第三話 彼女の想い



 早朝の事件から大分経ち、船も落ち着きを取り戻していた。船内の一室、薄暗い牢獄で、肩越しに窓の向こうの景色を見やりながら、クロリアは何をするでもなく物思いに耽っていた。サンドラはあれから回復しただろうか。昨日から会っていないテテロの身も案じられる。それに自分は、いつまでこうしているのだろうか。
 それにしても今朝の奇襲は――身震いするほどの海豚(イルカ)たちの憎悪は、一体何だったのだろう。普段は穏和な彼らがあれほどまでに怒る理由が見つからない。それに「安寧が破られる」「血が流される」……あの言葉の意味は何なのだろう。クロリアの胸には妙な引っかかりが残っていた。
 空がだんだんと赤みを増してきた。日が水平線にその身を隠していく。また一日が終わろうとしているのだ。その端正な顔の半分を夕日に染めながら、クロリアは小さく溜息をついた。
 その時、牢の扉が軋んだ音を立てた。椅子に腰を下ろしていたクロリアがその方を見上げると、扉の傍に一人の人間が佇んでいる。
「サンドラ」
 突然の登場にいささか驚きながら、クロリアはその名を口にした。サンドラは真剣な面持ちで鉄格子の向こうにいる旅人を見つめた。しかしクロリアと目が合ったかと思うとすぐに視線を逸らし、つかつかと牢の傍まで歩み寄る。そして彼女が次にした行動に、クロリアは目を見張った。
 カシャ……ン。
 サンドラが錠を外したのだ。
「どうして……」
 クロリアの問いには答えずに、サンドラは無言のまま鉄格子を開けて中へと入ってきた。そしてごく自然な動作で、クロリアの両手首、両足首の枷を外す。クロリアの身が自由になると、サンドラはやっと話した。
「命の恩人をこんな目に遭わせておくなんて、やっぱり嫌だからさ」
 サンドラは言いながら笑顔を浮かべた。きっと意識を取り戻してから、誰かに事情を聞いたのだろう。クロリアはその時初めて、険しい顔つきでない彼女を見た。温かな安心感が心を包むのがわかった。
「今夜はあたしが見張り役なんだ。デッキには他に誰もいないから、今だけ外に出してやる」
「いいのか?」
「ああ。だから絶対に他には言うなよ」
 そう言って笑うサンドラは、普段と違ってとても女の子らしかった。
 二人は他の人間に気づかれないよう、こっそりと船室を後にした。いつの間にか夕日はすっかり沈んで、空には星が瞬き始めている。クロリアとサンドラは舳先の方まで歩いていき、静かな夜景を眺めた。
「綺麗だ。こんなに広い夜空は久しぶりに見たよ」
 クロリアはゆっくりと深呼吸して、見渡す限りの星空を見渡しながら呟く。それからサンドラの方を向き直り、不敵な笑みを浮かべて言った。
「だけどいくら俺がサンドラを助けたからって、こんなふうに自由の身にしていいのか? 今ここでサンドラを人質に取ってテテロを開放させて、船から逃げ出すことだってできるんだぜ」
 サンドラの表情が少しだけ強張ったが、クロリアはふふっと笑って「そんな無茶する気なんてないけど」とつけ加えた。
「あぁ、そうだ。テテロ元気にしてるか? 昨日から全然顔合わせてないからさ、少し気になって」
 何気ない質問だったが、それが耳に届いた途端サンドラの肩が少し震えた。彼女は目を伏せてぼそりと呟く。
「好きなんだな、あの竜のこと」
「唯一の旅仲間だからね。ずっと前からあいつは俺の足になってくれてる」
 そして次に発せられたサンドラの一言を、クロリアは聞き逃さなかった。
「竜なんて……!」
「え?」
 低く小さな声。しかし確かにクロリアは聞いた。すかさず問い返すと、サンドラは視線を海の方に投げてぶっきらぼうに答える。
「何でもない」
 その話題はそこで断たれてしまった。クロリアは小さく息をつき、少し間を置いて話し出した。
「サンドラはどうしてこの船に乗ってるんだ?」
 相変わらずの唐突な物言いに、サンドラはわずかに戸惑う。静かな波音に耳を傾けて少しの間黙っていた。それからふっと顔を上げ、夜空の細かな光を瞳の上に映しながら答えた。
「死んだ家族と、自分のためだよ」
 クロリアが何も言わずにいると、サンドラはゆっくりと語った。
「父さんも母さんも、あたしの目の前で死んだんだ。だからその敵討ちをするために、こうして船の乗組員になった」
「それがわからないんだ。この船は何をしようとして……」
「聞くなと言ったはずだ。知らないほうがいい」
 サンドラに無理やり遮られて、クロリアは続きの言葉を呑み込んでしまった。それからこの話に進展はなく、再び世界を沈黙が支配した。潮の音が夜風に乗って通り抜ける。二人は微かな風を頬に感じながら、静かに星空を眺め続けた。



 クロリアとテテロが船に乗ってから、早三日目となった。船はいつもどおり順調な航海を行っている。今は朝の仕事も一段落し、サンドラは自室でゆっくりと体を休めていた。
 彼女の頭の中は、あの旅の少年・クロリアのことでいっぱいだった。
 彼は海豚(イルカ)に殺されそうになった自分を助けてくれた。二日前に出会ったばかりの間柄だというのに、昨夜のこともあってか彼には随分心を許している。優しい雰囲気をいつも身にまとっていて、自然と打ち解けてしまうようだ。あの蒼い瞳に湛えられた温かな光も、見る者全てを安心させてしまう笑顔も、鮮明に思い出せる……。
 そこまで考えてサンドラの顔がかっと熱くなった。思わずバチバチと頬を両手で叩く。
 何でこんなに彼のことが気になるんだろう。自分には別の、もっと重要な目的がある。こんなことで気を乱してはならないのに――。
「サンドラ?」
 突然の声。心臓が飛び出したかと思った。サンドラは大げさに見えるくらいの勢いで、がばっと身を起こした。驚きに見開いた目を部屋の戸に向ける。
「あ……何だ、あんたか」
 拍子抜けしてしまった。そこに立っていたのは仲間の船員。クロリアではなかった。
「何だって何だよ。失礼だな、おい」
 クルーの男は、少し拗ねたような口調で言った。サンドラが苦笑して謝る。船員は彼女への返事もそこそこに、さっと部屋の戸を閉め、声のトーンを低くして言った。
「サンドラ、吉報だ。今日の昼過ぎに目的地に到着する」
 サンドラの眼が真剣なものに切り替わった。
「そうか。じゃあそろそろ準備に取り掛からないと……」
「待て。まだ先がある」
 すぐさま部屋を出て行こうとするサンドラを、男は手を挙げて制した。
「船長がお前に指令を与えたんだ」
 男は人差し指を上に向けて、耳を貸すように仕草で伝える。サンドラが顔を近づけると、男は小さく耳打ちした。しばらくして彼女は目を見開いた。はじかれたように後ずさり、思わずその名を口にする。
「嫌だ! だってあいつは、クロリアはあたしの命の恩人なんだぞ! そんなこと……」
 作戦自体に異議はない。今すぐにでも実行したい気持ちだ。この日をどれだけ待ち望んでいたか。今は亡き父と母の無念を晴らす日を。
 ――だが、なぜそのような形でクロリアが巻き込まれなければならない? 彼は無関係だ。私たちに危害を加えた訳でも、敵の片棒を担いだ訳でもない。それどころか死にかけた自分を助けてくれた上、その後も穏やかに接してくれたのだ。あんなに心優しい人間を、なぜそんな目に遭わせなければならない?
 クルーの男は慌ててサンドラの口を塞いだ。一層低い声で彼女に言い聞かせる。
「今言ったとおりだよ。奴がいると危険なんだ。お前は知らないだろうが、サンドラ、俺たちは見た。あの男は奇術師だ。水を操ったり宙に浮いたり……野放しにしておいたらどんな邪魔されるかわかったもんじゃない」
 船員の言葉にサンドラは息を呑んだ。彼は軍服のポケットから何か小さなものを取り出し、サンドラに握らせる。
「これを使って、目的地に着く前に任務をこなしてくれ。頼んだぞ」
 サンドラが異論を唱える間もなく、男は部屋を出て行ってしまった。部屋にぽつんと取り残されたサンドラは、放心したまま閉まった扉を見つめていた。





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