その場に居合わせた誰もが振り返った。彼らの視線の先には、己の身を掻き抱いて絶叫するクロリアの姿があった。がくりと跪き、荒い呼吸を繰り返すその姿は、内なる何かに必死に耐えているようだった。 「イケナイ!」 テテロが切羽詰まった悲鳴をあげた。アルゼンがその方を振り返る。 「テテロ?」 「前ニモ何度カアッタンダ。『許サレザル者』ノ血ガ騒イデル! 今ダッテコンナ状態ナノニ、コノママジャくろりあ……!」 周りが一斉にどよめいた。彼らは明らかな恐怖を帯びた眼差しで、人ならざる姿をして喘ぐ少年を見つめていた。 「くろりあ!」 「来るな!」 思わず駆け出しかけたテテロを、クロリアが容赦なく怒鳴りつける。ビクンと肩を震わせるテテロの方に視線を向け、必死の形相で呻いた。 「来ちゃ……だめだ……っ」 体内で暴れる血の威力は、以前より確実に増していた。ただでさえ肉体の方はほとんど支配されているというのに、少しでも気を許せばあっという間に精神までも蝕まれ、正気を失ってしまいそうだ。悪魔の血――死と破壊を欲する血が、クロリアの体内を駆け巡る。そして耳の奥で囁くのだ。他でもない、クロリア自身の声で。 ――流れに逆らうな。力に身を委ねろ。そうすれば楽になれる……。 「黙れ……」 ――お前は『許されざる者』だ。この腐りきった世界を滅ぼし、浄化する者だ。それがお前の役目だ……。 「違う……ッ」 ――予言には誰も抗えない。お前は歯車の一部だ。運命に従いさえすれば世界は正しく回る……。さあ、滅ぼせ、全てを! 「やめろぉぉぉ!」 力が暴発した。 極限まで押さえ込まれた禁断の力は、鮮血と共に、クロリアの肉体を突き破り噴き出した。一瞬にして全身血まみれになったクロリアは気を失い、その場にくずおれた。光と闇そのものの翼が、ばさりと音を立てて伏せられる。 「くろりあッ!」 テテロが我を忘れて駆け寄った。泣きそうな声で何度も相棒の名前を呼びながら、力なく横たえられた体に触れる。だがクロリアは身動きひとつしてくれなかった。 想像を絶する光景を、ジンは少し離れた場所から呆然と見つめていた。あれが、クロリアの内に秘められた『許されざる者』の力なのだ。目の前で血にまみれて倒れている、とても人とは言えないおぞましい姿をしたもの。これが本当のクロリアの姿なのだ……。 ――自分たちは本当に、こんな得体の知れない強大なものを相手に、立ち向かっていけるのだろうか? 「あ……」 声も出せずに硬直していたジンの耳に、ふと微かな悲鳴が聞こえた。我に返ってその方を振り返った途端、視界に飛び込んできたものに、彼はハッと息を呑んだ。 頑なに閉ざされていた、避難所の扉が開いていた。幾人かの民と共に、レディスタが外に出てきている。その無垢な金色の瞳に目の前の凄惨な光景を映し出して、放心したまま立ちすくんでいた。 「――見るな!」 ジンが駆け寄り、彼女の視界を覆うようにその身を抱き締める。レディスタは彼の胸に縋って泣くこともせず、正気を失って取り乱すこともせず、ただ呆然と眼を見開いていた。吐息が微かに震えている。 彼女はその目で見てしまったのだ。壁一枚隔てた場所で、どんなにむごい争いが繰り広げられたのかを。血で汚れていない箇所を探す方が難しい床の上に、四肢を掻っ切られ、腹をえぐられ、或いは原型を留めない消し炭となって転がっている、少年少女たちの姿を。同じような姿で事切れている仲間たちを。そして体中を真っ赤に染めて倒れている、辛うじて彼だとわかるくらい化け物じみたクロリアの姿を――。 「……じゃ、え」 「レッド?」 頼りないレディスタの体をぎゅっと抱き締めたまま、ジンはふと問うた。彼の腕の中で、彼女が何事か呟いたのだ。ほとんど吐息のような声で、気付くのだけで精一杯だったが。 彼女は繰り返し呟いていた。肩を震わせ、ジンの胸に顔をうずめながら。そしてあるとき彼は、その微かな声で紡がれる言葉を聞き取った。――耳を疑うような、その言葉を。 「みんな、みんな……死んじゃえ」 ジンはカッと目を見開いた。本能的に彼が飛び退いた瞬間、それまで彼の腹があった場所にレディスタの腕が突き出された。不可解な形状をした、鋭い刃物と化した腕が。 脇腹を少々えぐられたものの、何とか致命傷だけは免れたジンは、信じられないという形相でレディスタの姿を凝視した。彼女はゆらりと立ち上がり、その間も何かにとり憑かれたようにあの言葉を唱え続ける。 「死んじゃえ……。邪魔をするひとは、みんな……」 「レッド! お前、いきなり何を――」 言葉は続かなかった。再びレディスタがジンを攻撃しだしたのだ。それも凄まじい勢いで――彼女には戦闘の経験すらないはずなのに。 普段なら、身の危険を感じたときはすぐさま敵の息の根を止めにかかるジンだが、今回はそうもいかない。ひたすらレディスタの攻撃を受け流しながら、ジンは必死に訴えていた。 「どうしたんだ、目を醒ませ、レッド! これ以上はお前の体がもたない。もうやめろ!」 レディスタは構わず猛攻撃を続ける。後ずさりしていたジンの足が、倒れて動かないクロリアの体に触れそうになったとき、彼女は彼の足元に一発、鋭い突きを入れた。ジンが横に転がり込んでそれを避けると、彼がもといたところの床が、固い素材であるにも関わらず深くえぐれていた。 レディスタが、今度はクロリアの傍にいたテテロに切りかかった。 「ウワッ!」 テテロは慌てて羽ばたいてそれを避けた。彼女の手の届かないくらいの位置に静止して、空中から呆然と彼女の奇行を見つめた。 レディスタはひどく緩慢な動きで、そっとクロリアの傍にひざまずいた。気を失った彼の顔をうっとりと見つめ、その血塗れた頬を愛おしそうに撫でる。 「大丈夫。あなたのことは私が守ってあげるから……。誰にも邪魔なんて、させないから……。だからね、早く楽になって……」 死にかけた親友を目の前にして優しく微笑むその姿は、とても正気の沙汰とは思えない不気味な光景だった。ジンは背筋が凍るような思いでそれを見ていた。 「待ってて……私がやっつけてあげる。あなたを苦しめるひと、みんな、みんな……」 そう囁いたかと思うと、レディスタは風のように走り抜け、再びジンを襲いだした。 もうどれだけ説得しても、彼女が攻撃の手を止めることはなさそうだった。認めたくはない――しかし現実としてレディスタは今、狂気に陥っているのだ。それに先程から、みるみる彼女の体が機械に侵食されていっている。これ以上彼女をこのままにしておくのは危ない。 「……すまない、レッド」 ジンは苦渋の表情でそう呟いた。次の瞬間、彼の膝が目にもとまらぬ速さで飛び出し、レディスタの腹を打った。彼女は短い悲鳴をあげると、力なくジンの胸にしなだれかかった。脱力した彼女の背中を、ジンはそっと受け止めた。 向こうの方から、返り血をあちこちに受け、自らもいくつかの傷を負ったラスターが駆け寄ってきた。横たわったクロリアと、ジンの腕の中で気を失ったレディスタを交互に見、彼らを取り囲んで我を忘れている戦士たちに向け言った。 「すぐに担架の用意を! 二人を緊急治療室へ運ぶのです!」 有無を言わせない強い声で、てきぱきと指示を下す姿は、かつて軍医だったこともあって手馴れたものだった。まもなく二人の姿は、ラスターの先導で廊下の奥へと消えていった。取り残された者たちは、たった今起こったあり得ない出来事に放心して立ち尽くしていた。 日が沈もうとしていた。戦場の後始末や戦死者の火葬も終わり、辺りは昼間の騒ぎが信じられないほどに静まっている。非難していた者たちは住まいへ帰り、不安と緊張で昂った気持ちを落ち着かせている。戦士たちは酒を交わし、仲間の冥福も祈り終わり、今はぐっすりと眠りについている。ラスターらは負傷者の治療に忙しいし、アルゼンたち指導者も部屋の奥でゆっくりと休んでいる頃だろう。だからジンは、こんなときに外の空気を吸いにくる者など、自分ひとりくらいのものだろうと思っていた。 一面夕焼け色に染まったノイエンの洞窟。どこからか静かな歌声が聞こえてくる。不思議に思ったジンは、そのたどたどしいメロディを辿るように、声のする方へ歩いていった。 程なくして彼は、意外な声の主を見つけた。窓際にぺたんと腰を下ろして、哀愁漂うメロディを小さく奏でているのは、何とテテロだった。 体中に茜色の光を浴びて、音程をときどき外しながら遠慮がちに歌うのは、明るい彼には随分と不似合いな切ない旋律だ。こもった鼻歌は若い竜らしい中低音で、心地よく耳に届いた。真紅の瞳はほんの少しの憂いを湛えて、どこか遠くの方に向けられている。 ジンの気配に気付いたテテロは、慌てて歌を止めてしまった。 「ナ、何ダヨ。イルナライルッテ言ッテクレレバイイノニ」 気まずそうに、視線を合わせないまま呟く。照れ隠しのためか、六枚の翼がせわしなくパタパタと動いている。そんな可愛らしい仕草を見て、ジンも思わず破顔してしまった。 「随分気持ち良さそうに歌っていたから」 「下手ダト思ッテ笑ッテタンデショ?」 「いや。結構綺麗な声で驚いた」 顔を赤らめてうつむきながら、テテロは唐突にぼそりと言った。 「……くろりあノ曲ナンダ」 「クロリア?」 「ウン。鎮魂曲(レクイエム)……ダッケナ。死ンジャッタ人ヲ慰メル曲ナンダッテ。くろりあガ蒼イ笛デ良ク吹イテルンダ」 テテロらしくない哀しげなメロディの訳を、ジンはやっと理解した。それを今ここで、彼が歌っていた意味も。 「くろりあ、マダ目ガ醒メナインダ。ダカラ今日ハ俺ガ歌ウ。下手ダケド、ナイヨリハマシダシネ。……ソウダ! ツイデニ、くろりあトれっどガ早ク元気ニナルヨウニ、オ願イシナガラ歌ッチャオウカナ。アト、コノ戦争ガ早ク終ワリマスヨウニ、ッテ。ソレカラ、くろりあガチャント予言ヲ変エラレマスヨウニ。人モ竜モ、ミンナ仲良クナレマスヨウニ。ミンナ笑顔ニナレマスヨウニ。ソレカラ、ソレカラ……」 最後の方は、ずっとこらえていた嗚咽にかき消されてしまった。意図せずあふれ出した涙を、鼻をすすりながらごしごし擦る。もう、こんな悲しいことは嫌だ。そんな心の内の叫びが聞こえてくるようだった。 ジンは少し困ったような顔をしながら、ゆっくりと隣にしゃがみこんで、不器用に背中をさすってやった。彼らの頭上では、ぽつりぽつりと星が瞬き始めていた。か弱く、今にも消えてしまいそうな光だった。 |