第六話 ヒカリ



 クロリアとテテロが息を呑んだ。指令を受け、クルーたちが甲板へ持ち出してきたもの。それは鈍い黄金の光を放つ、丸みを帯びた金属の塊だった。大きさは両手で抱えられるほどだが、クルーの様子を見るとかなりの重量のようだ。クロリアはそれに底知れぬ不吉な予感を覚えた。途端、脳裏に閃光がほとばしる。
「それは……!」
 痛みも忘れて身を起こしたクロリアが口走ったそれに、船長は重々しく答えた。
「そうだ。これが科学の粋を集めて作られた最強兵器、“アザゼル”――!」
 堕天使の名を与えられたその兵器は、誰もが一度は耳にしたことがあるものである。最近になって軍が生み出したもので、従来のものとは比べものにならない威力を持った爆弾なのだ。その驚異的な破壊力は、大都市をまるまる呑み込んでしまうほどだと言う。そのような恐ろしいものが目の前にあるとは。
「それで一体何をするつもりなんだ! まさか、まさかっ……!」
「くろりあ、動イチャ駄目ダ!」
 計り知れない不安に突き動かされ、不自由な体で無理に詰め寄ろうとするクロリア。テテロが慌てて彼を取り押さえるが、それでもクロリアは抗った。必死な彼の様子を見下ろして、船長が感情の見られない表情で答える。
「愚問だな。――吹き飛ばすのだよ、全てを」
 クロリアの瞳孔が一気に凝縮した。
「我々は海竜抹殺という任務に失敗した。生き残った竜どもは、やがて全世界の竜族に我々が殺戮を企んだ事実を広めるだろう。そうなれば奴らは、我々人間が住む地域を潰しにかかる。それを回避するだめに、たった今、無線で上層部から命令が下されたのだ」
「あんた、自分の言ってることがわかってるのか! こいつを爆発させたら……」
「ああ、間違いなく死ぬだろうな。竜どもも、貴様らも――そして我々も」
 自嘲的な笑みを浮かべ、船長はさらりと言ってのけた。その薄笑いは、ひとつひとつの語を紡いでいくごとに深く刻まれていく。
「我々は軍人だ。大切なものと名誉を守るために、指令に従い、戦い、時が来れば潔く消えていく。それが最優先事項だ。全てをゼロに返す。ここにいた存在、ここで起こったこと、一切を消し去りこの海深くへと沈めるのだ!」
 狂ったような叫びが空高く響く。サンドラの肩がびくんと震えた。彼女はこのような強硬手段が用意されていたことを知らされていなかったに違いない。思いがけない事態に絶句したまま、彼女は硬直してそこに突っ立っていた。
「サンドラをどうする気だ! 彼女は軍人じゃない。任務のために死ぬ義務なんてない!」
 クロリアの訴えを聞き、船長はまたしても笑みをその顔に湛えた。先ほどのものとは違う、有無を言わせないような威圧的な笑顔。
「我々は戦争をしに来ているのだ。死を覚悟せずにいる者などいるまい。軍とは何の関係もない貴様らには悪いが、共に死んで貰おう。どちらにせよ、逃げる手立てはもうない」
 船長は少しだけ深呼吸をした。そして次の瞬間、遂に決定的な言葉が放たれた。
「“アザゼル”、安全装置解除!」
 クルーの一人が、バーに添えていた震える手にぐっと力を込めた。ガシャンと機械的な音が響く。アザゼルが不気味な重低音を発した。やがてガクガクと金属球全体が振動し始める。テテロとクロリアは固まったまま動けず、サンドラは明らかな恐怖をその顔に湛えていた。この時を覚悟していたクルーたちですら、今にも発狂しそうな様子で目の前の最終兵器を見つめていた。
 そう、もう後戻りはできない。破滅へのカウントダウンは始まったのだ。あと数十秒もしない内に、今この目に映っている全ての命が散る。そこに存在したという痕跡すら残さず、海面を覆う業火の中で消えていく。海の中の罪なき者たちをも巻き込んで。そんなことをして、何の利得があると言うのか。最後に残るものなど、何もないのに――!
 クロリアの中で、何かがはじけた。
「くろりあ!?」
 二色の翼が大きく羽ばたいた。目にも留まらぬ速さでテテロの元をすり抜け、滑るように突き進む。クロリアが船員たちを蹴散らすように飛び去った直後、彼らは恐ろしいことに気がついた。デッキの中央に据えたアザゼルが、ない。
「あそこだ! クロリアが抱えてる!」
 サンドラが海の彼方を滑るように飛翔するクロリアを指差した。彼が両手でしっかりと抱き抱えているものがギラリと金色の光を反射する。間違いなくアザゼルだった。
「駄目ダ! くろりあガ、くろりあガ死ンジャウ!」
 テテロが声の限りに叫ぶ。しかしクロリアがその凄まじいまでのスピードを落とすことはなかった。海竜たちが逃げた方向とも、船がいる方向とも違う、何もないずっと離れたところへ彼は向かう。胸に破壊の堕天使を抱え、迷うことなく水平線を目指した。
 船員たちは放心状態のまま、彼の影を目で追っていた。そんなことをしても被害は抑えられない。相手は巨大な町をまるまる吹き飛ばす爆弾だ。少し距離を置いたところで、竜も人も助けられはしない。それなのに何故……。
 突然、船にいる者全員が沈黙した。クロリアの動きがぴたりと止まったのだ。こちらからは辛うじて姿を捉えることしかできないほど遠くで、彼はとどまっている。アザゼルを手放した様子はなかった。
 爆発まで時間がない。もうじき全てが消え去る。回避する手段などない。何もできないまま、死を待つことしかできないまま、ここにある全ての命は無惨にも絶たれるのだ。嵐の前の静けさが、世界に満ちる。
 ――そして。
 アザゼルが目を潰すほどのまばゆい光を放った。それは一気にクロリアを呑み込み、荘厳な柱となって天を貫く。クロリアを核として巨大な光の球体ができあがった。直後、滅びの光が水面を走り、全てを焼き尽くす。――そのはずだった。
「……!?」
 アザゼルは確かに今、その原型を失った。だが炎が海を覆うことはない。そんな馬鹿な。船に乗る者全てが目を疑った。一瞬の出来事が、スローモーションのように彼らの瞳に映る。
 堕天使の猛威は、全て光のドームの中に凝縮されていた。本来この海一面を食い尽くすはずだった想像を絶するエネルギーが、限られた空間の中で爆発を繰り返していた。光とも炎ともつかない力がひしめき、渦巻き、はじける。そして次の瞬間には、音という音を奪い去るかのような轟音と、情けを知らない突風が襲い掛かった。光のドームの周りで高波が造り上げられ、一面の蒼の上に巨大な波紋を刻んでいく。凄まじい高波と強風に晒される白帆の船。全員が息を詰め、思いがけない衝撃に耐えた。
 それらはやがて船や竜の群れを通り過ぎ、遥かな水平線へと消えていった。取り戻された、不気味な静けさ。まるで今起こったことが、全て夢だったかのような。
 しばらくショックで気を失っていたサンドラやテテロが、苦しそうに顔を歪めて意識を取り戻した。頭の中はまだ朦朧としているが、それでもほとんど傷を負うことなく、彼らは生き残っていた。今の事実を信じられないまま、彼方の海を見つめる。そこにはもう、翼を携えた旅人の姿はなかった。
「そんな――」
 愕然としたサンドラの唇から零れ落ちる、絶望に満ちた言葉。原因は知る由もないが、あの恐怖の破壊兵器は、自分たちに向けるはずの脅威を全てクロリアに集中させたのだ。そんな中で彼の生存する可能性を信じることなど、到底無理だった。
 テテロも、サンドラも、他の船員たちでさえ、続ける言葉を失った。殺戮を目論み、アザゼルを発動させ、全てを破滅に追いやろうとした船員たちは生き残り、一番に皆の命を大切に思う彼が犠牲となった。運命を呪うことなく生きていたクロリアが、優しく綺麗な顔で笑うクロリアが――今、消えた。
「嫌、ダ……。嫌ダ! くろりあァァァ!」
 テテロの絶叫が、虚空を切り裂いた。
 そして次に聞こえた言葉が、全てを変えた。
「何だよ。叫ばなくても聞こえるって」
 聞き覚えのある透明な声。目という目が一斉にそちらを振り向いた。爆風でずたずたに切り裂かれた白帆を背景に、日の光を受けてキラリと輝く白銀と漆黒が広がっている。そう、宙に浮いていたのは紛れもない――
「……くろりあ!」
 テテロが涙を散らしてその名を呼んだ。翼の持ち主は、いつもの繊細な微笑を浮かべて宙に浮かんでいた。彼はゆっくりと羽を羽ばたかせた。コートをふわりとたなびかせながら、そのまま甲板へと降りてくる。
 自分が重傷だということも忘れ、テテロはクロリアに飛び込んでいった。「おっと」と小さな声をあげて、彼の体を受け止めるクロリア。
「馬鹿野郎。アンナ無茶スルナヨ……!」
「泣くほど心配してくれたのか?」
「ウルサイッ……」
 綺麗に笑いながら何でもないように言ってしまうクロリアが、テテロは悔しかった。しかし同時に、体に染み込むような安心感も覚えた。どうしようもない感情を伝えるように、テテロはクロリアの胸に顔を押しつける。
「だけどどうして……。一体何をしたんだ、クロリア」
 サンドラが静かに問いかけた。平静を装ってはいるものの、本当は涙が溢れるのをこらえるのに必死で、安堵感に足の力も抜けそうだった。
 そんな彼女にそっと目を向けて、優しい声音で答えるクロリア。
「血の魔力を使って、アザゼルと俺の周りに結界を張ったんだ。全てとはいかなかったけど、大部分のエネルギーは封じ込められたよ。俺も精神力こそ消耗してるけど、ダメージはほとんど受けずに済んだ」
 信じられなかった。あそこまで強大なエネルギーを押し込めてしまうほどの力。それが一体どれほどのものなのか想像もつかない。しかもその根源が目の前にいる少年だとは、正直考えがたかった。しかし今のサンドラには、クロリアが生きて帰ってきてくれたという事実だけでもう充分だった。
 どうやら船員たちも、同じように呆気に取られているようだ。何も言えないまま、クロリアに目を釘付けにして突っ立っている。クロリアはテテロの頭を撫でながら言った。
「風と波にやられて、もう船はボロボロだ。これ以上の出撃は断念せざるをえませんね、船長?」
 言って、静かに彼の方を見る。純粋すぎる蒼の瞳に見つめられ、船長は動揺を隠せないでいた。しばらく悔しそうに歯噛みしていたが、すぐにがっくりと肩を落として呟いた。
「……あんたの、言うとおりだよ」
 クロリアはにっこりと微笑んだ。



 それから丸一日をかけて、船はやっと目的地の港に着いた。ここまで来るのに予想外の時間と手間をかけたせいか、クロリアもテテロも嬉しさを抑えきれずにいる。
「くろりあ! 陸地、陸地ダヨーッ! ヤッホー☆」
「やっと土の上を歩けるぜ! 長い道のりだったなぁ……」
 二人とも心から安堵している様子だ。無邪気なその姿に、サンドラは思わず笑みを零した。クロリアもテテロもあれほど傷だらけだったのに、一晩手当てをしただけで大分良くなった。無論、完治とまではいかないが、一日中安静にする必要はない。数日もすれば、日常生活に影響をきたさなくなるだろう。さすがは未知能力竜、そして天使と悪魔の血を継ぐ者だ。
 ……と、サンドラは自分の中にある竜への思いの変化に驚いた。ずっと竜を憎み、恨みながらすごしてきた日々。もちろん今でも竜を許したわけではないし、クロリアのように無邪気に接することはできない。きっかけを作ったのは自分たちとはいえ、この竜は仲間を何人も殺したのだ。それに母と父の無念を晴らしたいという意志も、消えてなどいない。それでも、無闇にその矛先を向けることはしなくなった。冷静に物事を見つめることができるだけの、気持ちのゆとりができたのだ。
 波に揺られながら、船は桟橋近くに寄せられた。ロープでしっかりと固定され、錨が下ろされる。船に乗る者は一人ずつ桟橋へと降りていった。足元の揺れない安定した場所に立つ感覚が、とても懐かしかった。
 どうやらここは町や村からは独立した港らしい。サンドラが言うには、ここからもう少し離れたところにある駅から、汽車でシルヴィラス付近まで行くことができるらしい。クロリアとテテロは、とにかくまずそこを目指すことにした。レディスタの安否も知りたいし、町がどのような状況なのかを自分たちの目で確かめ、現実を受け止めたかったのだ。――例えそれが、どんなに残酷な現実であろうとも。
「クロリア。元気でな」
 別れの空気が漂い始める中、サンドラは少し寂しそうな笑顔で言った。
「ああ、サンドラも。これからは新しい仲間とうまくやって――」
「……軍には戻らないさ」
 サンドラが先取りして答えた。何のためらいもなく言う彼女に、クロリアはいささか驚いた様子だった。彼女の後ろにいるクルーたちも意外そうな顔をしている。
「時間をかけて、考え直してみたいんだ。あたしなりの生き方も、親のことも。故郷を奪った竜どもは許さないし、今だって嫌いだよ。だけど、その……クロリアみたいな考え方は好きだ」
 堂々と前を向いて話していたサンドラだったが、最後のところで思わず顔を下に向けた。恥ずかしさを表に出さないように必死のようだ。
 隣でテテロがコートの裾を引っ張ってくる。彼の意図に気づき、クロリアは言った。
「それじゃ、そろそろ出発だ。また会えるときまで、な」
「俺ハモウ絶対ニ会イタクナイ」
「それはこっちの台詞だ。竜」
「同じく」
 テテロがぶっきらぼうに言うと、サンドラと船長が嫌悪の気持ちを込めて呟いた。それが冗談でないことはわかっていた。それでも緊張感は以前より格段にほぐれている。クロリアから優しい笑みが零れた。
 踵を返す、旅人と旅竜。シルヴィラスへ向けて一歩踏み出した、そのときだった。
「ま……待てよ!」
 クロリアの腕が、がしっと掴まれた。反射的に振り向くと、すぐ近くにサンドラの顔があった。きょとんとするクロリアと、距離の近さに慌てるサンドラ。一気に彼女の頭に血が上った。
「……何?」
 クロリアが問い返しても、サンドラは真っ赤になって「その……えっと……」と呟くばかりだった。彼女の心臓は、壊れてしまったように高鳴りを続けている。この状況を見れば、どんなに鈍い人間でもわかる。彼女が何を言おうとして、こんなにためらっているのか。そう、今まさに、サンドラの恋の決着がつこうとしているのだ。
 ――永遠とも思える沈黙。
「……な、何でもない!」
 掴んでいた腕を勢いよく放し、クロリアとの距離をとるサンドラ。言ってから彼女は後悔した。最後まで想いを伝えられなかった――と。
 もちろんクロリア本人は、サンドラの想いを察していた。恥ずかしそうにうつむく彼女に、クロリアはあの綺麗な微笑みを向ける。いつもと同じ笑顔だったが、彼女にはそれが特別なものに見えて仕方なかった。
「ありがとう、サンドラ」
 透き通るような声で囁かれた。サンドラの頬を滑った彼の手の温かみが、一枚の布を通してじわりと染み込んだ。
 気がついたときには、もうクロリアはテテロに乗って空中へ舞い上がっていた。地上に柔らかな風を巻き起こして、あっという間に飛び去っていく。六枚の翼が残していった風に短い髪を揺らしながら、サンドラは彼らを見送った。
 ――と、ふと何か白いものが視界に飛び込んできた。夢中でそれを捕まえ、そっと手を開く。サンドラは短く声をあげた。
 それは純白の羽根だった。明らかにテテロのものとは違う、美しい光をまとった羽根。サンドラは確信した。間違いない。これは、彼の……。
 彼女の瞳に、キラリと光る雫が浮かんだ。
 彼を捕らえたのは自分。彼を閉じ込めたのも自分。彼を巻き込んだのも、彼を殺そうとしたのも自分。そうして散々ひどい目に遭わせて、それでも彼は自分に優しくしてくれて。――そして、恋してしまった。自分は身勝手すぎる。今更そう思った。もう自分の想いを受け止めて欲しいなんて思わない。この温かさと優しさだけで充分すぎる。これ以上何も望まないし、望めない。
 それでも、たった一つだけ願っていいだろうか。君の行く先に幸あれ……と。





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