第二話 偽りの平和



「――アルゼン様」
 静かな声に、呼ばれたその人はそっと振り返った。視線の先には小柄な獣人。見た目は普通の兎と変わらないが、身長が一メートルほどもある。二本足で立ち、毛の色と同じ純白の軍服をまとっている。
「どうしました、アドルフ」
 透き通るような声は穏やかで、かつ凛々しかった。アドルフは敬礼の姿勢のまま返答した。
「今し方、城に旅の者がやって参りました。ひとりは翼竜、もうひとりは人間です。何でもアルゼン様との面会を望んでいるとのことですが……いかが致しましょう」
「旅のお方ですか。……宜しい、中へ通しなさい」
 しかしアドルフは、その指示がどうも腑に落ちない様子だった。
「宜しいのですか、アルゼン様。竜の方はともかく、もう一方は人間です。一体何をされるかわかったものでは――」
「構いません。相手が戦意を持っているのならば、鷹の兵たちが真っ先に気づくはずです。彼らの鋭い観察力が並大抵のものでないことはおわかりでしょう、アドルフ。それに私とて、まったくの無力ではありませんよ」
 アルゼンはどこまでも落ち着いた声でそう言った。その力強い言葉に、アドルフも少し安心したようだった。
「お行きなさい、アドルフ。客人のお二人は北の塔へ案内して差し上げなさい。私もそこへ参ります」
「はっ!」
 アドルフは改めて姿勢を正し、一礼してから玄関ホールへと去っていった。アルゼンはその様子を穏やかに見送ってから、長い廊下を、彼とは反対の方へと歩んでいった。



 絵本の挿絵からそっくりそのまま飛び出してきたような城の前に、その景観には少し不似合いな旅人と竜がいた。入城許可を申請してからだいぶ時間が経っていることもあって、テテロは見上げるほどの立派な鉄の門に寄りかかりながら暇そうに欠伸をした。
 すると、誰かが城の方から庭園を走り抜けてきた。クロリアとテテロがそちらに向き直ると、駆けてきた兎の獣人は鷹の番兵たちに何事か指示を出した。重い門がゆっくりと開けられる。
「お待たせ致しました。入城許可が下りましたので、お二人を城へご案内させて頂きます。私めはアドルフ、アルゼン女王にお仕えしている者でございます」
 ピッと敬礼をしながら、兎の獣人はそう告げた。
「俺はクロリア。こっちは相棒のテテロだ」
「承知致しました。それではクロリア様、テテロ様、どうぞこちらへ」
 アドルフの後について、二人は庭園の真ん中を貫く道を進んでいった。
歩きながら、両側に広がる素晴らしい庭園を眺める。それは自分たちを中心として、完全な線対称(シンメトリー)になっていた。人魚(セイレン)をかたどった美麗な噴水から、清水が涼しげに溢れ出している。色とりどりの花をつけた薔薇は庭園中に夢のような香りを漂わせているし、樹木は非の打ち所がないほど完璧に一角獣(ユニコーン)や鷹頭獣(グリフォン)の形にカッティングされている。そしてその庭園の向こうに、言葉を失うほど荘厳華麗な城がそびえている。
 城の入り口までやってくると、ズズンと重い音を響かせて扉が開いた。一歩その中に入った瞬間、二人は思わず感嘆の溜息を漏らした。
 自分たちがここにいるのは場違いも甚だしい、そう思わせるような場所だった。ホールはゆったりと広く、壁のタイルのひとつひとつに丁寧な彫刻が施されている。頭上には見事な天井画が広がり、シャンデリアがキラキラと光り輝いていた。床は完璧なまでに磨かれていて、もうひとりの自分が足下に映っている。
「アルゼン様は北塔におられます。こちらです」
 アドルフに導かれるままに、クロリアとテテロは城の奥へと入っていく。ホールをまっすぐ抜けた先には、眺めのいい渡り廊下があった。カツーン、カツーンと、靴音が余韻を伴って廊下に響く。
 一同がたどり着いたのは、これまた美しく飾り立てられた建物だった。しかし本館の豪華絢爛な様子とは違い、どこか落ち着いた雰囲気をかもし出している。塔全体が円柱の形をしていて、その中心を絨毯の引かれた螺旋階段が貫いている。壁のあちこちに絵画が飾られ、部屋の隅には大理石の彫像が静かに佇んでいる。
 螺旋階段の上から、ふと誰かの足音が聞こえた。だんだんとクロリアたちのいる一階へと近づいてくる。その人物が彼らの前に姿を現したとき、二人は思わず息を呑んだ。
「ようこそランテオ島へ、旅人さん。私がこの島を治める女王、アルゼンです」
 女神にも似た女性だった。重厚感溢れる深紅のドレスが、その存在感で見る者を圧倒する。頭には美麗な金飾りをつけ、そこから茶色の猫耳が覗いている。彼女自身も獣人なのだ。
 アルゼンは階段をゆっくりと下り、クロリアの目の前までやってきた。柔らかながらも威厳を損なうことのない微笑みは、女帝と呼ぶに相応しい。柘榴にも似た紅の瞳は、見る者すべての心を奪い去ってしまいそうだ。まだ齢二十になって間もないという話を聞いたが、とてもそうとは信じられないほどの迫力を彼女は身に纏っていた。
「お目にかかれて光栄です、アルゼン女王。旅人のクロリアです」
「俺ハコイツノ旅仲間デ、ててろッテイウンダ。宜シクネ、あるぜんサン!」
「こ、こら、女王にそんな……」
 あまりにも場所と立場をわきまえないテテロの言動に、アドルフは思わず身を強ばらせて注意した。ところがアルゼンは柔らかに笑って、優しくアドルフをたしなめた。
「よいのですよアドルフ。お二方はこの島の者ではないのですから、身分など気にすることはありません。そうでしょう?」
「は、はあ……」
 呆気にとられるアドルフを後目に、アルゼンはクロリアとテテロの方に向き直って微笑んだ。
「ですから、あなた方は私に気を遣うことはありません。気軽にアルゼン、とでも呼んで下さい」
「ヨカッタ! 俺、敬語ッテドウモ苦手デサー。アリガトネ!」
「苦手、じゃなくて使えないんだろ……」
 無邪気なやりとりに、アドルフも思わず笑ってしまった。



 アルゼンはクロリアとテテロを静かな裏庭へと案内した。裏庭といっても、そこは先の庭園と同じくらい美しく穏やかな場所だった。テテロは花園で遊ぶ獣人の子供たちを見つけて仲間に混じり、アルゼンとクロリアは薔薇園の噴水に腰掛けていた。アドルフは彼らの邪魔にならないよう、少しだけ離れた場所からそっと見守っている。
「綺麗な庭だな。いつまででも眺めていられる気がするよ」
 クロリアが心からそう言うと、アルゼンが嬉しそうに微笑む。天使にも似た笑顔だった。
「ありがとうございます。私もよくここで心を落ち着けるんです。クロリアさんは……」
「クロリアでいいよ。呼び捨てで」
 苦笑しながら言うと、アルゼンも「では、そのように」と笑い、話を続けた。
「クロリアはどうしてこの島へ? この島の周りはいつも荒れていますから、外界の者たちはなかなかこちらへ来ようとはしません。そのおかげでこの島は守られている、とも言えますが……」
「まったくだ。俺も特にここに来る予定はなかったんだけどな。嵐に巻き込まれて、偶然漂着したんだ」
「そうだったのですか……」
 不意に、アルゼンは複雑そうな面持ちで呟いた。
「それでは、この島のことは何もご存じないのですね」
 意味深なその言葉に、クロリアは怪訝そうな表情を浮かべた。
 ふと、どこかから聞こえてきた葉の擦れる音で会話は中断された。何の音だろう、とクロリアが立ち上がる。
 薔薇の生け垣の向こうから、誰かが遠慮がちにこちらを覗き見ていた。まだ五、六歳くらいにしかならない人間の女の子だ。彼女はクロリアの視線に気づき、慌てて顔を隠した。クロリアは思わず微笑み、そっと歩み寄る。
「どうしたんだ? こんなところで」
 視線が同じ高さになるようにしゃがみ、優しく尋ねる。彼女は怯えたような顔をして、何も言わない。一歩だけ、奥の方へ後ずさった。
 そのときだ、ちゃりっ、という硬い金属音がしたのは。不思議に思ったクロリアは改めて少女を見、そして愕然とした。
 首に鉄輪がはめられていた。そこから伸びる鎖は切られていて、今は自由の身だが、それは間違いなく彼女を束縛しておくためのものだった。身に纏っているのはぼろとも呼べるようなあまりにもみすぼらしい布で、もちろん靴など履いているはずもない。
 目を見開いたまま身動きが取れないクロリアの横に、いつの間にかアルゼンが立っていた。彼女は少しだけ驚いた様子だったが、次の瞬間にはいつもの冷静な姿に戻っていた。すっと鎖の少女の前に腰を落とし、目線の高さを同じにする。
「なぜここにいるのですか? あなたのいるべき場所は、ここではないはずです」
 いつも通りの優しい声だった。しかしその瞳はいつになく真剣だ。少女はびくっと肩を強ばらせたが、アルゼンはにこりと笑い、震えるその肩にそっと手を置いた。
「怖がることはありません。でも、あなたは元の居場所に戻らなくてはなりませんね……」
 そう言って、白魚のような指を生け垣の方へ伸ばし、一輪の白薔薇を摘んだ。それを少女の髪にそっと挿す。少女の銀の髪と気高い白薔薇は、とてもよく似合っていて、アルゼンは柔らかにふふっと笑った。それからゆっくり立ち上がり、少し離れた場所にいたアドルフを呼ぶ。
「アドルフ、この子を町へ帰しておあげなさい」
「はっ」
 アドルフはキレのよい声で返事をし、鎖の少女の手をそっと取り、門の方へと歩いていった。その間、少女は何度もこちらを振り向き、不安げな瞳でクロリアたちを見つめた。その姿が門の向こうに消えた途端、クロリアが我に返る。
「アルゼン、あの子は……!」
 はじかれたように立ち上がり、彼女を見つめる。体中を憤りとも困惑ともつかない感情が駆けめぐる。アルゼンも、そんなクロリアを見た。先程の笑顔は消え、その瞳の色はどこか淋しげだった。
「――これが、この島の現実です」





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