憎み憎まれ 傷つき傷つけ
そして彼らは剣を手放さない――







第一話 知られざる孤島



 大地に激しく叩きつける豪雨は、止む気配がまったく感じられなかった。風はあちこちで唸りをあげて吹き荒れ、海は狂ったように波を踊らせる。このアルビオン海は四六時中荒れていることで有名だ。津波の被害も後を絶たず、普段からこの近辺には生き物の影が見あたらない。
 そんな凄まじい状況の中、雨をも切り裂くほどのスピードで翼竜が空を飛んでいた。そしてその後ろにぴったりと張りつくように、巨大な蟲の大群が追ってきている。
 竜の背にはひとりの少年が乗っていた。竜共々、海に飛び込んだかのようにずぶ濡れになっている。先ほどから何度も背後を振り返っているが、蟲たちとの距離はまったく広がらない。
「くろりあッ、コノママダト海ニ突ッ込ンジャウヨ!」
 テテロは必死に翼をばたつかせながら、爆音のような蟲の羽音に負けないよう叫んだ。クロリアも大声を張り上げて答える。
「そうだな! お前は溺れ死にするのと蟲に喰われるのと、どっちがいい?」
「ドッチモヤダヨォ!」
 冗談めいたやりとりを交わすが、事実彼らはその危機に直面していた。追っ手の肉食蟲は、一度獲物を見つけたら己の命が果てるまで追い続けるという恐るべき習性を持っている。彼らを振りきる手段はひとつ、水中に潜って群れを溺死させることだ。しかし現実は残酷で、唯一の頼みの綱である海は今、クロリアたちを嘲笑うように荒れ狂っていた。
 なかなか決心のつかない二人だったが、こうしている間にも、激しい雨風と無理な高速飛行で体力は失われていく。それに追い打ちをかけるかの如く、蟲の群れがじわじわとその差を縮めてきた。
 そのときだ。
「ウ、ワアアッ!」
 テテロの体が風にあおられた。バランスを崩し、クロリアもろとも吹き飛ばされる。
「ぐっ……テテロ、落ち着け! 風を読むんだ!」
 テテロは何とか気流に乗ろうと努めたが、暴れる風は容赦なく、あっという間に彼らを海の彼方へ運んでいく。蟲たちも今の突風で散り散りになっていったが、もはやそれを確認する余裕もなかった。
 もがき続けていたテテロが、遂に水面すれすれのところで体勢を立て直した。
「いいぞテテロ! そのまま岸に向か――」
 クロリアが少しだけ気を緩めたときだった。不意に視界が影に覆われていく。
「ウ、嘘ダロォォォォ!」
 目の前にとてつもない高さの津波がそびえていた。悲鳴もろとも、二人は高波に呑み込まれた。
 凍えるような水の冷たさがクロリアを襲う。深くまで押し込められ、波の渦に巻き込まれそうになりながら上へ上へと泳いでいった。
 やっとのことで水面から頭を突きだし、むせながら思いきり肺に息を送り込む。辺りを見回し、姿の見えない相棒の名を叫んだ。
「テテロ! おい、どこだ! 返事しろ、テテ――」
 声の続きは大量の海水とともに飲み込まれてしまった。その一瞬の隙をつき、波はクロリアを海中深くへと押し戻していく。
 激しい流れに耐えられず、クロリアの口から泡が立て続けに吐き出された。視界が霞む。命の危機を感じても、酸素を失った彼の体はもう微塵も動かない。突然視界が真っ暗になり、クロリアは意識を手放した。



 瞼を閉じていても感じるほどの、突き刺すような光が眩しい。しかし鬱陶しくはなかった。そよ風が優しく頬を撫で、どこからか心地よい音が聞こえてくる。何て安らかな気持ちだろう。先ほどまで荒波と闘っていたのが嘘のようだ。嗚呼、このまま眠ってしまえたら――。
 パシャッ。
「わっ!」
 クロリアはがばっと身を起こした。突然顔に冷たい感覚が迸ったのだ。
「あ、やっと起きた。大丈夫?」
 明朗な声が耳に届く。霞む目を凝らして見てみると、目の前に快活そうな金髪の少女がいた。
「よかったー、もう死んじゃったかと思ったよ。海に漂ってるのを見つけたときには意識なかったし。連れて帰っていいものかわからなかったけど、あのままじゃ危なかったしねー……って、ちょっと聞いてる?」
「はあ……」
 少女の早口な言葉は、右耳から入って左耳から抜けていた。何が起こったのかさっぱりわからない。ここがどこなのか、自分は何をしているのか。そして何よりも。
「俺、生きてる?」
 少女は一瞬きょとんとした表情を浮かべ、声をあげて笑い出した。クロリアは実感が湧かないまま、ぼうっと少女の挙動を見つめている。笑いを無理矢理押し殺しながら、彼女は可笑しそうに告げた。
「そうね、まんざら間違いでもないかもね。さっきまで死んだように眠ってたし。でももう大丈夫よ。そろそろ意識もはっきりしてきたんじゃない?」
 少しずつ冴えてきた頭で、クロリアは辺りを見回した。
 どうやら今、自分たちは浜辺にいるらしい。空は気持ちよく晴れている。先ほど感じた眩しい光は太陽だったようだ。聞こえていたのは岸に寄せるさざ波の音だったのだろう。クロリアの両足は少しだけ波に浸かっていた。潮の香りが辺りに満ちている。
 こうして五感を使って状況が把握できることからしても、本当に自分は生きているらしい。
「でもどうして? あんな荒海に落ちたら普通……」
「死ぬわね」
 クロリアの言葉を少女が継いだ。
「でもあなた、相当運がいいみたい。私が久しぶりに沖の方まで散歩に行ったら、溺れかけのあなたを偶然見つけたのよ。命の恩人なんだから感謝してよね」
「そうだったのか、ありがとな……ってちょっと待て。『沖を散歩』?」
 軽く受け流しそうになったところを、慌ててクロリアが引き戻す。改めて見てみると、目の前の少女の下半身は――魚だった。
「人魚(セイレン)!」
「もう、今頃気づいたの? いつまでもぼーっとしてないでよね。私、アリスっていうの。あなたは?」
「あ、俺はクロリア。……驚いたな、人魚(セイレン)なんてこのところ全然見なくなってたから」
 人魚(セイレン)は古よりの海の住人として有名だが、高値で取引される鱗を狙って、人間の間では乱獲が絶えない。そのため陸地近くにはほとんど姿を現さないのだ。
「まあね。でもこの島なら安心して暮らせるの。ここには私みたいな、居場所をなくした生き物たちが大勢集まってるのよ」
「島? アルビオンに島が浮いてるなんて、そんな話聞いたことも……」
 アリスは薄紅色の頬をぷうっと膨らませた。
「何よ、地図に書いてないことは信じないって訳? まだ大陸の人間には知られてないだけよ」
 見つからないのも無理はない。島の周りは年中荒れ狂う海で、大陸からの距離も相当あるはずだ。並大抵の人間には近づくこともできない環境の中に、この島は位置している。
 呆気にとられていたクロリアは、ふと自分の置かれている状況を思い出した。
「そうだ、これからどうするかな? まずはテテロを探して、どこか泊まれる場所見つけて……」
「あ、あんまりうろつかない方が身のためよ。人間はこの島じゃ歓迎されないから」
 アリスの思いがけない言葉に、クロリアはきょとんとした表情を浮かべた。
「そうね。先にアルゼン様のお城を訪ねるといいかも」
「アルゼン?」
「うん。この島を治めてる、とっても美しいお方なの。島についてのお話もそこで詳しく聞くといいわ。お城はね、この丘をずーっと登っていったあそこ」
 そう言ってアリスが指さす先に、抜けるような青空を切り取る白い影が見えた。丘の上に厳かにそびえるその光景は、まるで絵本の中から抜け出してきたかのようだ。
「私たちは水路をスイーッと泳いでいけばあっという間なんだけど、あなたは頑張って歩いていくしかないわねー」
「すごいな、人魚(セイレン)もあそこまで行けるようになってるのか」
「だって私たち、この島の番人だもの。何かあったらすぐに知らせられるように、いろいろ便利になってるのよ」
 そのとき、二人の頭上から声が降ってきた。
「くろりあー!」
 聞き慣れた、少し調子の外れた声。すぐ近くの空をテテロが羽ばたいていた。そのままクロリアのもとへふわりと舞い降りる。相棒の無事な姿を見て、クロリアの顔がほころんだ。
「テテロ! よかった、元気みたいだな。心配させやがって、まったく」
「ソレハコッチノ台詞。竜ヲ甘ク見ルナッテンダ!」
 笑いあう二人の様子を、アリスが傍らからにこにこと眺めている。
「よし、それじゃ早速行ってみるか。アリス、助けてくれてありがとな」
 振り向きざまに微笑みかけ、クロリアは礼を言った。そのまま浜辺を去ろうとする彼らの背中に、アリスが慌てて声をかける。
「ちょ、ちょっと待って!」
 クロリアとテテロが振り返った。アリスはもじもじとためらった後、頬を紅潮させて尋ねる。
「ね、クロリアってもしかして王子様?」
「……は?」
 目を丸くしたクロリアとテテロが、同時に素っ頓狂な声をあげた。
「だってほら、おとぎ話にあるじゃない! 王子様の命を助けた人魚(セイレン)はその人と結ばれるって!」
 クロリアの頬がわずかに染まる。それを見逃さなかったテテロが、にやりと不敵に笑った。
「アララ、顔真ッ赤ニシテドウシタノ、くろりあ? モテル男ハ辛イネ〜! ありすサン、ダッケ? コンナオ粗末ナ王子様デヨケレバ、ドウゾ貰ッチャッテネ!」
「お前……そんなに俺をからかうのが面白いかぁぁぁ!」
 クロリアは逃げるテテロを猛然と追いかけ、あっという間に丘の方へと消えてしまった。唖然としてそれを見送ったアリスは、次の瞬間砂浜で笑い転げていた。





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