薙いでゆけ
混沌の海原と蒼穹を――







第一話 囚われの旅人



「ウゥ、疲レタァ……気持チ悪イ〜」
 力なく翼を羽ばたかせながら、テテロは言った。
 ここはアルビオンを少し外れた海上だ。先日ランテオ島を離れたクロリアたちは、雨をやり過ごすために、たまたま見つけた洞窟の中へ潜り込んだ。そこでもまた二人は夢の中での冒険を繰り広げたのだが、彼らは多大な代償と引き換えに、この現実世界へと還ってきたのだった。
 当然彼らはその洞窟が大陸の一端にあると信じていた。荒海の上で豪雨に叩かれながらも、コンパスを何度も見て、確実に大陸に向かって飛行していることを確かめていたのだから。
 しかし現実は残酷だった。コンパスは壊れていたのだ。ランテオ島に向かう間、クロリアは一度波に呑まれた。おそらくその時に狂ってしまったのだろう。洞窟はランテオの近くに位置する小島の一角にあった。大陸はもっとずっと先、しかも進むべき方角は全くの逆方向。二人がそれに気づいたのは、洞窟を離れてから半日も飛びっぱなした頃だった。
「くろりあ……。死ヌゥ〜……」
 テテロがもう一度怠そうに訴えた。ここ数日無理な飛行ばかりしたので、さすがのテテロも体力の限界に近づいているようだ。
「あと少し頑張ってくれ、テテロ。こんなとこで死なれたら俺だって困る」
「少シハ俺ノ心配モシロヨ……。良イヨナくろりあハ。苦労シナクテモ移動デキルンダカラ」
「あれ、初めて会ったとき『俺の足になってやる』ってはりきってたのはどこの誰だっけ?」
「フン、ソンナノズーット前ノ話ジャンカ!」
「まったく、お前って本当に都合のいい奴だな」
「何ダトォ!? コノヤロッ、落トシテヤル!」
「はいはい。そんな余力があったら少しでも早く陸に着くことを考えな……って、ん?」
 クロリアが短く声を上げた。何かと思いテテロが顔を持ち上げると、左前方の海に一隻の帆船が見えた。一面の蒼がそこだけ切り取られたような風景だった。
「何だろう? 漁船じゃないようだけど……」
 風を受けて曲線を描く白帆は、鮮やかな海の色にくっきりと浮かび上がっている。木と鉄とで形作られた船体は重厚感に溢れ、ゆったりと海面を滑っていた。
 この辺りで船を見かけたのはこれが初めてだった。すぐ近くに世界一の暴れ海・アルビオンがあることを承知で、ここまでやってくる船乗りはそうそういない。となると、あの船も進路を誤ったということだろうか。
 その時、二人は同時に息を呑んだ。見つけたのだ、船に幾つもの砲台が据えられているのを。全ての砲口は真っ直ぐ二人を向いている。逃げる間もなく、甲板の大砲の一つが火を噴いた。
 ドオォン!
 巨大な砲弾が二人目がけて放たれる。危うく直撃しそうになるテテロ。さっと旋回し、辛うじて羽の先端を掠る程度で済んだが、彼の息はすっかり上がっていた。
「ナナナナナ何ダヨ、イキナリッ!」
 それだけでは終わらなかった。立て続けに砲丸は襲ってきた。テテロは突然のことに戸惑って、危なっかしくそれらを避けていく。クロリアは振り落とされないようにしっかり体を支えながら、ベルトのポーチをはじき開けた。
 ヴォウン……!
 召還されたライトアローの二枚刃。クロリアの思いのままに光の弦と矢が現れる。それを力の限り引き、瞬間的に狙いを定め、放つ。手が放れたその刹那、船の砲台の一つが木っ端微塵になった。続けてもう一矢と、クロリアがギリッと弦を引いたときだった。
 ドガッ!
 耐え難い衝撃。天地が逆転する感覚。テテロの腹部に砲弾が命中したのだ。咄嗟に彼はその体を硬化させ、負傷することは免れたが、大きく傾いた体勢を元に戻す余裕はなかった。二人は完全にバランスを崩し、船に向かって落下していく。
 ドサッという音が二つ聞こえた。幸い大きく膨らんだ船の帆がクッションとなり、二人が転落死することはなかった。痛みに呻きながら打ちつけたところをさすっていたクロリアとテテロは、近づいてくる人の気配を感じ、はじかれたように顔を上げる。
「こっちだ!」
「捕らえろー!」
 口々に叫びながら、船の乗組員らが一斉に迫ってきた。甲板から、出入り口から、床の隠し扉から……まるで湧いてくるような勢いで、彼らはクロリアとテテロに向かって押し寄せてくる。二人は何とか抵抗しようと試みたが多勢に無勢だった。テテロは棍棒で力任せの当て身を食らわされ、息を詰めた。その一瞬の隙をついて船員たちに取り押さえられ、布で口を塞がれる。しばらくしてテテロの体から力が抜けた。ばさりと音を立てて倒れ込む。
「テテロ!」
 クロリアがテテロの元へ走り寄ろうとした。しかしクロリアの左肩は何者かによって押さえつけられ、同時に首筋に冷たいものが当てられた。身の危険を察知したクロリアが踏みとどまるのと、小さくも鋭い囁きが背後から聞こえたのは同時だった。
「動くな」
 二人が抵抗の意を見せなくなると、リーダーが下級船員たちに向かって、クロリアとテテロを牢に監禁するよう命じた。彼の言葉を合図に、乗組員たちが一斉に動き出す。クロリアはうなじに小刀を突きつけられたまま、手足を鎖で括られたテテロは数人の男に担がれて、共に船内へと入っていった。途中、クロリアとテテロは分かれた。
 クロリアが連れてこられたのは、重苦しい空気の立ち込める牢獄だった。さほど汚れてはいないが、場所が場所なだけあってかなりの陰気さである。何重にも巻かれた鎖。冷たく底光りする鉄格子。部屋の隅には木箱が雑然と積み上げられている。壁には小さな丸窓が各牢に一つずつあった。薄暗い空間を照らし出すその光すら、この部屋では不気味に映る。
 クロリアを背後から誘導してきた船員は、彼が逃げ出さないよう警戒しながら、入り口の横に掛かっていたずしりと重そうな鍵の束を取った。それからすぐ近くの牢の鍵穴に、錆びかけた一本の鍵を差し込む。がちゃんと重い金属音を響かせ、錠は落ちた。軋んだ音を立てて入り口が開く。
「入れ」
 開け放たれた鉄格子の前で、船員がクロリアの方を振り向く。クロリアはその時、初めてその者の顔を見た。
 少女だった。大人とも子供とも言えない、ちょうどクロリアと同い年くらいの女の子だ。濃い赤茶の髪は短く切られ、髪と同じ色の瞳は鋭い眼光を放っている。彼女が身にまとう雰囲気とその言葉遣いから、一見すると少年にも思える。しかしなぜ男ばかりの船の中に彼女だけ……。
 少女はクロリアを牢の中に導いた。壁には四本の鎖が垂れ下がり、それぞれの先には手枷と足枷がついていた。少女は慣れた手つきでそれらをクロリアの四肢に取り付ける。何の温かみも持たない金属の感触が、彼の手首と足首に張り付いた。
「……不気味な奴だな」
 作業をしながら不意に少女が呟いた。
「身を拘束されてるってのにお前は抵抗ひとつしない。命の危険を知っても焦りすら見せない」
 彼女の言葉を聞いてクロリアは小さく微笑んだ。
「さっきの君のダガー裁きで、かなりの腕前だってことはわかった。迂闊に抵抗なんかできないさ。それに今は逃げる手立てもない。大人しくするつもりだよ。手段が見つかるまではな」
 少女はクロリアの台詞に正直感心した。こんな危機的状況で、彼は冷静な判断をしている。怖がることも諦めることもせず、心の中で静かに打開策を探している。抗わないが決して屈しない。侮れない奴だ、と少女は直感的に思った。
「……俺の名はクロリア。聞いてもいいかな、君の名前」
 突然の物言いに少女は驚いた。伏せていた顔が無意識のうちに上がる。
 と、突如視界いっぱいにクロリアの顔が映った。透き通るような蒼髪、滑らかな肌、整った顔立ち、深く純粋な蒼の瞳……。そんな彼と至近距離で見つめ合ってしまったことへの恥じらいが、少女の頬を熱くした。
「そ……そんな目で見るんじゃねぇよ! サンドラだ!」
 照れ隠しに怒鳴るような口調でそれだけ言って、少女は立ち上がった。クロリアの視線を避けるように後ろを向いて、足早に牢を立ち去ろうとする。クロリアはそんな彼女を呼び止めるように問いかけた。
「サンドラ。この船は一体何なんだ?」
 鉄格子の扉にかかっていたサンドラの手が止まる。
「始めは竜狩り船かと思ったけど、君たちはテテロを殺さないで捕らえた。例えこの船が軍艦だったとしても、通りがかった旅竜をいきなり狙撃するなんて普通はしないはずだ」
 サンドラはクロリアに背を向けたまま、何も言わずにじっとしていた。深い沈黙が牢に満ちる。静かな波音だけが二人の耳を流れていく。やがてサンドラが静けさを断ち切った。
「普通は、な」
 やはり軍艦なのだ。クロリアは確信した。続けて彼が口を開こうとすると、サンドラはそれを制すように言った。
「あんたに船のことを話す義理はない。――それに、知らない方がいいことだってある」
 ぷつんと途切れた会話。鉄格子の軋む音に続けて、錠の落ちる音。サンドラの姿はだんだんと遠ざかり、扉の閉まる重い音と共に消えた。
 暗い牢の中にクロリアは一人取り残された。ふう……と小さく息をつき、そっと椅子に腰を下ろす。おもむろに丸窓から入る光へ目を向けた。斜めに差した一筋の光が照らし出す床は、そこだけ切り取られたように明るい。そしてその光の向こうに見えたものに、クロリアは目を見張った。
 竜だ。横たわった見知らぬ一頭の竜。それはまるで粘土で作った精巧な人形のように、動きもせず、音も立てず、ただそこに転がっていた。不吉な予感が背筋を走るのを感じながら、クロリアはいつまでも灰色の影に染まった亡骸を見つめていた。





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