第二話 予兆



「ココハドコダ! オイ、誰モイナイノカ!? ココカラ出セッ!」
 鎖の擦れる音とテテロの叫び声だけが、暗い空間に木霊する。
 一体何があったのか。ここはどこなのか。クロリアはどうなったのか。何も分からないまま、テテロはこうして暗い牢に一人閉じ込められている。鎖の束縛から逃れようとしても、じゃらじゃらと重い金属音が鳴り響くだけだ。
 普段ならこんな鎖、腕を刃物にでも変えれば簡単に断ち切れる。しかしなぜだろうか、今の彼にはそれができなかった。いくら意識を集中しても、肉体が変化する気配すらない。まるで、今まで当たり前のようにしてきた変身の仕方をさっぱり忘れてしまったかのように。それが一層テテロの不安ともどかしさを煽っていた。
 と、彼の動きがぴたりと止まった。部屋の扉が開いたのだ。現れたのは軍服をまとった見知らぬ二人の男だった。テテロがすかさず訴える。
「ヨクモコンナコトシテクレタナ! 今スグココカラ出セ!」
「まったく威勢がいいねぇ。あれだけ強力な毒薬を吸ってるのによ」
「毒薬……?」
 笑いながら言う男に、テテロは問い返した。
「お前の動きを封じるためにな。人間だったら即死するような凄い薬さ。人より抵抗力のある竜だって、普通は体の自由が利かなくなって仮死状態に陥るんだ。なのにお前は随分と元気そうだな」
「まぁ、その元気が空回りしてるだけだがな。あははは」
「ウルサイ! 変身能力サエ使エレバ、コンナ鎖簡単ニ……!」
 悔しそうに歯噛みしながら、テテロは鎖をできる限り引っ張って男たちを睨みつける。すると二人は怖がるどころか興味深そうな笑顔を浮かべた。
「へぇ、お前未知能力竜(アンノウンドラゴン)だったのか!」
「あの薬に未知能力を抑える力もあったなんてなぁ。初めて知ったぜ」
「黙レッ! サッサトコノ手錠ヲ外セ!」
 テテロは怒りに任せてクルーたちに噛み付こうとするが、両の手首が拘束されていてはどうしようもなかった。その様子を彼らは楽しそうに眺めている。その余裕の笑みがテテロは堪らなく悔しかった。
「まあまあそう焦るなよ。もう何日か待ちな。そうすりゃあんたのお仲間さんらに会わせてやるさ」
 二人は笑いながら部屋を後にした。テテロが何とか引きとめようとしたが、その声が彼らに届くことはなかった。バタンと虚しく扉が閉まる。その時テテロは、ふと今の言葉を反復して思った。
「『仲間タチニ会ワセル』――。一体ドウイウ……?」



 朝霧の立ち込める海。静かな海面を、一隻の帆船がゆったりと滑るように進んでいる。デッキに人の気配はない。ただ一人、帆柱に据えつけられた見張り台に男がいたが、どうやら居眠りをしてしまっているようだ。動くもの一つないその船は、昼間の活気が嘘のようにしんと静まり返っている。濃い霧が全ての音を吸い込んでいるかのようだった。
 ――コツ、コツ、コツ。
 甲板に誰かが現れた。サンドラだ。他に何の音もないその世界で、彼女の靴音だけが辺りを満たしている。サンドラは肩に上着を羽織っていた。ちょうど今目覚めたところなのだ。長いこと毛布にうずめていた顔に、朝の空気が冷たかった。なぜこんなに早く目が覚めてしまったのかは彼女自身にも分からない。しかし特にすることもないので、こうして心の赴くままに外へ出てきたのだった。
 彼女は規則正しく靴音を残しながら、船の舳先の方までやってきた。それとなく周りを見回す。見えるのはただ深い深い白の世界だけだ。孤独感すら覚えさせる風景だったが、それもまたいい。普段は味わえない静けさを、サンドラは心ゆくまで堪能した。
 と、その時。
 ドォン……ッ!
 船体が大きく揺れた。勢いのままサンドラは後方へ投げ飛ばされる。慌てて手近なロープや金具にしがみつき、体を支えた。船内からもざわめきが聞こえてくる。どうやら今の衝撃で船じゅうのクルーが起きたらしい。
「!」
 サンドラが息を呑んだ。船の縁から身を乗り出す。
 彼女が見下ろすその先には、暗い海を突き抜けていく何十もの黒い影。凄まじいスピードでこちらへ突進してくる。それらが船底に激突する度、サンドラの体に猛烈な衝撃が走る。
 突然黒い影の一つが大きく跳ね上がった。サンドラが反射的に飛び退く。それはつい先程まで彼女のいた場所にベシャッと着地した。そこで初めて彼女はそれが何なのかを知った。
「海豚(イルカ)……!」
 頭は獅子、体は巨大な魚、体重体長共に人間の数倍はあるこの奇妙な生き物は、海豚(イルカ)と呼ばれている種族だ。海王(クジラ)同様、海洋の主として知られている誇り高い生物である。彼らは安穏を尊び、争いを好まない。しかしこの海豚(イルカ)は違った。目を獰猛にぎらつかせ、牙を剥き出し、怒りを露わにしている。グルル……と恐怖をそそる低い唸り声が歯の間から漏れていた。
 サンドラは身の危険を察知し、腿のベルトに差していたダガーを引き抜いた。だが途端、彼女の顔が引きつった。海豚(イルカ)は刃など眼中にないというふうに突進してきたのだ。あまりに突然すぎて避けきれず、思い切り海豚(イルカ)の頭突きを受けてしまったサンドラ。息を詰めた悲鳴が彼女の口からこぼれ落ちる。そしてそのまま海豚(イルカ)とサンドラは海に放り出された。
 水に体を打ちつけた所為で、サンドラは口から肺の空気を吐き出した。霞む視界の中に紅い筋が映る。それが自身の血だと気づくのに時間がかかった。海豚(イルカ)が体当たりしてきた時、どこかに怪我を負ったのだろう。彼女の体は急速に自由が利かなくなり、やがて意識も彼方に追いやられた。極限状況の中、サンドラは心の中で叫んだ。
 ――まだだ。まだ死ねない。死にたくない。タスケテ……。



 突如襲った衝撃と共に、牢獄のクロリアは目覚めた。一度傾いだ船体はなかなか元の状態に戻らず、いまだ激しく波に揺さぶられている。クロリアは不安定な体を懸命に支えながら立ち上がり、壁の丸窓を背中越しに見やった。四肢を拘束されているため、体の向きを反転させることができないのだ。その蒼の瞳に外の光景を映し、クロリアはハッと息を呑んだ。
 おびただしい数の海豚(イルカ)が船の周りを取り囲み、体当たりを繰り返している。その衝突の激しさから、船を壊そうとしているのは明らかだ。そして波打つ海の中に誰かが放り込まれたのもクロリアは見た。思わずその名が口をつく。
「サンドラ!」
 一頭の海豚(イルカ)と共に転落したのは、紛れもない、船員の少女サンドラだった。
 瞬間、クロリアは手枷と足枷を解こうとしていた。彼女を助けなければという思いがクロリアを支配したのである。サンドラは彼をこんな目に遭わせた張本人だが、今のクロリアにそんなことは関係なかった。目の前で命が散る虚しさと哀しさを、彼は幾度となく経験してきた。二度とあのような悔しい思いはしたくなかったのだ。
 だが力任せにもがくだけでは、鎖の束縛からは到底逃れられなかった。かと言ってライトアローを召還するのもこの状態では危険だ。やはりあの方法しかないのか。クロリアは舌打ちした。目をしっかりと閉じて念じる。彼の周りの空気が一変した。ただならぬその気配が、一気に四肢の枷へと凝縮する。
 パキィィィン……!
 固く高い破壊音を残して、金属片が儚く床に散らばった。体の自由を取り戻したクロリアは、すぐさま体勢を立て直して壁と向き合った。左手をスッと前に差し出し、精神をそこに集中させる。
 ズガァン!
 身震いするほどの凄まじい破壊音が轟いた。もうもうと煙や埃が立ち上り、壁の残骸がバラバラと砕け落ちていく。牢の壁にはぽっかりと巨大な穴が空き、その向こうにある海と空が視界いっぱいに広がった。クロリアの左手には、どす黒い光とも煙ともつかない邪悪なものがまとわりついていた。
 ――そう。今クロリアが使った力こそ、彼の中に流れる悪魔の血から生じるものだった。破壊と死を司る悪魔。その力を持ってすれば、一瞬でここまでの破壊力を生み出すことができる。しかしこの強大な魔力はクロリア自身にすら制御できなくなることがある上、一旦使い方を間違えれば恐ろしい事態を招くことになる。それでなくても彼の血は、いつ騒ぎ出すかもわからない不安定な状態である。故にクロリアはなるべくこの力を使うことを避けたかったのだ。しかし今は手段を選んでいる時ではなかった。
 クロリアは助走をつけ、一気に海の中へ飛び込んだ。
 ザボン!
 水が大きく跳ねる音。クロリアの体を細かな泡が包む。やがて切れ切れになった泡の向こうに、力なく漂うサンドラの姿が見えた。海豚(イルカ)の牙が当たったのだろうか、どこからか流れる彼女の血が周りの海水を染めていた。クロリアはすぐさま彼女の元まで泳ぎ、しっかりとその体を抱いた。
 するとどこからともなく、黒い影がクロリアの周りを覆った。海豚(イルカ)の群れがやってきたのだ。波間から注ぐ光を反射させた何十もの牙が、瞳が、爪が、二人の方を向いている。そして重い水音の中に、低い囁きをクロリアは確かに聞いた。
「その娘をよこせ……」
「世界の安寧が破られる……」
「血が流される。再び、罪なき命が……」
「感じる……潮の流れに、恐ろしいものを感じる……」
「人間が……戦争が……」
「ならば、我等もまた殺す……!」
 突然一頭の海豚(イルカ)が襲ってきた。凄まじいスピードだ。コートの裾が食い破られた。そしてもう一頭。顔に熱い感覚が走る。クロリアの頬に血が迸った。水中ではうまく身動きの取れないクロリアにとって、この状況は不利極まりなかった。それでも容赦なく海豚(イルカ)たちは襲ってくる。
 ――出でよ!
 クロリアはライトアローを抜き、刃を召還した。金属同士が噛み合う音。海豚(イルカ)の牙が、アローの刃にはじかれて崩れた。その間も海豚(イルカ)の心の声は段々と大きく激しくなって、クロリアの胸へ突き刺さる。
「殺させろ!」
「その小娘を、人間を……!」
 クロリアは心の中で叫び返した。
「あなたたちとは戦いたくない! もうやめるんだ!」
 必死だった。血を流したくない。命を奪いたくない。気高い海の主が狂っていく様を、もうこれ以上見たくない。クロリアは泳いだ。サンドラを抱く腕に力がこもった。やりきれない思いを振り切るように、ただただ上に、上に……。
 ザン!
 水を突き破り、深く息を吸った。ざらついた肺の中に冷たい空気が流れ込む。
 だがあがった息を休める間もなく、海豚(イルカ)の群れが海上へ姿を現した。あっという間に周りを囲まれるクロリア。間髪入れず、一斉に海豚(イルカ)たちが襲いかかってきた。さすがにライトアローだけでは、これだけの数を一度に相手にすることは無理だ。やむをえない――クロリアはそう判断し、またしても念じた。今度は右腕を勢いよく空に掲げる。
 ドドドドッ!
 クロリアの腕の動きに導かれるように、彼の周囲の海水が天に向かって伸びた。信じられない光景にひるむ海豚(イルカ)たち。そんな彼らの上に、高く立ち上った水の柱が一気に叩きつけられた。凄まじい水飛沫と波が巻き起こる。
 クロリアが使った二つ目の能力――それは言うまでもない、天使の血が放つ力だった。再興と生という、悪魔とは正反対の属性を持つ天使。クロリアはその力を利用して、周りの海水に一時的な命を吹き込んだのである。一見素晴らしい力のようにも思えるが、これとて安易には使えない能力だ。少し間違えば万物の命をもてあそぶことになる、ある意味悪魔のそれよりも扱いが厄介な力である。
 激流に呑まれながら海豚(イルカ)たちは散り散りになって逃げていった。巻き上がるような波も段々と落ち着きを取り戻していく。海はまた元通り静かになった。
 その様子を見届けてからクロリアは船に向き直った。ゆっくり瞼を閉じて念じると、彼の体がふわりと軽く浮く。サンドラを前に抱えた状態で、クロリアは船の甲板へと着地した。
 そんな彼を、騒ぎを聞きつけてデッキまで出てきたクルーたちが唖然として見つめている。クロリアが床板に降りるトンという靴の音を聞きつけ、彼らは我に返った。一人の男がクロリアの腕の中でぐったりとしているサンドラに近寄り、堰を切ったように尋ねる。
「サンドラは……彼女は無事なのか!?」
「気を失っているだけだ。安静にしてれば心配ないよ」
 その言葉を聞いてほっと胸を撫で下ろすクルーたち。それから複雑な面持ちでこう呟いた。
「あんたがサンドラを助けてくれたことは感謝する。――だが自由の身にすることはできない。我々にも都合があってな……。悪いがまた牢に入ってもらおう」
 クロリアは何も言わず、二人の男に連れられて再び船内へと戻っていった。しかし牢に到着した途端、男たちは口をあんぐり開けて動かなくなってしまった。それもそのはずだ。牢の壁には大きな風穴が開いていたのだから。
「な……何だこれは!?」
 思わず男が叫ぶ。するとクロリアは何でもないようにさらりと言った。
「サンドラを助けに行くのに、鎖を解いて甲板まで出る暇なんてなかったから、ちょっとね」
「ちょっと……ってお前! どうしてくれるんだ!」
 顔を真っ赤にして怒鳴る船員に、クロリアは笑顔で答える。
「問題ないさ。直せばいいんだろ」
 怪訝そうな顔をする二人にはお構いなしに、クロリアは穴まで歩み寄った。丸く切り取られた海に向かって、天使の紋章の刻まれた右手を差し出す。するとその手からぱあっと淡い光が飛び散った。そしてそれが穴を覆うと共に、壁は元通り修復されていた。丁寧なことに四肢を拘束する鎖までちゃんとついている。
 その様子を船員二人はぽかんとして眺めていた。無理もない。クロリアが彼らの目の前で見せた戦闘や技術は、明らかに常人の能力を超えている。
「……あんたは」
 船員の一人が漏らした声を聞きつけて、クロリアはそっと振り向いた。その純粋すぎる蒼の瞳に見つめられた船員はゴクリと喉を鳴らし、緊張した面持ちで続ける。
「あんたはまさか、魔術師なのか……?」
 クロリアは一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、ふっと綺麗に笑って言った。
「まあ、そんなところかな」
 まさかここで正直に『許されざる者』だなどとは言えない。そう思い、想像の余地を残した返事をクロリアは返した。
 囚われの身とは思えないような態度と冷静さに、クルーたちはただただ呆気にとられるばかりだった。ここまであっさりと脱獄し、そして抵抗もせずにまた戻ってくる。憎悪を自分たちに向けることも、悲嘆にくれることもしない。こんな不可思議な奴を自分たちの管理下に置くなど、不可能なことなのではないか――船員たちは思った。





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