第五話 錯綜



「――クロリア、終わったよ」
 その声を合図に、診察室のドアを開けてクロリアが入ってきた。
 あの後、レディスタは主治医に言われて、すぐに病状の検査をすることになった。何でも今朝の一件で、無機生命体による侵食が活発化している恐れがあるという。
 クロリアはレディスタの診察が終わるまで、部屋の外で待っていたのだ。レディスタの前に現れるなり、心配そうな面持ちで彼は問いかけた。
「どうだった?」
「うん、特に異常はないって」
 クロリアの口から、ほうっと安堵の溜息が漏れる。心から安心した様子で「よかった」と一言だけ呟いた。デスクに向かってカルテにペンを走らせていた女医が、手元を見つめたまま口を開く。
「だけどレッドちゃん。今回は大事に至らなかったけど、気をつけなさいね。症状に拍車をかけるようなことをしちゃだめよ」
 すみれ色の髪とよく合う翠の瞳が、そっとレディスタに向けられる。そう、クロリアとジンの戦闘を最初に止めようとしたあの女性こそ、レディスタの担当医・アルフィレーヌだったのだ。レディスタがうつむきながら謝るのを見て、アルフィレーヌは穏やかな笑みを返した。
「無機生命体――つまりレッドちゃんの持つ病原体は、宿主(ホスト)の感情にとても敏感なの。特に悲しみとか怒りとか、負の感情には殊更に反応するという研究データが残っているわ。それが引き金になって、寄生範囲が爆発的に広がる可能性は充分考えられる。くれぐれも用心してね。……あら、次の患者さんね」
 アルフィレーヌがひと通り言い終わったとき、診察室の扉がコンコンと音を立てた。
「それじゃあ、これでおしまい。これは今日と明日の分のお薬よ。明後日また診察するから、それまでに何か困ったことがあったら、直接ここに来て頂戴。すぐに診てあげるから。いつも慌しくてごめんなさいね」
「いいえ、有難うございます、先生」
 挨拶をしてからレディスタとクロリアが診察室を後にすると、かかさず次の患者が中へ入っていった。傷病者で溢れかえるこの町で治療に当たるのがどれほど忙しいことか、クロリアたちにも容易に想像がつく。きっと毎日、寝る間も惜しんで働いているのだろう。そんな極限の状況の中、優しく穏やかな雰囲気を絶やさず、仕事をてきぱきとこなしていくアルフィレーヌ。彼女の人柄のよさと行動力に、レディスタは素直な尊敬の念を抱いていた。
「ね。アルフィさん、いい人だったでしょ。どんなときでも笑顔で接してくれて、辛いときには元気づけてくれて……。辛いこともあるけど、アルフィさんのお陰で頑張ろうって思えるようになるの」
 廊下を並んで歩く間、レディスタは笑顔でそう語った。クロリアも時々頷きながら、静かに彼女の話に耳を傾けている。
 そのときだ。
「……っ」
 突然、クロリアが息を詰めた。体の奥で何かがのたうつような、奇妙な感覚。心臓がドクンと不気味に脈打った。背筋を悪寒が走り抜ける。不吉な予感に駆られて、クロリアは無意識に胸を手で押さえた。
「……どうしたの? 何だか顔色悪いけど」
 鋭い問いかけに、クロリアはハッとした。彼が表に出したわずかな異変を、レディスタは敏感に察していた。彼女に悟られまいと、クロリアは慌てて手を離して言う。
「いや、何でもない。……悪い、俺ちょっと先に行くな」
「え?」
「用事があるんだ。すぐに戻ってくるから、それまでどこかで適当に過ごしててくれ」
 早口にそう言って、そそくさとその場を離れるクロリア。明らかにいつもと違う彼の様子を案じて、レディスタは呼び止めようとしたが、クロリアの姿はあっという間に見えなくなってしまった。彼女だけがぽつんと取り残された廊下で、医師たちがあわただしく動いていた。
 それから数分もした頃、病院から少し離れた場所にクロリアはいた。人目につかなさそうな建物の陰で、壁にもたれ息を弾ませている。胸の辺りのシャツを鷲づかみにして、必死で自分の中の異変と闘っていた。発作を起こしたような荒い息。狂ったように高鳴る心臓。一斉にざわめきだす体中の血。そう、この感覚を自分は知っている――。
 どれくらい経っただろうか。やがてクロリアの体も、徐々に落ち着きを取り戻していった。ふうっと息を吐いて振り仰ぐと、冷や汗が喉を伝った。見上げた先にあるのは、朝と同じ曇り空。どうも今日一日は太陽を拝めそうにない。ぼんやりとそんなことを考えているうち、今までクロリアを支配していた緊張が、今度は疲労となって重くのしかかってきた。
「……ドウシテ逃ゲテキタノ?」
 壁に寄りかかってぐったりしていたクロリアは、ふと問いかけの声を聞いた。腰に吊り下げられた赤いラジオ、テテロからのものだった。
「イツカハ知ラレルコトナンダ。れっどニモ、チャント説明シタ方ガイインジャナイ? くろりあガ『開眼』シタッテコト……」
 クロリアはしばらく、目をそっと閉じて黙っていた。
 今の異変は言うまでもない、『許されざる者』の血が暴れて起こしたものだ。白昼夢の中で力を開眼させたクロリア。それ以来、何度か彼は同じような発作を経験してきた。少しでも気を緩めれば魔力が暴走してしまいそうな、危険な発作を。それだから、クロリアは思わずレディスタの元を離れていたのだった。
「……これ以上、何も背負わせたくない」
 ぽつり。独り言のように静かに、クロリアが呟く。
「ただでさえあいつは、心にも体にも傷を負ってる。もうレッドを苦しめるようなことはしたくないんだ。――血のことはいずれ話さなきゃならない。それはわかってる。でも、今は……」
 クロリアがまたしても、胸をぎゅっと押さえつける。再び血が騒いだわけではない。ただ、そうしなければ堪えきれないほどに切なくて。



 トレーユの町の北方には、どこまでも続くだだっ広い緑の丘しかない。背の低い木が申し訳程度に生えているだけの、放牧以外には何もできそうにない土地が、小さな町の向こうに広がっている。
 普段はトレーユの住人すら滅多に入ってこないその草原に、珍しく今日は人影があった。どんよりとした厚い雲の下、石垣に腰掛けている。そっけない風景の中で、ひとり沈黙している少年――ふと、孤独という言葉を思わせる光景だった。草原を吹き抜けてきた生ぬるい風が、彼の横を通り過ぎていく。
 彼は背後から何者かが駆け寄ってくるのに気づいた。柔らかい草を踏みしめる音が、規則的に耳に届く。近づいてくるにつれ、荒い息遣いも聞こえるようになった。しかし少年は振り向こうとはしない。
「こんなところにいた! もう、随分探したんだからね」
 やってきた少女は、少年のすぐ隣まで来てそう言った。長いこと走ってきたのか、だいぶ疲れている様子だ。膝に両手を置いて、肩で息をしている。真紅の長髪が重力に任せてさらさらと流れた。そう、駆けてきた少女というのはレディスタだった。
 呼吸が落ち着いてきた頃、レディスタはそっと少年の方を見た。黒ずくめの少年は、銀の瞳をどこか遠いところに向けている。煌くピアスと金色の髪が、横顔の端麗さを引き立てる。早朝の一件以来、姿を消していたジンだった。
 一瞬の沈黙の後、レディスタが勢いよく頭を下げた。
「ジン、今朝はごめんなさい。私、びっくりして取り乱しちゃって……。二人に闘ってほしくなかったのは本当だけど、感情に任せて泣き喚いたりして、きっと心配かけたよね」
 レディスタは懸命に話を続けた。
「せっかく久しぶりに会えたのに、あのまま終わるのなんて嫌だった。話したいこともたくさんあったし……。だから探してたの。ちょっと時間かかっちゃったけど、見つかってよかった」
 だが、ジンは黙ったままだ。
「あ……あの、怒ってる? ごめんね、そんなつもりなかったんだけど。ちょっとうるさくしすぎちゃった……かな」
 最後の方は、ほとんど消え入るような声だった。ジンが黙りこんだままこちらを見ようとしないのは、もしかしたら今朝のことをまだ気にしているからかもしれない。そう思って不安になったのだ。しょぼんとしてうつむくレディスタ。風が二人の間を流れていく。
「腕は大丈夫なのか」
 唐突なジンの声に、レディスタはぎくりとした。
「え、えっと……?」
「お前の右腕のそれ、無機生命体じゃないのか」
 ひと目見ただけでわかるとは大したものだ。鋭い洞察力と確かな知識は、他でもない、長旅によって培われたものだった。突然のことに思考がついていかず、しどろもどろになりながらレディスタは答える。
「う、うん。今はだいぶ症状も落ち着いてるよ。あの後ちゃんと病院に行って、いろいろ診てもらったけど、特に異常はないって」
「そうか」
 短く言って、また黙り込む。そして何の前触れもなしに、ジンは石垣の向こう側へと飛び降りた。面食らうレディスタをよそに、彼は無言でスタスタと歩いていってしまう。慌ててレディスタが呼び止めた。
「ちょっと、どこ行くの!」
「俺がここにいても、お前にしてやれることは何もない」
「そんなことない! 私、ジンに会いたくてここまで来たんだよ。少しくらい……」
「話し相手ならクロリアがいるだろ。俺といて何の得がある」
「お願い、待って――きゃあっ!」
 鋭い悲鳴に、ジンは思わずふり返った。レディスタが石垣の上でバランスを崩している。乗り越えようとして足が引っかかったらしい。ジンは反射的に駆け寄り、落ちてきた彼女の体を抱き抱えた。
「あ、ありがと」
 遠慮がちに言うレディスタ。今、彼女はジンの胸に飛び込んだような状態になっているから、必然的にジンを見つめる目は上目遣いになる。ジンの心臓が不覚にも大きく脈打った。柔らかな体、長くて繊細なまつげ、背中に回した手に触れる、さらさらとした真紅の髪――。
 半ば無意識に、ジンはレディスタを強く抱きしめていた。
「あ……」
 レディスタの口から声が漏れた。彼女の胸は、ただでさえ壁から落ちかけたことでばくばくと高鳴っている。その上ジンに抱きすくめられるのだから、もう気が気ではなかった。思考がついていかない。何もかも突然すぎる。
「じ、ジン……」
「もう少し、このままでいさせてくれ」
 上ずった声で名を呼ぶと、ジンは低く囁いた。耳元で呟かれたそれに、レディスタは思わず鳥肌を立てた。心臓が破裂しそうだ。頬が熱い。何も喋らずにいると、ジンの吐息や衣擦れの音ばかりが聞こえてくる。こんな甘い沈黙、耐えられない。
「――お前といると、決まって決心がぐらつく」
 小声で語りだすジン。
「俺がしていること、しようとしていることは、全部間違いなんじゃないか――そんな思いに駆られる。今の俺にとって、そんな心の迷いは必要ない。進む先を見失うなんて、絶対に許されない。だから意識的に、お前を避けようとしてた」
 今までのそっけない態度の裏には、そんな思いがあったのか。レディスタは言われるまで全く気がつかなかった。ジンは彼女の耳元で、彼女にしか聞こえないような微かな声で続ける。
「でも本当は、今まで信じてきたことを覆されるのが……お前の声に耳を傾けるのが、怖かっただけなのかもしれない」
 言葉の末尾が少しだけ震えたのを、レディスタは確かに聞いた。
 自分が今までしてきたことを否定するのが怖かった。一心に信じてきたものが崩れるのを恐れていた。ジンは今、必死にその恐怖と闘っている。故郷を離れ、暗殺者としての腕を磨き、もうひとつの人格をも作り出し、世界一の殺し屋と称され、盲目的に旅を続けてきた数年間。全てはクロリアを抹殺する、そのためだけに――。本当にこのままでいいのかという疑念と、迷うことは許されないという義務感とが、ジンの中で入り乱れていた。
 ジンはレディスタを抱く力を一層強めた。そうしないと自分の心も体も、ぼろぼろと崩れてしまいそうだった。レディスタの素直な思いが、純粋な願いが、優しい温もりが、ジンの頑なな心を解かしていく――。
 町に爆音が響き渡ったのは、そのときだった。





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