第四話 痛み



 足音が嫌に大きく聞こえる。サンドラは一人、監獄へ続く廊下を進んでいた。胸のはちきれそうな想いが、そのまま顔に表れている。心なしか呼吸が浅い。
 彼女は歩きながら、右手に握り締めているものに視線を落とした。さっき仲間がくれた、紅い液体の入った小瓶。ちっぽけなこれが全てを変えてしまうのだ。今から自分がやろうとしていることを考えただけで、心臓を鎖で縛り付けられるような苦しさに陥ってしまう。刹那、サンドラは小瓶を投げ捨てたい衝動に駆られた。
 そうしているうちに、いつの間にか牢屋の前までやってきていた。鼓動が速まる。息が整わない。やるしかないとわかっていながら、やりたくないと心の中で叫んでいる。気持ちの矛盾を胸の中に押し込めながら、サンドラは思い切って扉を押し開けた。
 鉄格子の向こうに彼がいなければいいと思った。しかしいつもどおり、蒼髪の少年はそこにいた。壁にもたれながら窓の外を眺めている。肌に硝子越しの光を落とした横顔は端麗で、コバルトブルーの眼はまるで宝石のように煌いていた。
 昨晩来たときも同じように海を見つめていた。手足を拘束された彼には、それくらいしかすることがないのだろう。それともやはり旅人だから、空や風が恋しいのだろうか。サンドラは苦しい胸の中でそんなことを思った。
「外で何かあったのか?」
 目を外に向けたままクロリアは問いかけた。聞いただけでドキリとしてしまうような、魅力的な声。サンドラは何も言えなかった。激しい動悸からくる声の震えが隠せそうになかったのだ。
 サンドラは重い動作で、錠に鍵を差し込んで捻った。軋んだ音を立てて格子が開き、クロリアとサンドラの間を遮るものがなくなった。その間もクロリアは話を続ける。
「船の様子がいつもと違う。天気も波も穏やかだし、昨日みたいな奇襲が起こった気配もないのに、一体何が――」
 言葉が途切れた。目の前にサンドラが突っ立っていたのだ。ひどく辛そうな顔をしてクロリアを見つめている。クロリアは心配になって、静かにその名を呼んだ。
「サンドラ?」
「……無理だ……」
 微かな、本当に微かな声がサンドラの喉から絞り出された。目を逸らした彼女の肩は、がくがくと震えている。
 そしてその時、クロリアは口元に圧迫感を覚えた。後頭部に締め付けるような感覚が走る。顔の向きをずらすと、衣擦れの音が耳元で聞こえた。あっという間の出来事。サンドラがクロリアの口を塞いだのだ。何事かと思いクロリアが叫ぼうとすると、その声はくぐもりかき消された。布はかなりきつく縛られているらしく、言葉一つ紡ぐことができない。
 サンドラの動きは素早かった。クロリアが抵抗する暇も与えず、彼の両手に繋がる鎖を短くする。これで口元に手を持ってくることができなくなった。
 もがくクロリアをサンドラが制止する。
「静かにしてろ! 今あんたは死んだことになってるんだ!」
 クロリアは面食らった。今のはどういう意味なのか。クロリアは目の前のサンドラを見据えた。彼女はまともにクロリアの目を見ることすらできずにうつむいている。それからぽつりぽつりと語りだした。
「こんなことしたくない。でも仕方ないんだ。仲間から頼まれた。これからする任務のためには必要なことだって……」
 ポケットから一つの小瓶を取り出すサンドラ。ちゃぷん、と中の紅い水が揺れる。
「あんたの竜の動きを封じるときに使った猛毒だ。人間が吸い込んだら即死する。本当はこれを使って、あんたを殺そうと思ってたんだ」
 クロリアが喉の奥で息を呑む。
「仲間が言ってた。クロリアは奇術師だって。このまま放っておいたら何をされるかわからない。だから任務の前に始末しておけ――って。この任務は失敗が許されないっていうのはわかってる。だけどできなかったんだ、あんたを殺すなんて。だから皆に気づかれないようにおとなしくしててくれ。頼むよ。あんたに死んで欲しくないんだ……!」
 今にも泣きそうな顔をしているのに、涙を零すことは決してしないのが痛々しい。もう抵抗を示さなくなったクロリアの前で、サンドラは話を続ける。
「あんたが前から知りたがってたこと、教える。この船は海竜の群れを攻撃するための戦艦だ。もうすぐ奴らの群生域に着く。それで皆、慌しく準備してるんだ」
 クロリアは目を見張った。彼女は「竜狩り船」とは言わなかった。つまりこれは、ただ竜たちを殺戮するためだけの船だというのか? なぜそんなことをする必要がある?
「今、世界中で人間と竜族の摩擦が激しくなってるんだ。きっかけさえあればいつでも戦争ができるくらいピリピリした状態で、現にあちこちで犠牲者が出てる」
 人間側にも竜族側にも、互いの敵の殲滅をもくろむ過激派はいる。戦後しばらくはこういった者は少なかったが、時が経つにつれて増えていることは明らかで、クロリアもその事実は知っていた。いつまでも続くいがみ合いに、人々や竜たちのストレスが積もり積もっていることも。しかし現状がここまで緊迫しているとは思っていなかった。しばらく現実世界と隔離された日々を送っていたクロリアには、それを知る術がなかったのだ。
「そして十日前……シルヴィラスの町がやられた」
「!」
 クロリアの瞳孔が凝縮した。シルヴィラス。そこは海の見える、平和と共存の町。そしてかけがえのない友、レディスタのいる場所――。
「昨日のことみたいに覚えてる。町が丸ごと、たった一晩でなくなったんだ。あの綺麗で穏やかな町が。あたしとあたしの家族もそこに住んでた。すごく幸せだった。それが全部……全部壊れちまったんだ!」
 サンドラが床を思い切り殴った。
「父さんも母さんも死んだ。あたしだけ生き残った。たった一人で町の中を逃げ回った。怖かった。朝になって見てみたら、町には何もなかった。建物も人もみんな焼けて、死んだ親の前で子供は泣き叫んで……。誰がやったと思う? 誰がシルヴィラスをこんなにしちまったかわかるか?」
 サンドラはわなわなと震えながら言った。そして突然顔を上げて叫んだ。
「海竜だ! 奴らが町を襲ったんだ! 町には人だけじゃない、竜も幻獣もいた。それなのに奴らは無差別に町の住民を殺していったんだ!」
 息も荒く、サンドラは訴え続ける。
「前に、人間側の過激派がシルヴィラスに潜んでいるんじゃないかって、根も葉もない噂が流れた。竜どもはその過激派を排除しようとしたんだ。そんな奴が町にいるっていう証拠もないまま、攻撃を始めやがった。結局、過激派なんてシルヴィラスにはいなかった……。あたしは許さない。確証もないままに、無実の町を滅ぼした竜たちを! だから特別にこの船に乗せて貰ったんだ。敵を討つために。竜どもに思い知らせてやるために。そしてそれが今日なんだ。絶対に失敗できない。だから……!」
 床を睨みつけながら震えるサンドラを、クロリアは胸を引き裂かれるような思いで見つめていた。身に覚えがあったからだ。まだ幼い頃、蒼い笛を操りきれなかった自分自身が故郷を破壊した――。それと同じような惨劇が、シルヴィラスで繰り広げられたのだ。痛い沈黙が牢の中に立ち込めた。
 その時だ。
「ギャアアアアアアアアア!」
 二人は耳をつんざくような叫び声を聞いた。クロリアはハッとした。まさか。いや、間違いない。今の苦痛に満ちた声は――テテロのものだ。
 クロリアが突き刺すような瞳でサンドラを見た。彼に何をしたんだ。そう強く問いかけているのが伝わってくる。その眼光があまりにも鋭く、サンドラはびくんと肩を震わせて言葉を失った。そして喉の奥から絞り出すような声で言う。
「あの竜はおとりだ。仲間の血の臭いを嗅ぎつければ、海竜どもが集まってくるから……」
 きっとクロリアの見た事切れた竜は、本来おとりとして使うために連れてこられたのだろう。しかし何らかの原因でそれが死んでしまった。だから代わりとなる竜が必要だった――。これまでテテロを生かしておいた理由はそれだったのか。
 クロリアの目の前が真っ白になった。
 それからは夢中だった。何も考えられなくなった頭の中には、代わりに憎しみと哀しみが溢れかえった。自分が何をしているのかさえわからない。ただ全身が火のように熱い。体中の血が煮えたぎっている。抑えきれない感情が爆発した。
 気がついたとき、最初にみたのはサンドラの怯えきった顔だった。自分の手で――縛られて動かせないはずの手で口元の布を引き剥がしたとき、手首からドロリと何かが滴り落ちた。それは今までクロリアを拘束していた手枷の成れの果てだった。手袋は焼け落ち、未だ煙を上げている二つの紋章は腕にまで伸びている。
「あ……」
 声にならない声で呻くサンドラ。クロリアは真っ直ぐに彼女を見据えた。いつもの彼からは想像もできない、冷たい焔を映した瞳。美麗だと思っていた深い蒼色までが、今では恐ろしく思えた。
 クロリアはへたりこんだサンドラの元までつかつかと歩み寄った。そして乱暴に彼女の襟首を掴み立たせる。短い悲鳴をあげるサンドラ。
「はは……凄いな。潮風に乗ってここまで血の臭いが届くぜ」
 声が冷たい。
「テテロが何をしたっていうんだ? どうしてこんな目に遭わなきゃならないんだ? あいつは俺の足になってくれていただけなのに……」
 眼差しが痛い。
「敵討ちだと? 冗談じゃない。お前が今からしようとしてることは、ただの虐殺じゃないか。お前の町を襲った奴らと同じことを繰り返しているだけじゃないか!」
 サンドラはいよいよ悲鳴をあげた。首元が焼けるように熱い。いや、現に焼けているのだ。クロリアの左手が掴んだ襟元が、ちりちりと焼け崩れていく。そしてその叫びと共に手は放され、サンドラの体は力なく床に落ちた。恐怖に満ちた瞳でクロリアを見上げるサンドラ。違う。いつもの彼じゃない。
「クロリ……」
「どうして殺し合いをやめようとしないんだ。それだからいつまでも戦いが終わらないんじゃないか! なぜ皆、互いを傷つけようとするんだ!」
 クロリアは声の限りに叫んだ。体中から光とも焔ともつかない、恐ろしい力が燃え上がる。サンドラは恐ろしくなって、しっかりと目を瞑った。しかし次に聞こえたのは。
「ぐ、ぁ……うわああああ!」
 サンドラはハッとした。馬鹿な。クロリアが苦しんでいる?
 はじかれたように目を向けると、がくりと膝を折ったクロリアは、胸を手で押さえつけて必死に苦痛に耐えていた。肩で息をし、震える身を屈めている。あまりにも苦しそうなその様子を、サンドラは半ば呆然として見つめていた。そしてその瞬間、想像もしなかったことが起こった。
 バサァァ!
 視界を覆う黒と白。それは紛れもない、悶え苦しむクロリアの背から伸びた巨大な翼。サンドラは信じられない光景に我を忘れた。
 クロリアの手の平から腕へと広がった刺青が、どんどん深く色濃くなっていく。確実に彼の体を蝕んでいる。そして気づくと、何と彼の頬にまでじわじわと刻印が伸びていた。痛々しい紋章が彼を埋め尽くしていくに連れ、あえぎと叫びは徐々にひどくなっていく。耐え切れない痛みに支配されていくかのようだ。
 そしてサンドラは気づいてしまった。それが悪魔と天使の刻印であることに。世界中の生きとし生けるもの全てが知る、恐ろしい力を秘めた紋章であることに。
 ――まさか、彼があの……。
「クロリア!」
 思わずサンドラはクロリアにしがみついた。きつく抱きしめて、紋章がクロリアを侵食していくのを防ぎたかった。彼がクロリアでない何かに変わってしまうのを止めたかった。それが無意味なことだとはわかっている。だが今のサンドラにはそれくらいしか出来なかった。
「駄目だ! クロリア、『許されざる者』なんかになるんじゃない!」
 彼に届いているかもわからない。しかしサンドラは訴え続けた。
「行かないで。いつものあんたに、優しいあんたに戻ってくれよ!」
 ギシギシと、何かが軋むような音がした。サンドラが驚愕に目を見開いた。クロリアの手が、まるで鷹の足のような、鋭く不気味なものに変形していく――。
「クロリアぁぁぁ!」
 名を叫ばれ、クロリアはハッと息を吸い込んだ。不意にサンドラの腕の中で、彼の体の力が抜けた。そのとき初めて彼は、自分を包んでいる彼女の温もりに気がついた。震えがだんだんと小さくなり、荒かった呼吸も落ち着いていく。蒼の瞳が鋭さを失っていった。
「サン、ドラ……」
 霞んで消えてしまいそうな声で、クロリアが呟いた。サンドラがそっと腕を放して彼を見る。姿かたちは、未だ怪物になりかけている状態だった。しかし今の彼には、もうあの恐ろしいまでの憎悪はなかった。胸のつかえがすっと取れたサンドラは、思わず瞳を潤ませた。
 そんな彼女を、クロリアは悲しみと驚きの入り混じった表情で見つめていた。重々しい表情で呟く。
「どうして逃げなかったんだ。お前まで巻き込んだかもしれないのに……」
 改めて自分の負う力の凄まじさと、制御が利かなくなることの恐ろしさを目の当たりにしたクロリア。自分は今、完全にそれに支配されそうになっていた。湧き上がる負の感情は、血の力を増幅させるのだ。それなのにサンドラは、その狂気を止めようとした。目の前に『許されざる者』がいると聞いただけでも、普通の人間は逃げ出していくのに――。
 するとサンドラは、少し切なさを帯びた微笑を浮かべてこう言うのだ。
「元のクロリアのままでいて欲しかった……それだけさ」
 牢に静けさが立ち込める。小窓から差す光が、痛々しい鉄の臭いを伴って二人に落ちる。
しばらくして、いつかのように轟音と共に船体が大きく揺れた。衝撃に息を詰める二人。外で破壊音と雄叫びが混ざり合って轟いているのが聞こえる。その時、サンドラが憎しみを露わにして低く呟いた。
「奴らだ……!」
 遂に時が来たのだ。
 彼女の言葉を合図に、意を決したように身を起こすクロリア。そして牢を脱兎のごとく飛び出した。激しい揺れをものともせずに、船の上へと駆け上がっていく。
「クロリア! どこへ行く気だ!」
 仰天するサンドラ。彼女の引き止める必死な声も、今のクロリアには届かない。彼の瞳は、何色に染まっているかもわからない未来だけを見据えていた。





back main next
Copyright(C) Manaka Yue All rights reserved.

inserted by FC2 system