第五話 絆



「!」
 その場の空気が一瞬にして凍りついた。デッキにいる船員たちは、皆同じ一点を凝視している。それもそのはずだ。突然船室の扉から現れたのは、もう殺されたはずの旅人だったのだから。その上、彼の背からは見たこともない巨大さと美麗さを誇った漆黒と白銀の翼が生え、どす黒い不気味な刻印が腕や顔に広がっていた。
「貴様……死んでいなかったのか!」
「奇術師だ……。こいつは化け物だ!」
 船員たちが恐怖におののき叫ぶ中、クロリアはデッキの横に目を向けた。告げられていたとは言え、実際にその惨状を見た瞬間、彼の顔は哀しみに歪んだ。
 舳先から伸びる竿。その先に一匹の竜が吊るされている。その体は腰を折り目にしてだらんと垂れ下がっていた。六枚の翼も、ぐったりと重力に任せて下を向いている。ありとあらゆる箇所から血があふれ出して、体は真っ赤に染まっていた。そう、それは紛れもない――。
「テテロ……!」
 クロリアが震える声でその名を呼んだ。
 ぽたり、ぽたりと水面に落ちる紅いもの。それが海水に薄く混じるたび、集まった海の主たちが騒ぎ立てる。同じ種族の者が傷ついた、憎き人間を許すなかれ――と。その数はみるみる増えていき、テテロを中心にして船を囲むように広がっていった。群がる全ての瞳は明らかな憎悪の色を帯びていた。
 トン、と木材を叩く音がした。無意識のうちに、クロリアの足が一歩踏み込んだのだ。その足取りは次第に速くなっていく。向かう先は、傷だらけのテテロがいる舳先。我に返った船員たちが、慌てて彼を止めにかかった。
「と、止まれ! 邪魔は許さ――うわぁぁっ!」
 声は悲鳴に早変わりした。クロリアの周りには不思議な力が立ち込めていた。その見えないベールは、彼に触れようとする者をはじき飛ばした。
 クロリアは彼らのことなどお構いなしに、甲板を全速力で駆け抜けた。船の縁にまで来ても一向に止まる気配はなく、そのまま突っ込んでいく。あと一歩で海に落ちるというところで彼は思い切り踏み込み、高くジャンプした。
 バサ……!
 対の色の翼が大きく羽ばたいた。重く空気を切る音が響き、凄まじい風圧と共にクロリアの体が浮く。闇と光の羽を散らしながら、彼はテテロの元へと真っ直ぐに向かっていった。
「テテロ!」
 名を叫ぶと同時に、クロリアがテテロの体にしがみついた。衝撃でテテロを拘束していた綱と鎖は千切れ、クロリアが飛んできた勢いのまま、二人は海へと落下する。海水を叩きつける音と同時に、水飛沫が高く上がった。
 うっすらと開けた眼に、水面へと上っていく幾つもの羽根と泡、そして真紅の血液が映った。クロリアがもう一度テテロを腕に抱きなおす。まだ温かい。こんな状態にされても、彼は確かに生きている。ほんの少しの安堵感が目じりの熱となって現れた。
 しかしその刹那、クロリアは目を見開いた。四方八方から突き刺すような眼差しを感じたのだ。二人を取り囲むようにして見つめていたのは、群がったおびただしい数の海の主たちだった。海竜、海豚(イルカ)、海王(クジラ)の姿もある。その目という目は全て鋭く、揃ってクロリアを凝視している。彼らの思いを悟ったクロリアは、ふっと穏やかな笑顔を浮かべて心の中で言った。
「大丈夫。俺はテテロを助けにきただけです。彼を傷つけはしないし、あなたたちを攻撃するつもりもありません」
「――しかし貴様からは人間の臭いがする。貴様自身は人外の者のようだが、穢れた人間どもと交流していたことに変わりはない」
 どうやら念じた言葉は受け取って貰えたようだ。明らかな憎悪を滲ませるその返事に、クロリアは答える。
「どんな者にも生きるべき場所はあります。人々と関わりふれあうところ……例えそれがどんなに哀しく辛い世界でも、そこが俺の生きる場所なのです」
「ならば貴様も……!」
 今にも襲い掛かろうとする海の住人たちを、クロリアはキッとした眼差しで制した。
「落ち着いて下さい。これ以上誰かを傷つけることは無用です。流された血はテテロのものだけで充分だ……」
 哀しくも美しい響きを伴うその言葉に、周りの生き物は固まったように動かなくなってしまった。まだ閉じられているテテロの眼を見つめた後、クロリアは念話を使って言い放った。
「船の人々はあなたたちを狙っています。テテロを傷つければあなたたちがその臭いに気づいてここまで来ることを、彼らは予想していた。……まとめて攻撃を仕掛けるつもりなのです」
 海竜たちが一気にどよめいた。クロリアは構わず続ける。
「もう犠牲を出したくありません。今すぐ逃げて下さい。俺はその間、船の者が攻撃するのを食い止めます」
 クロリアの心の声には、聞き手を信じさせる強い力があった。警戒心の強い海の住人たちでさえ彼を疑わず、言われたとおりにその場を後にしていく。クロリアはそれを見届けると、すぐにテテロを抱えて上へと昇っていった。
 水面を破る音。クロリアは濡れた翼を力強く羽ばたかせて、空中へと舞い上がった。
 クルーたちは一斉に逃げ出した海竜たちを見つけて騒いでいた。が、クロリアが姿を現した途端、水を打ったように静まり返った。クロリアは何事もなかったかのように船の上へと戻り、テテロをそっと横たえさせる。そしてゆっくりと身を起こした、その時だった。
 背後から肩に手を回され、目の前を鋭く光る何かが横切った。刃物が首にあてがわれたのだということも、すぐ後ろにいるのが誰かということも、瞬間的に悟った。初めてこの船に降りたときもそうだった――と。
「言ったはずだ……。大人しくしていろって!」
 震える吐息がクロリアのうなじにかかった。
「……サンドラ」
「うるさい! 何でこんなことするんだ。殺したくないってあれほど言ったのに! 邪魔されたら、殺すしかなくなっちまうだろ!」
 サンドラは激情のままに叫んだ。胸が張り裂けそうだ。彼の命をこの手で絶たなければならないから。それがこの船に乗る者としての使命だから。それなのに、クロリアはあまりにも静かで落ち着いていた。まるで自分の命など問題ではないというように。
「何で海竜なんかのためにここまでするんだよ! あんな奴らのために命まで懸けて……どうして!」
 泣き出しそうなサンドラの声を背後に聞き、クロリアは一つ息を吐く。そして静かな、しかしよく通る澄んだ声で言った。
「――皆、同じ『いのち』なんだよ」
 サンドラの目が見開かれた。
 この世界にクロリアとサンドラ、二人しかいないような錯覚。クルーたちから飛んでくる「殺せ」コールも、サンドラの耳には届かない。今のクロリアの言葉だけが、彼女の頭の中で何度も鳴り響いていた。
「殺したければ、殺していいよ。もし本当に、それが正しいことだと信じているのなら」
 時間が、止まった。
 カラ……ン。
 長い長い沈黙の次に響いたのは、金属が床板にぶつかる儚い音だった。そしてそれに続くように、サンドラの体もすとんと落ちた。クロリアはゆっくりとサンドラに向き直り、膝をついて目線を合わせた。そしてそっと彼女の頭を胸に寄せる。
「俺は、殺しは間違ったことだって信じてる。だから海竜たちを逃がした。――サンドラ。もう、憎しみをぶつけ合うのはやめてくれないか……」
 胸が熱くなるのをサンドラは感じた。すぐ上から降ってくるクロリアの声は穏やかだった。彼のぬくもりが優しい。頭に添えられた手が温かい。彼の優しさが、痛い……。
 サンドラが愛しい人の名を呼ぼうとした、その刹那。
 暗い影が落ちた。二人が同時に顔を上げる。彼らの視線の先にあるものは、その姿を確認する間もなく、何かギラリと光るものを振りかぶった。クロリアが反射的にサンドラをかばい、ライトアローを前に構える。
 パキィィィン!
 鋭く澄み渡る音。想像を超える衝撃に耐えるクロリア。薄く開けた眼は剣を交えている相手を捕らえた瞬間、大きく見開かれた。信じられない、そんな――。
「テテロ!」
「え……!?」
 サンドラが問い返したのも無理はない。二人の目の前にいるのは、体のあちこちから角を生やし、羽根の一枚一枚が鋭い刃でできた翼を携え、鋼をも凌駕する固い鱗で全身を覆った、恐ろしい灰色の竜だった。しかしクロリアは確信していた。何にも例えがたい赤の瞳、額にくっきりと跡を残すくさび傷、そして体中から流れる真紅の血……。かけがえのない相棒、テテロがそこにいた。
「殺サセロ……。ソノ女ヲ殺サセロォォ!」
 普段の彼からは想像も出来ないような叫び声。クロリアは底知れぬ絶望感を覚えた。自分の仲間であるテテロが剣を振りかざしてきたことに。そして何より、テテロの全身から滲み出してくるような狂気に。
「ソイツハ何ノ関係モナイ俺タチヲ巻キ込ンダ。ソシテ俺ノ血ヲ使ッテ、他ノ竜タチマデ抹殺シヨウトシタ! 最低ノ卑怯者ダ! ソンナ奴ニハ生キテイル価値ハナイ!」
 彼の瞳孔の紅さは一層増し、極限まで腹を空かせた猛獣のようだった。腕から絡まった樹木のように気味悪く延びる刃は、クロリアのライトアローと重なってキシキシと嫌な音を立てた。どんどん強くなっていくテテロの腕の力に、クロリアは必死で抵抗した。
「モウ我慢ノ限界ダ! 俺ハソノ女ヲ殺ス。殺シテヤル!」
 今のテテロからは燃え上がるような怒り、悲しみ、そして憎しみしか感じられなかった。交錯した二枚の刃が、徐々にクロリアの方に押しやられていく。
「落ち着けテテロ! こんなことしたらお前の傷口が開……ッ」
「ウルサイ、邪魔ヲスルナ! ドケ、くろりあァァ!」
 クロリアの口から苦痛に満ちた叫び声があがった。テテロの刃が少しだけ傾き、クロリアの肩口に触れたのだ。鋭いそれはいとも簡単にクロリアの肌を破り、中に食い込んでいった。このままではサンドラにまで傷を負わせてしまう――焦りを覚えるクロリア。その時だ。
「竜を殺せ! 奴の動きを封じるんだ!」
 周りでその様子を見つめていた船員たちが、サンドラの命の危険を悟り、テテロに一斉に襲い掛かろうとした。テテロはギッと背後にいる彼らを睨みつけた。見られただけで体が石になりそうな、恐ろしい色を湛えた瞳で。瞬間、ライトアローに重ねられていた刃は離され、勢いよく後ろに振られた。テテロ越しに真っ赤な液体が飛び散るのを見た。クロリアの顔が引きつる。
「やめろぉぉー!」
 クロリアの叫びも、狂気に支配されたテテロには届かない。テテロは体の武器という武器を振り回し、人々を切りつけ、突き刺し、薙ぎ倒していく。クロリアはがばっと身を起こし、テテロの元へ走り寄った。
「よせテテロ! 殺しをした後に得られるものなんて何もない。こんなことしたって誰も救われない! お前だって辛い思いをするだけだ!」
 がむしゃらに振り回される尾や腕を押さえつけながら、クロリアは必死で言った。だがテテロは暴れるのをやめようとしない。彼の耳には自分の声など届いていないのか。ふとそんな不安が頭をよぎったが、彼は諦めなかった。体中に傷を受け、それでも必死で叫び続けるクロリア。
「家族や仲間を奪われたときの悲しみを、お前は覚えてるはずだ! こんなことをすれば、それと同じ悲しみを残してしまうことになるんだぞ! もうやめてく……あっ!」
 クロリアの体が投げ飛ばされ、船の縁に激突した。テテロの緒が腹に命中したのだ。相当なダメージだった。倒れたクロリアの意識は朦朧として、今にもどこかへ飛んでいってしまいそうだ。力なく伏せられた二枚の翼を染める血は、もう誰のものかすらわからない。
 テテロが顔をそちらに向けた。彼の真紅の瞳に、横たわったクロリアの姿が映る。その様子にテテロはただならぬ既視感を覚えた。負の感情に支配されていた彼の中で、そっとある日の記憶が取り出された。
 ――傷ついた自分。人間の子供。彼が、何かを自分に押し付けた。痛々しい叫び声。しかし自分の体から溢れる血は止まった。そっと少年を見上げる。少年は自分と同じように傷ついていた。ぱさり……と、風に吹かれた紙のようにその体が倒れた。残像を残すほどに、ゆっくりと。そのとき微かに見えた瞳の色は、透き通るような蒼……。
 テテロの眼が見開かれた。
「くろり、あ……」
 口のわずかな動きだけで紡がれたその名。甦ってきた記憶と目の前の光景が、ぴったりと重なった。
「くろりあ!」
 だっと駆け寄るテテロ。クロリアは虚ろな目で、身動きはせずにテテロのことを見上げた。霞む視界に映った無二の相棒は、もう憎悪にまみれてなどいなかった。姿もほとんど元に戻っている。言葉になど表せないような安心感がクロリアを包んだ。
「……テテロ」
「ゴメン。ゴメン、俺……!」
 ぽろぽろと大粒の涙を流しながら、テテロは何度も呟いた。失いたくないものをこの手で傷つけた。大切なものを失くしてしまうところだった。自分が感情に身を任せてしまったばかりに――。その罪悪感だけが今の彼の中にあった。
 クロリアはうつ伏せのまま、そっと左手を伸ばした。いつもは手袋に包まれているすらりとした手は、今やすっかりどす黒い紋章に覆われている。直視できないほどに痛々しい。その左手は、やがてテテロの頬に行き着いた。そのほんのりとした温かみにハッと目を開けるテテロ。そして見えた、クロリアの優しくて儚げな笑顔。
「泣くなよ。お前らしくないぜ」
 テテロの涙が際限なく零れ落ちる。それは刻印に蝕まれたクロリアの手の上にも注いだ。ぼろぼろの二人。テテロは泣くことしかできず、クロリアもテテロの頬をそっと撫でてやるばかり。でもこれで良いのだ。こうして絆を確認しあえただけで――。
 そんな二人の耳に、とどめを刺すような言葉が飛び込んできた。甲板にいた船長が虚空に向かって高らかに叫んだ。
「本部から連絡! 緊急事態発生につき、これより最終手段を実行する!」





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