙だけが満ちている。自分が今どこにいるのかすら、もうわからない。どうしようもない孤独感が湧き上がってきて、レディスタは体をきつく掻き抱いた。
 もう長いこと歩き続けているから、ノイエンの洞窟からはだいぶ離れられただろう。きっとあの仲間たちと顔を合わせることも、もうない。そう考えると途端に目頭が熱くなって、レディスタは慌ててぎゅっと瞼を閉じた。そしてもう一度、自分に言い聞かせる。
 ――これでいいのだ。大切な仲間を傷つけてしまうくらいなら、永久に離れてしまった方が。
 自分のせいで起こった戦闘。自分のせいで流された血。自分のせいで死んだ者たち。自分があの場にいなければ、あんな惨劇は起こらなかった。自分さえ、いなければ……。
 それにあの時、勝手に動き出した自分の体。脇腹から血を流すジンの姿が、脳裏にまざまざと甦る。
 自分は我を忘れていながらも、意識のどこかで泣き叫んでいた。ジンを殺してしまうかもしれない自分に怯えていた。それでも彼は、必死に正気を取り戻させようと訴えつづけてくれて、それでも自分の体は言うことを聞かなくて。自分の意志とは無関係に、体は暴走を続けた。そう――まるで、自分の中に別の誰かがいるみたいに。
 ふらふらとレディスタはその場にくずおれた。冷えた地面に、体温がじわじわと奪われていく気がした。
 体力が底をついてしまう前に、どこか人里に辿りつけるだろうか。そうしないと食事もできないし、安心して休むこともできない。でももしそこで、また自分が暴走してしまったら? そこに住む人たちに危害を加えてしまったら――?
「う……」
 腕の痛みとやるせなさとで、レディスタの口から嗚咽が漏れる。それは降り積もるような静寂の中、たったひとつ聞こえてくる音のはずだった。
「!」
 レディスタの目が見開かれる。聴こえた。確かに今、何かの物音が。風の音ではない。草木の息吹でもない。不気味に脈打つ鼓動。全神経を耳に集中させる。断続的に聴こえてくる、足音。
 ――何かが、近づいてくる。
 悟った瞬間、レディスタははじかれたように走り出していた。冷えきって力の抜けてしまった体を無理矢理に動かす。背後から誰かが追いかけてくる。すぐそこにいる。どうしようもない恐怖が彼女を駆りたてる。だれ、どうして、やめて、こないで、こないでこないでこないで!
「あ……っ」
 足がもつれた。なすすべもなく崩れ落ちる。
 反射的にふり返る。黒い影が目の前に立ちはだかっていた。迫ってくる。声にならない悲鳴。身を起こすよりも早く、レディスタは意識を失っていた。



「どういうことなのですか、アルゼン様!」
 アルゼンは感情の見受けられない顔をして、沈黙したまま座っている。円形の会議室――先日クロリアたちが通されたあの部屋で、各種族の長たちが一堂に会していた。
「あの生体兵器の娘がいないですと? ノイエン中を探しても見つからないとなれば、外部に脱走したということですか!」
「責任逃れ、というわけか。人軍は彼女を放ってはおくまい。おそらく既に連れ去られているのだろう」
「何と無責任なことを……。せっかく侵略者を殲滅したというのに、これでは我々の内部情報が駄々漏れだ!」
「今後、より強力な部隊による侵攻も考えられますね」
「またあのような戦闘を繰り返すというのか。武器を持って戦うことをしないはずの我々が、また……」
「それというのも、アルゼン様、もとを辿ればすべてあなたの責任ですぞ!」
「その通り! よりによってあの『許されざる者』を仲間にしていたことに加え、あんな危険な小娘さえ招いていたとは!」
「あなたの独断のせいで、我々は今、多大な損害を被っているのですよ。お気は確かですか、アルゼン様!」
「口を慎め、ルーシュ殿!」
「……いえ、よいのです。ラスター」
 叱咤するラスターを、アルゼンが静かにいさめる。
 静かな彼女の一声に、全員が注目した。怒号の集中砲火を浴びせられる中、彼女はその冷静さを微塵も崩すことなく、ただ黙ってそこにいた。
 長たちは気まずそうに黙りこくってしまった。いくら激昂していたとはいえ、みっともなく取り乱したことを恥じているようだった。
 アルゼンが噛みしめるように語りだす。
「私は、彼らを招いたことが間違いであったとは思っておりません。レディスタさんもクロリアも、我々と何ら変わりなく、世界を救うことを願っていました。我々と意志を共有する仲間、れっきとした『盾』の一員だったのです。残念ながら、レディスタさんは事実上脱退してしまいましたが……。これは私も予測していなかった事態でした。責任は私が負いましょう」
「それで現在、彼女についてはどのような対処を?」
「ジンさんに捜索と奪還をお願いしています。おそらく今は人軍の本拠地――デルテティヌに向かっているところでしょう」
 一息置いてから、アルゼンは話を続けた。
「そしてクロリア――あの者は、我々の計画に必要な存在です。彼は『許されざる者』でありながら、予言を食い止めようとしています。我々がこれから立ち向かうのも、世界を破滅へ追いやる戦乱――即ち予言です。目指すものが同じならば、どうして行動を共にしないことがありましょう」
「『許されざる者』が世界を救う、と?」
 すらりとした巨大な竜が、低くも美しい声音で呟く。竜王の娘のガラだ。とても信じがたい、という疑念に満ちた視線をアルゼンに向けている。すると精悍な鷲頭獣(グリフォン)の青年、エマ族の次代族長のベギートが、ガラの言葉を続けるように言った。
「とても信じられない話だ。それよりも、今ここであの者の息の根を止める方が、よほど世界を救うことに繋がるのではないか? 幸いにも、奴は今衰弱している。たやすいことだ」
 まったくだ、と全員が頷く。しかしアルゼンだけはかぶりを横に振った。
「いけません。申し上げたはずです。彼は我々と共にある存在なのです」
「アルゼン様」
 少し苛立った口調で口を挟んだのは、元デルテティヌ軍中佐を務めていたルーシュだ。
「あの男を擁護したいお気持ちはわかります。しかしあれは『許されざる者』なのですよ! 不吉の元凶、予言を実行する者、それがあの男なのです。まさに我々の仇。あの男を消しさえすれば世界は……!」
「本当にそうお思いですか」
 アルゼンの鋭い眼差しに射すくめられて、ルーシュが言葉の続きを呑みこむ。その迫力は、まだ齢二十になって間もない娘のものとはとても思えない。
「彼の命を絶ったところで、大戦争は終わりません。世界を破滅へ導く者が『許されざる者』ではなく、人や竜に替わるだけです。果たして我々の力だけで、それを食い止めることができるでしょうか。そしてその後も歴史を繰り返すことのない、平和な世界を約束できるでしょうか」
「それでは、我々のしていることは一体……」
 どうしようもない無力感が、円卓を囲む面々に押し寄せる。しかしアルゼンは力強く続けた。
「だからこそ、あの者の力が必要です。世界を滅ぼすほどの莫大な力を持っているというのなら、それを制御しさえすれば、予言を止められるかもしれません。そして今の彼にはその意志があるのです。我々は彼を信じ、力を貸すべきです」
「あの力を、制御……」
 皆の脳裏に、先日見た光景がまざまざと甦る。クロリアが全精神力をかけて必死に抑えこんでも、肉体を突き破り暴発した力。その恐るべき力を制御することのできる操縦桿を、あの線の細い少年がたったひとりで握っている――。不安にならないわけがなかった。
「……そういえばラスター。彼の具合はどうですか」
 沈黙の中、アルゼンが思い出したように口を開いた。ラスターが、傷を負っていない方の目だけを開ける。
「未だ発熱していますが、それは傷が順調に回復していることの表れでしょう。しかし昏睡状態が続いております。いつ目を醒ますか、私にもわかりません」
「そうですか……」
 アルゼンが心配そうに目を細め、短く溜息をついた。
「レディスタさんのことを、彼に何と伝えればよいのでしょう……」



 ――うたが、きこえる。
 クロリアは真っ白な世界の中にいた。すべてを優しく包みこむ白だ。そこで何か、美しい調べを聞いていた。水中に静かに沈んでゆくような、心地よい感覚にたゆたいながら。
 ――許されざる者、二ツ月の年、雷(いかずち)と共に大地に降り立つべし……。
 それはまるで、まどろみの中で聞く子守唄のように、羊水の中で聞く母親の鼓動のように、クロリアの胸を満たしていく。肉体が緩やかに蕩けていく、そんな気分になる。
 ――聖なる者、我らを救わんと、神風と共に大地に降り立つべし……。
 ああ、でもこれは。この忌まわしい一節は……。
 ――予言、か。
 クロリアは重い瞼をゆっくりと開けた。ぼやけた視界いっぱいに映ったのは、ふんわりと微笑みかけてくる、見知らぬ少女の顔だった。
「おはようございます。クロリアさん」
 小鳥がさえずるような可愛らしい声で、彼女はそう囁いた。ふたつに結われた柔らかな茶色の髪、透き通ったキャラメル色の瞳、小ぶりで愛らしい唇。
 そんな彼女の笑顔を、クロリアはぼんやりとした眼差しで見上げていた。彼は、少女の膝を枕にして眠っていたのだった。ようやっとそのことに気付いたクロリアは、慌てて上体を起こして問いかけた。
「君は……」
「リリス。悪魔のリリスです。どうぞ、以後お見知りおきを」
 丁寧にお辞儀をする彼女の背中には、周りの白を全て吸い取ってしまいそうな、漆黒の翼が生えていた。身にまとう衣装も、まるで闇そのもののような色をしている。
 呆気にとられているクロリアの顔を、リリスは改めて覗きこんだ。
「噂には聞いていたんだけれど、クロリアさん、本当に美しくていらっしゃるのね。寝顔なんてまさに天使そのもの。それでいて、生けるものの命を惜しげもなく奪う、悪魔の一面も併せもつ。素敵ね。やっぱりそうでなくっちゃ」
 リリスはそう言って、ふふ、と上品に微笑んだ。以前の戦闘のことを言われているのだと気づき、クロリアは苦渋の表情を浮かべる。
「違う! 避けて通れるものなら、あんな真似はしなかったんだ。あんな……」
 不意に自らの蛮行が視界をよぎり、口をつぐむ。煮えたぎる血の力に任せ、片端から敵をなぎ払っていった自分。だが、あの行いは間違いではなかった。あれは仲間を守るためには、仕方のないことだったのだ――。
「嘘」
 リリスが発した一言に、クロリアがハッとする。真っ白の世界の中にちょこんと腰掛けるようにして、彼女は相変わらずの愛らしい声で告げた。
「確かに、結果的には『盾』を救うことに繋がりました。だけどクロリアさん、実際に戦っている間は、そんなこと考えていなかったでしょう? あなたを突き動かしていたものはただひとつ。体の奥底から湧き出る、どうしようもない欲求。悪魔としての、死を欲する――」
「やめろ!」
 思わずクロリアは叫んでいた。両手で耳を塞ぎ、やめてくれと弱々しく呟く。そんな彼の様子を、リリスは穏やかな眼差しで眺めている。
「……クロリアさん、何か大きな誤解をなさっていない? 私たち、人間には『悪魔』なんて不名誉な名前で呼ばれてはいるけれど、そんな邪悪な存在ではなくってよ。天使が生を司る一方で、私たちが死を司る。ただそれだけのこと。だから、悪魔の力を持っていることを苦に思う必要なんて、どこにもないの」
 漆黒の翼をふわりと羽ばたかせ、リリスはクロリアの前へと舞い降りた。彼の両手をそっと取り、自分の両手で優しく包みこむ。クロリアの瞳が戸惑いに揺れる。
「お喋りはこれくらいにして、本題に移りましょう」
 そう言って、彼女は純真無垢な微笑みを浮かべた。
「今日はあなたに、二番目の神託を届けに参りました」
「二番目の、神託……?」
「最初の神託は、もう聞いていらっしゃるでしょう? 確か、ラファエルがその役だったかしら」
 その名を聞いた途端、クロリアの脳裏に様々な記憶が甦ってきた。奇跡の町ティエルで出会った、ひとりの天使。彼によって、自分の内に眠る『許されざる者』の力は呼び覚まされたのだ。
「あの人ったら、肝心なことは何にもお話ししないまま、力を解放してしまうんですもの。クロリアさんが戸惑ってしまわれるのも当然ですわ」
 ですから、と、リリスは変わらぬ微笑を湛えたまま続ける。
「私が、予言の真実をすべてお話しします。これ以上、クロリアさんが迷われないように」
 リリスの艶やかな唇が、クロリアの耳元に寄せられる。そして何事か囁く。静かに注ぎこまれた、その言葉は――。



「っ、は……!」
 荒い呼吸とともに跳ね起きる。激しい運動の直後のように、汗だくの体を震わせて息をつく。
 真っ白なシーツの引かれたベッドの上。きらきらとした正午の光が舞い降りる。隣には点滴の器材。独特の薬品臭が小さな室内に漂っている。病室の中に、クロリアの整わない吐息の音だけが響く。
 傷はまだ完全には癒えていないようで、体中に包帯が巻かれている。おぞましく変形した体は、すっかりもとの姿に戻っていた。しかしじわじわと侵食を進めていた刻印は、手のひらから腕を辿り、喉元を行き過ぎ――遂に顔面にまで達しようとしていた。
 どれほどの時間気を失っていたのか、検討もつかない。だが今の彼には、そんなことすら考える余裕がなかった。失った意識の中で、悪魔の少女に言い渡された神託。それが眩暈がしそうなほどの衝撃を伴って、頭の中で木霊し続けている。
「……嘘だ……」
 言葉とも嗚咽ともつかない、か細い声で呟く。喉の奥が震える。背を丸めてうずくまり、シーツの端をきつく握りしめながら、クロリアは何度もその言葉を唱え続けた。





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