「それから、この町で手術を受けたの。私はその間もずっと気を失ってたから、気づいたときにはもう病院のベッドに横になってた」 昼下がりの砂っぽい風が、レディスタの長い髪を撫ぜていく。 トレーユの町の広場では、シルヴィラスからの難民向けに食事を配給していた。人々は質素なスープとパンだけのために、長蛇の列を作って延々と待ち続けている。レディスタは早めに受け取りに行ったので、その列を傍から眺めながら昼食という形になった。 「それじゃあその腕は、手術のときに?」 レディスタが持ってきてくれたスープを啜りつつ、クロリアは問いかけた。言いながら見たレディスタの腕は、ヒトのものとは思えないような姿をしている。シルヴィラス襲撃のとき受けたはずの深い傷は見えない。その代わりに腕のほとんどが機械化し、鈍い銀色の光を放っていた。 レディスタはお椀から口を離して、こくんと頷いた。 「これだけじゃないの。腰とか左足とか、あのとき受けた傷のほとんどはこれと同じようなことになってるわ」 するとクロリアは眉をひそめて怒りを露わにした。視線をレディスタの右腕に向けたまま、低い声で言う。 「いくら何でもひどすぎる。医者はそんな治し方しかできなかったのか?」 「ち……違うよクロリア」 レディスタが慌てて弁解した。 「これ、医療ミスとかじゃないんだよ。傷口に小さな『無機生命体』っていうのが寄生して繁殖していく、すごく稀な病気なんだって。今までもいろんなお医者様が治療に当たってくれたけど、前例があんまりなくて、治すのが難し――」 不意にレディスタが息を詰めた。機械化している右腕をぐっと押さえつけて、必死に何かに耐えている。不安そうにクロリアが問いかけた。 「痛むのか?」 「うん、ときどき……」 病原体が侵食範囲を広げるときに伴う痛みだということは、言われずとも気づいた。しかしクロリアには、痛みが引くのを待つこと以外してやれることがない。もどかしい思いを噛みしめながら、クロリアはそっと彼女の背に手を置いた。 しばらくそうしていたレディスタが、ふと小さな声で呟いた。 「だけど大丈夫。アルフィさんが一生懸命治してくれてるから」 「アルフィ?」 聞き慣れない名前だと思ってクロリアが問い返すと、レディスタは顔を優しく緩ませて答えた。 「そう。アルフィレーヌっていう、私の主治医さん。とっても優しい人なの。明日また診察を受けることになってるんだ」 しかしその柔らかな笑みは、長くは続かなかった。 「でも、私の腕なんて大したことじゃないよ。どんなに痛い思いをしたって、どんなに体が侵食されたって、私は生きてる。だけどリト爺は……」 大したことではないという台詞に一時は反論しようとしたクロリアも、リトのことが話題に上って、言葉を失ってしまった。 リトはクロリアが慕っていた育ての親だ。道端に捨てられていたクロリアを拾い、それが不吉な存在だと知っていながらも、真心こめて育ててくれた。その彼がもういない――。その事実がクロリアに重くのしかかっていた。 二人はそれぞれ話し出す気力も機会も失って、地面の方に視線を投げる。 しばらくして突然、グーッという気の抜けた音が響いた。 「……まだお腹空いてるの?」 「馬鹿っ、俺じゃない」 怪訝そうに聞いてくるレディスタに、クロリアが顔を赤らめながら必死で否定する。おもむろにベルトに手をやり、ある物を引っ張り出した。 「……お前だな」 赤いラジオをぶらんと目の前に垂れ下げて言うクロリアに、レディスタは思わず「え?」と素っ頓狂な声を出してしまう。まもなく、彼女は今の言葉の意味を知ることになった。 ラジオがぐにゃりと変形する。そして不意に、蛇のような頭が突き出してきた。まるで粘土をこねるように、目ができ、鼻ができ、口に亀裂が入って……。 「何ダヨー、自分ハ美味シソウニスープ飲ンデオイテ!」 開口一番に文句を言ってきた。 「て、テテロ君!」 「ヤッホーれっど、久シブリー」 目を白黒させながら仰天するレディスタに、テテロは相変わらずの無邪気な笑みを返してみせる。 「何これ、どういうこと?」 「見ての通り、テテロが変身した姿だよ。シルヴィラスを歩くのに、竜の格好のままじゃ危ないだろ?」 「オカゲデ堂々ト話モデキナイヨ。何モ食ベラレナイシ!」 「あんまり騒ぐな。人に見られたらどうするんだよ」 クロリアは周りの人に気づかれないよう、コートの裏にテテロを隠した。だがテテロはまだ言い足りないようだ。 「くろりあ! 相棒ガ腹減ッテ死ニソウナンダゾ! 助ケヨウトカ思ワナイノカヨ!」 「わかった、わかったから。静かにしてろって言ったろ!」 「ダッタラ何カクレヨ! 俺モウ限界――」 テテロの声が切れた。クロリアが無言でラジオにパンを突っ込んでいた。途端に態度を一変させて、幸せそうにパンをほおばるテテロ。クロリアは疲れた様子で、溜息交じりに額を手で押さえた。 そんな一部始終を、レディスタは呆然としながら眺めていた。そしてふと、まるで氷が解けたような笑顔を浮かべる。 「相変わらずだね」 「まあな」 それまでの緊張がほぐれ、クロリアとレディスタは笑いあった。 そのとき、不意にレディスタが視線を感じてその方を見た。人波の向こうから、二人の子供がこちらをじっと見つめていたのだ。多分ひとりは妹で、もうひとりは兄だろう。幼い二人の視線は、明らかにレディスタの手にしているパンに向けられていた。 それを悟ったレディスタは、ゆっくりと立ち上がって二人のもとへ歩み寄った。一瞬たじろいだ二人に、彼女は優しく微笑みかける。 「はい。あげる」 言いながら、何のためらいもなくパンを差し出した。すると遠慮する余裕もないといった様子で、小さな兄妹は掠め取るようにそれを受け取った。ぱあっと明るい笑顔を満面にたたえ、声を揃えて「ありがとう!」と言い残し、向こうへと駆けていく。 後ろから見守っていたクロリアが、柔らかな微笑を浮かべた。 その夜、レディスタは割り当てられた病室で、クロリアは路上の隅でそれぞれ眠っていた。避難者なのに屋根の下で夜を明かせない者すらいるのだから仕方がない。それに彼は長い旅の中で、野宿にもすっかり慣れていた。 そろそろ空が白み始めようという頃、クロリアは何度か曖昧な瞬きをして目覚めた。壁にもたせかけていた背中を浮かせ、白い手袋に覆われた手で目を擦る。 昼間に埃っぽいと感じた空気は、動くものがない今、大分落ち着きを取り戻していた。まだ町は活動を始めていないようだ。日の出前独特の静けさが辺りに立ち込めている。その空気をゆっくりと肺に入れてから、クロリアはスッと立ち上がった。 そのときだ。突然、背中に何かを押しつけられたのは。 「――やっと見つけた」 耳元で低く囁かれ、クロリアの頭が一気に冴え渡る。凍てつくほど冷たく、それでいて綺麗な声。すぐにひとりの懐かしい人物と繋がった。 「……ジンか」 振り向かずにクロリアは言う。 彼の背後にいたのは、まさしくジンその人だった。黒々とした長身の拳銃を、クロリアの背中に突きつけている。漆黒のマントやマスクで体全体が覆われ、辛うじて露わになっているのは、獲物を射殺すような眼光を放つ銀の瞳だけだ。 「手間取らせたな。まさか海に出ていたとは」 「こっちも予想外だったんだよ、それは。どうしてここが?」 「港町の住人から、お前が荒野に向かったことを聞いた。その先にはシルヴィラスがある。そして避難民はこのトレーユへ逃げてきた。間違いなくそこにいる、と」 「大当たり」 瞬間、ジンは後ろへと飛びのいた。突然、自分の銃を目掛けて刃が伸びてきたのだ。クロリアが後ろ手に召還した、ライトアローの刀身だった。 一瞬の隙をついてクロリアはジンとの距離を置き、対峙する姿勢を取った。互いに武器を構えながら睨みあう二人。 ピリピリとした空気の中で、ジンが口を開いた。 「――もう、逃がしはしない」 パァァン。 静寂の世界で銃声が木霊する。銃弾はクロリアの肩口を掠めた。続けてもう一発。今度は姿勢を低くし、横へと転がり込んで避けた。更に放たれた二発の銃弾は、手持ちのライトアローによってはじく。 ジンが撃つ手を休めた一瞬を利用して、目にも留まらぬ速さでクロリアが駆け寄ってきた。突然目の前に現れたクロリアに驚くジン。互いの吐息を感じるほどの至近距離で、二人の視線が絡まる。これほど近くなら撃てるものも撃てないだろう――クロリアはそう考えたのだ。 だがジンの行動も素早かった。相手の意図がわかった途端、すぐに短刀で切りかかる。間一髪のところでクロリアは逃れ、何度かジンの短刀と刃を重ねた。 再び二人は間隔を取って見つめあった。そうしている間にも、ジンは更に長剣を引き抜いた。右手に長い刃、左手に短い刃を握る二刀流だ。今までほとんどの攻撃が銃だっただけに、クロリアは驚きを隠せずにいた。 「剣も使えるようになったのか。さすがだな、ジン」 「……お前を殺すためだったら何でもするさ」 微笑を浮かべながら残忍な言葉を紡ぐジン。言い終わるか終わらないうちに、勢いよくクロリアに向かってきた。クロリアはライトアローの二枚刃を上手く使って、ジンの剣を二つとも受け流した。二人の間で火花が飛び散る。カキン、カキンという甲高い音が、不気味な余韻を残して何度もはじけた。 そのときだ。 「何事ですか!」 クロリアとジンが一斉に振り向いた。 凛とした声の主は、すみれ色の柔らかな髪に翠色の瞳をした女性だった。白を基調とした清楚な衣装に、スマートな体を包んでいる。すらりとした美しい立ち姿勢を保って、刃を重ねる二人を見据えていた。 「こんなところで争うのはおよしなさい。ここをどこだとお思いですか? 戦場からやっとの思いで逃れてきた方々の避難所なのですよ」 気がつくと、周りには路上暮らしの難民たちが集まっていた。争いに巻き込まれるのを避けるため、少し離れたところから様子を見守っている。まるで有名人を囲む野次馬のようだ。全員、不安そうな顔をこちらに向けていた。 ひと通り彼らを見回した後、ジンは視線を女性に差し向けた。見たもの全てを石にしてしまいそうな、冷徹で無情な瞳。 「……勝手なことを。何も知らない貴様に、割って入る権利など」 「あります!」 ジンの言葉を遮り、女性は高らかに叫んだ。 「どんな理由があろうと、この場で傷つけあうこと、それ自体が罪なのです。この町には、嫌というほど悲しみを味わった人たちばかりが集まっています。これ以上の争いなど、誰も望んでいません。あなたが少しでも人情というものを持っているのなら、今すぐ刀を納めなさい!」 長く重々しい沈黙が、辺りを満たした。分厚い雲が空を埋め尽くし、とうに大地を照らしいるはずの朝日を覆い隠している。灰色の空が、砂利を踏みしめるわずかな音をも飲み込んでいくようだった。 「――やめて!」 その無音の世界を崩したのは、人垣を割って現れた少女だった。その姿を捉えた途端、クロリアとジンは同時に名を叫んだ。 「レッド!」 ことに驚いたのはジンだった。シルヴィラス襲撃の事件を聞いてから今まで、一度も彼女と顔を合わせていなかったのだろう。 レディスタはぐっと唇を噛みしめた。真紅の髪を揺らしながらつかつかと歩み寄り、二人の間に割って入る。 「もうやめて。こんなところで争わないで!」 レディスタの叫びに、ジンは厳しい口調で言い返した。 「なぜお前がそんなことを……。俺たちが闘う理由を、お前は知っているはずだ」 「そんなことは関係ないわ!」 怒りと悲しみに満ちたその響きに、ジンは思わず息を呑んでしまった。 「私たち、シルヴィラスでたくさんのものを見たの。断末魔をあげて死んでいく人たち、壊れていく住み慣れた町……。まるで地獄のようだった。目の前で、大切なものがどんどん失われていくの。それがどんなに哀しいことだかわかる?」 揺るぎない意志を持つレディスタの言葉は、まるで一種の魔法のようだった。どんなに頑なな心にもストレートに入り込んでくる。そしてその中でパチンとはじけ、鮮烈な印象と余韻を残して消えるのだ。 「ここにいるのは、そんな悲惨な経験をした人ばかりよ。希望も夢も肉親も、何もかもなくして、それでも必死に今を生きているの。その人たちの前で殺し合いをするなんて無神経なこと、絶対に許せない! 命が散るところなんて、もう誰も見たくないのよ!」 「だが――」 「これに勝る理由なんかない! 例えどんな事情があったとしても!」 レディスタはジンに向かって、これでもかというほど言葉を叩きつけた。彼女の瞳があまりにも辛そうな色をしているのを見て、ジンは何も言えなくなってしまう。 そして次の瞬間、彼は絶句した。 「どう? これよりもっとひどい傷を負った人もたくさんいるのよ。みんなここで心や体の痛みと闘い続けているの。それでもまだ争うつもりなの!?」 レディスタが袖をたくし上げ、そのむごい右腕をジンに見せつけたのだ。 何も言えずに立ち尽くしているジンの前で、レディスタは我を忘れたように訴え続けた。目からは涙が溢れ、顔は悲しみに歪んだ。 「……レッド!」 クロリアが慌てて彼女に立ち寄り、今にも崩れ落ちそうなその体を支える。彼の温かみがレディスタの肌に触れた途端、彼女は声をあげて泣き出してしまった。今まで耐えていたものが、堰を切って一気に噴き出す。 ジンは悲しげに銀の目を細めた。おもむろに二本の剣を収め、ゆっくりと踵を返す。皆の視線が集まる中、彼は何も言わずに人ごみを抜け、どこかへ去っていった。後に残った音は、レディスタの悲痛な泣き声だけだった。 |