第六話 夢と現の狭間で



「くろ、り……」
 テテロが、恐る恐るその名を呼ぶ。クロリアの肩が震えた。声にならない呻きを上げた。
 対の光を放つ二枚の巨大な翼は、無常にも確かにそこに存在していた。クロリアの本質をまざまざと見せ付ける両翼。彼の精神状態をそのまま映し出すかのように、それは今、はらはらと羽根を散らしていた。
 そして不意に、ラファエルの声が響く。
「ああ……夢が崩れていく……」
 三人が、はじかれたようにラファエルの視線を追った。窓硝子越しのそこには、紺碧の空。それが真ん中からひび割れ、崩れている。
「な……!」
 ミラが泣きそうな声を上げた。空はぼろぼろと割れ、地上に降り注いだ。まるで硝子のように、そして雨粒のように、儚く堕ちていく。空の欠片はギラギラと不気味に輝きながら、地上に突き刺さっていった。
「クロリア、早くこの町を出るんだ。君の開眼した力が、無意識のうちに幻想世界をむしばんでいる。君が夢から出なければ、修復が追いつかないまま、町は消える」
「俺は、どうすれば……」
「『還りたい』と、強く願うんだ。元の世界での思い出でも、未来への夢でもいい。頭の中を、その思いだけにするんだ」
 目を閉じて、クロリアは考えた。次々に像が浮かんできた。レディスタ、ジン、リト爺、リドアールの町。そして……血の泪を流す自分。
 ズガン!
 甦ってきたおぞましい記憶と凄まじい轟音で、クロリアは思わず念じるのを止めてしまった。瞬間的に振り返ると、床を突き破って、何か巨大な魔植物が生えてきているのが見えた。それも、次から次へと絶え間なく……。
「クロリア、早く――」
「いやあぁっ!」
 ラファエルの声はミラの悲鳴に遮られた。彼女は背後から伸びてきた魔植物に捕らえられていた。続けて、テテロまでもが拘束された。二人は必死で巻き付いてくるツルを押しのけたが、抵抗も虚しく、徐々に植物に飲み込まれていく。このままでは二人は絞め殺されてしまう。
「やめろぉーっ!」
 クロリアの叫びが木霊した。部屋に反響して、辺りを覆い尽くす。電撃とも焔ともつかないものが迸った。そしてその瞬間。
「ギャアアアアアアァァァァーッ!」
 植物の怖ろしい悲鳴が響き渡った。気がついたときには、あれほどまでの勢いで伸びてきた魔植物は、炭と化していた。ミラが少し身動きすると、変わり果てた植物は一気に崩れ去り、灰となった。
 クロリアがわなわなと震えた。己の左手を見た。手袋は原型をとどめない程に焼け崩れ、露わになった悪魔の紋章が、シュウシュウと音を立てて煙を立ち上らせている。――そう、彼の悪魔の力が、魔植物の命を一瞬にして奪い去ったのだ。そして驚くべきことに、紋章は以前にもましてくっきりと、しかも左手全体に行き渡っていた。
「俺が……? 今の、俺が……?」
 驚愕に打ち震える声で、クロリアは自分自身に問いかける。
 またしても爆音が響いた。今度は外からだった。地平線まで広がる草原が、まるで火山のように火を噴いている。ラファエルの声が聞こえた。
「クロリアっ、早く願うんだ! 『還りたい』と願え!」
 爆音と轟音の中で、もう一度クロリアは精神を統一した。必死で皆の顔を思い浮かべた。楽しかった頃の思い出を甦らせた。
 レッド、ジン。今まで出会った人々。今は無き、懐かしき故郷。哀しみの中にも確かに存在した、わずかな光。蛍のようにおぼろでかすかな、幸せ。そして、無二の相棒テテロ。彼とまた旅をしたい。大空を飛んで、舞って、世界を巡りたい。自分は自分自身の選ぶ道を進みたい。『許されざる者』ならば、『許されざる者』なりに、生きていく。この力を暴走させはしない。未来を、予言を変えてみせる。逃げない。諦めない。現実世界を、この手で――。
 彼の強い想いが、頂点にまで達したときだった。
 ふわり。
 体の浮くような感覚。突如消えた爆音。そして現れた、光とも闇ともつかない、ただ一色の世界。そこにいるのは、たった二人。自分と、テテロ。
 何が起こったのか判らない。町は、館は、ラファエルとミラは……? 困惑するクロリアとテテロ。しばらくして二人の遙か先に、微かな光が見えた。
「コレッテ……」
 信じられない。しかしそれは、確かにそこに存在する。遂に見つけた。
「町からの出口だ。きっと……」
 あれをくぐれば、きっと自分たちは現実世界に還れる。二人は一点の光を見つめた。
 途端、テテロはぱあっと明るい表情になり、一目散に駆けだしていった。クロリアの顔に微笑が浮かぶ。そして踏みしめるように一歩前へ行った、そのとき。
「クロリアさん……」
 妙に懐かしい声に思えた。クロリアの前に、ミラが現れた。後ろが透けて見えるほど儚い。彼女が夢の住人だということを、クロリアは改めて気付かされた。
「行って、しまうんですね……」
「……ごめん。でも俺の生きるべき世界は、ティエルの町じゃない。現実世界なんだ」
 自分のエゴだろうか。彼女は哀しむだろうか。でも、それが本当の意志なのだ。
 しかしクロリアの予想とは反対に、彼女は優しく笑んだ。透き通った綺麗な声で、語りかける。
「謝らないで下さい。あなたの未来を強いた、私がいけなかったんですから」
 そこまで言って、ミラは「でも」と付け加えた。
「元の世界に還っても……私のこと、忘れないでいて下さいね。私もクロリアさんのこと、絶対忘れないから……」
 ミラの頬を伝う、一筋の涙。でもそれは、悲哀ばかりに満ちたものではない。存在する世界が違っても、精一杯生きればそれでいい。そんな彼女なりの決意が溢れ出した、自然な涙。あまりに美しすぎる彼女のそれに、クロリアは胸を打たれた。
 ミラはそっと、黒い闇を蹴った。ふわりと彼女の体が舞い、クロリアの元までやってくる。
 ――そして。
 ミラの唇が、クロリアのそれに重ねられた。
 クロリアの思考が止まった。
 彼女は綺麗に笑って、夢の中に消えていった――。



 ザザ……ン。
 波の音。砂と潮の匂い。顔に差し込む光。気付くと、そこは自分たちがいた浜の洞窟だった。クロリアもテテロも、以前のままの姿勢で横になっていた。
 咄嗟にクロリアは、自分の背中を振り返った。羽がない。しかし手全体に広がった紋章は顕在していた。そして自分の体内を流れる血も、先日までとは違う感じがした。気のせいではないだろう。夢の中で起こったことが、現の世界にまで持ち込まれている。いや、そもそもあれは、ただの夢などではなかったのだ。クロリアの中に、何とも言い表し難い思いが渦巻いていた。
 と、テテロが目覚めたのか、むくりと体を起こした。
「ア……くろりあ」
 寝ぼけ眼のテテロ。クロリアは思わず笑んだ。そして視線を、海の方に向ける。光も、匂いも、風も、夢の中よりも遙かにはっきりと感じられた。
「戻ってきたんだな、俺たち……」
 妙に切ない声でクロリアが言ったので、テテロは怪訝そうな顔で訊いてきた。
「……くろりあ。後悔シテナンカイナイヨネ?」
「え? まさか」
 テテロにそんな風に聞こえたのは、きっと夢幻の町で得たもの、そして与えられた衝撃が多かったからだ。それが少しだけクロリアの気持ちを、優しく哀しく切ないものにしているのだろう。
「……さ、行くぞテテロ! もうじっとなんかしていられないぜ」
 クロリアがすっくと立ち上がった。
 立ち向かっていく、どんな現実にも。血は眠りから覚めた。破滅への砂時計が滑り落ちだした。立ち止まってはいられないのだ。自分が力を覚醒させる決断をした以上、その責任を、そして世界の運命を負うのは自分だ。破滅させはしない。予言通りにはさせない。繰り返される歴史を変えてみせる。今が、その時だ――。
 テテロが身を起こそうと、翼をうんと伸ばした。そしてその際に、思いついたように一言。
「ア、ソウ言エバ。みらニ何ノ挨拶モ出来ナカッタネ」
 ねぇ、クロリア。そう言おうとして、テテロが振り向く。
 が、そこに見えたクロリアは、テテロが想像していたものと違った。先程までの真面目な顔が、妙に紅潮している。
「……何、くろりあ。ソノ顔ハ」
「え!? い……いや、何でもないっ」
「……バレバレ。みらト何カアッタンダナ! ドーシタノサくろりあッ、教エロヨ!」
「何もないってば! ほらっ、早く出発準備!」
「誤魔化スナヨ! ……アッ、逃ゲタ! 待テヨくろりあーッ!」
 ぱたぱたと走りながら、二人の姿は地平線に消えた。





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