クロリアとテテロ、そしてファルドは、その発言に息を呑んだ。 ――殺させようというのか? 自らの生みの親を、リヴァリスフィア本人に。 闘技場にいる全員の視線が、フィールド上で立ち尽くしている少女に注がれる。 リヴァリスフィアはそれを聞いても、凍ったように動かなかった。何の感情も見受けられない漆黒の瞳で、じっとファルドを見つめている。 「さあどうした? その銃で一発撃ってしまうだけでいいんだよ」 冷酷な指示を与える白衣の男は、残忍に口の両端を持ち上げた。このとき既にファルドを捕らえていた手は放されていたが、彼は恐怖のあまり逃げることができなかった。 永遠とも思える沈黙の中で、リヴァリスフィアが静かに動き出す。ゆっくりとファルドの元へ歩み寄り、長銃の銃口を彼に向けた。ガチャリという鈍い金属音が、闘技場全体に大きく響く。 後はそのトリガーを引くだけ。たったそれだけで、目の前の男の命は散るのだ。命を奪うという所業は、なぜこんなにも簡単なのだろうか。 ファルドは死を覚悟した。死の瞬間、ひとは一体どんな思いをするのだろう。想像を絶するような痛みに襲われ、苦しみながら死んでいくのだろうか。いや、それとも自分が死んだということにも気付かず、この場にばらばらと崩れるだけだろうか? それならば後者の方がありがたい……。恐怖に真っ白になった頭でそんなことを考え、ファルドはぎゅっと目をつむった。 どれほど時間が経ったのだろうか。聞こえるはずの銃声が聞こえない。不気味な沈黙が辺りを包んでいる。そうか、自分は死んだのか。やはり後者だった……。ファルドがそう思った時だった。 ガシャン。 彼は銃声の代わりに、重い金属が地面に落ちる音を聞いた。不思議に思ってそっと瞼を持ち上げる。そして彼の目は、恐怖ではなく驚きに見開かれた。 リヴァリスフィアの手から長銃が滑り落ちていた。自分を撃ち抜くはずだった巨大な銃器は、それを操る者がいない今、地面に横たえられて一寸も動かなかった。そして今までその銃を握り締めていたリヴァリスフィアの手は、がくがくと震えていた。 「あ……」 彼女の口から、微かに声が漏れた。腕の震えが次第に全身へと伝わっていく。 その場にいる全員が驚愕した。情緒を持たないはずの彼女がなぜ殺しをためらう? 意志も感情も持たない彼女が、なぜ? 思いも寄らなかった事態に、研究者たちの顔が憤りに歪んでいく。 「どうした、リヴァリスフィア! 殺せと言っているのだ!」 怒鳴りつけられたリヴァリスフィアはびくんと体を強ばらせ、思い直したように腰から短刀を引き抜いた。それをしっかりと両手で握り締め、ファルドの眼前に突きつける。彼女は瞬時ためらい、しかし思い切ってその腕を突き出した。 ザ。 嫌な音がした。自分の顔に、生温かい液体が飛び散るのを感じた。嗚呼、遂に殺してしまった。 「……わかってるのか」 突如聞こえた、厳しくも静かな声。リヴァリスフィアがハッと目を見開いた。 「お前が今しようとしたことの意味が、わかってるのか」 リヴァリスフィアとファルドの間に、何者かが立っている。 「自分を育ててくれた人間をこんなに簡単に殺しちまうのか、お前は」 一言一言が、彼女の『こころ』に突き刺さる。持っていないはずの『こころ』に。 リヴァリスフィアは恐る恐る顔を上げた。目の前にいる人物の顔を見た途端、彼女は息を呑んだ。淡い空色の髪を吹き抜ける風になびかせる、精悍な瞳が印象的な少年――まさにクロリアその人だった。 リヴァリスフィアの小刀は、彼の突き出した左腕にズブリと突き刺さっていた。そこから鮮血が止めどなく溢れ、小刀を伝って彼女の手を真っ赤に濡らしている。 リヴァリスフィアは震えながら、深々と刺さったナイフを引き抜いた。まもなく小刀は、するりと彼女の手を滑り落ちた。先ほどとは違った、カシャンという軽い金属音が闘技場に木霊する。 リヴァリスフィアは怯えと驚愕の混じった眼差しで、クロリアの瞳を見つめた。ナイフが自分の腕を貫いたというのに、彼は至って平然としていた。思わず吸い込まれそうになる、深い蒼の瞳。しばしの沈黙が流れ、クロリアは静かに、しかしはっきりと言った。 「生きろ、自分の意志で。『こころ』を持ってないからなんて言い訳、聞かないぜ」 リヴァリスフィアの目がまたしても見開かれる。瞬間、瞳にキラリと光が灯った。 そのとき、彼ら目がけて弾丸が飛んできた。チュンッと音を立ててクロリアの足下に着弾し、弾痕から煙が立ち上る。 皆は一斉に弾が飛んできた方向を振り返った。その先には白衣の男の姿がある。漂ってくる威厳から、この人物が研究者グループのリーダーなのだと思われた。 「邪魔をするなと言ったはずだ。そこを退け」 「嫌だと言ったら?」 クロリアが茶化すように言うと、男の両脇に着いていた研究者たちは銃を抜いた。全ての銃口がクロリアに向けられている。ファルドとリヴァリスフィアは思わず身をすくめたが、当の本人は平静そのものだった。男が少し間を置いて言う。 「――強制排除するのみだ」 言い終わるか終わらないうちに、銃器から一斉に弾丸が放たれた。しかし。 「何……!」 クロリアの前に鋼鉄の壁がそびえていた。全ての弾丸はそこで呆気なく弾き飛ばされている。 不意にパァッと光が飛び散り、壁が消えた。代わりにその向こうに守られていたクロリア、ファルド、リヴァリスフィア、そして不敵な笑みを浮かべた翼竜が現れる。言うまでもない、相棒のテテロだった。鋼鉄の壁は彼が両腕を変身させて作り出した物だったのだ。 テテロは振り返り、呆れた口調でクロリアに言う。 「少シハ自己防衛シロヨナ、くろりあ!」 「悪い悪い。でも結果的に大丈夫だったんだし、細かいことはなしってことで」 呑気に返事をするクロリアの体には、当然掠り傷一つついていない。 研究者たちの怒りはいよいよ頂点に達した。リーダーは歯が欠けるかと思うほど強く歯ぎしりし、突然観客席からフィールドへと飛び降りた。疾風のごとく走り抜けたかと思うと、リヴァリスフィアの足下に転がっていた長銃をひったくる。そして狂ったように叫んだ。 「貴様ら、全員死ねええええ!」 巨大な長銃が続けざまに火を噴いた。敵も味方もない。彼は我を忘れてがむしゃらに弾を乱射した。闘技場のあちこちから煙が立ち上り、周りの物が無差別に破壊されていく。凄まじい轟音が響き渡る中、同胞の研究者たちが「落ち着いて下さい!」と彼にすがったが、もはや彼の目には何も映っていなかった。 仲間たちを背後にかばって、テテロはまたしても壁を作り出し、銃弾から身を守った。しかしこの巨大銃の威力は、先ほどの拳銃とは比にならない。さすがのテテロも反動でじりじりと後ずさった。 クロリアは瞬時考え、轟音に負けないよう大きな声で叫んだ。 「テテロ! 二人のことは頼んだぞ!」 頃合いを見計らって、彼は飛鳥のごとく飛び出していった。 「オ、オイ! チョット待テヨくろりあ!」 何をするつもりだろうと疑念を抱きながらも、テテロは自分たちの身を守ることに集中した。 所構わず放たれる銃弾を避けつつ、クロリアが場内を横切る。軽い動きで観客席へ飛び乗り、最上階の特別観覧席まで疾走した。そこは闘技場で最も高いところに位置する席だった。 ――早くしなければ。テテロの壁も、そう長くは保たない。 上へ上へと走りながら、クロリアは思った。 遂に目的地に辿り着いた。クロリアは更に、特別席を覆う天蓋へと登った。そこからは一層激しさを増す戦闘と、無残に破壊された闘技場全体が見渡せた。 彼はあがっている息を懸命にこらえながら、左腰のポーチに手をやり、蒼い半円形の笛を取り出す。そして何の迷いもなくそれを構え、吹いた。 どこまでも澄んだ透明な音が、廃墟となった空間に響き渡る。いや、これを音と表現していいものだろうか。音とも光ともつかない、全てを凝縮させたような大きな力。そしてその清き力は、ふわりと風を巻き起こす。下から響く爆音をも消し去り、柔らかな光でその場を包み込む。その場にいる全員が争うことを忘れ、笛の力に支配されたようにその音に聞き入った。ちっぽけなひとつの笛が、全てを変えた。 そして突然、今まで狂ったように銃を乱射していた男が苦しみ始めた。 「う、うあああ! やめろ、音を止めろおお……!」 正気を失った彼には、笛の発する力はあまりにも強力すぎた。その澄んだ音色は彼の狂った精神を分解、浄化してゆく。男は叫びながら地面をのたうち回った。瞬間、彼の体は眩い光に包み込まれ、最後に鋭い悲鳴を上げた末、倒れて動かなくなった。 それでもなおクロリアは笛を奏で続けた。彼自身もその音色に魅了され、その力に圧倒されながら……。 不意に、消え入るように笛の音が小さくなった。クロリアの唇が笛から放されていた。波紋のように余韻を残しながら、美しい音色は天に吸い込まれていった。音が消えても、皆は身動き一つすることができなかった。まるで時間が止まったようだ。 最初にその無音を断ち切ったのはクロリアだった。せり出した天蓋を軽く蹴り、一気にフィールドまで飛び降りる。高さはビルの十階に相当する。とても常人にはできない行為だ。しかし今、皆はそれを見ても驚かなかった。笛の音の影響で、感覚が麻痺してしまっていた。 クロリアは音もなく、勿論けがひとつせずに地上に降り立った。そのまま静かにリヴァリスフィアの方へと歩み寄る。彼女の前まで来て、クロリアはハッと息を呑んだ。 ――リヴァリスフィアが泣いていた。綺麗な涙を、漆黒の眼からぽろぽろと溢れさせて。 「……リヴァ」 クロリアがそっと名を呼ぶ。すると突然、リヴァリスフィアが彼の胸の中に倒れ込んだ。いきなりの出来事に、両手の行き場を失って慌てるクロリア。 「お、おい。リヴァ……?」 彼女はクロリアの胸にすがりついて泣いた。そしてしゃくり上げながら、震える唇で言葉を紡ぐ。 「私……今の綺麗な音を聞いて、何だか熱いものが込み上げて……。よく分からない……だけど、すごく泣きたくなって……」 続きは泣き声にかき消されてしまった。彼女の素直な言葉を聞き、クロリアは優しく綺麗な笑みを浮かべた。柔らかな声音で囁きかける。 「それでいいんだ。『こころ』を持たない奴は泣けない」 そう言って彼は、そっと彼女を抱きしめた。リヴァリスフィアは一層声を大きくして泣いた。優しく包み込むクロリアの温もりが、胸の中に溜まった感情を全て洗い流してくれるような気がした。 「ダケド、ドウシテ? 何デりう゛ぁハ感情ヲ取リ戻シタノ?」 ぽかんとした様子のテテロが、当然の疑問を口にする。そう、彼女は感情など微塵も持っていないはずだった。それなのに何故、殺しをためらったり、感動して涙することができるのだろう。 「……取り戻したんじゃない。押し込めていたものが出てきただけさ」 テテロがハッとして振り返ると、地べたに力なく座り込んだファルドが、呟くように語っていた。 「もともと『こころ』はリヴァの中にあったんだ。生き物から『こころ』を抜き取るのは容易なことじゃない……。だから私はそれを無理矢理押さえ込むことにした。そして彼女にも、そのような処置を施していた」 まさかそれが、こんなにも簡単に破られてしまうとは――そう言って、ファルドは自嘲気味に笑った。しかしそれは、心の奥底では安心しているようにも見えた。 「もう終わった。全て」 「ご主人様……」 少し落ち着きを取り戻したリヴァリスフィアが、ファルドの方を振り返る。二人の視線が合ったかと思うと、何かを決断したように、同時にこくりと頷いた。 「クロリア君、テテロ君。今すぐここを離れてくれ」 「エ?」 テテロが素っ頓狂な声をあげる。ファルドはひどく疲労した、しかし強い意志を持った眼差しで二人を見、告げた。 「この闘技場を爆破する」 「!」 驚きを隠せずにいるクロリアとテテロ。そんな彼らに、ファルドは落ち着き払って言った。 「我々は取り返しのつかない過ちを犯した。新しい命を生み出すなど、ましてやその命を制御して弄ぶなど、許されないことだったんだ。恥ずかしながら今気付いたよ……。だからこんな悲しいことは、もうこれっきりにしたい。私とリヴァはここで……死ぬ」 「な、何を……」 「だから早く離れてくれ。君たちまで巻き込みたくはない。我々のことなど忘れて、生きてくれ……」 リヴァリスフィアもクロリアの元を名残惜しげに離れ、ファルドに寄り添った。テテロが耐えかねて叫んだ。 「ドウシテ? セッカク『ココロ』ヲ取リ戻シタノニ、ドウシテ?」 「……よせ、テテロ」 「ヤリナオセバ良イジャナイカ! 始メカラ、全部!」 「テテロ、もういい」 「ナンデ! くろりあマデソンナコト……」 「落ち着けよ。どうするかは二人が決めることだ。これが二人の決断なら……」 半分泣きながら訴えるテテロを、クロリアはそっとなだめた。テテロは思わず言葉を呑み込んだが、まだ納得していない様子だった。今度は彼に代わって、クロリアが口を開く。 「これは俺たちが口出しできることじゃない。だけどもう一度、ひとつだけ伝えておきたいことがある……」 真っ直ぐにリヴァリスフィアを見つめるクロリアの瞳は、一層の蒼さを増していた。そしてそれを見返すリヴァリスフィアの瞳には、今までにはなかった光が灯っていた。 「――生きろ、自分の意志で」 クロリアは静かに踵を返した。テテロもやるせない表情のまま、彼について闘技場を後にした。去っていく一人と一匹を、思わずファルドが呼び止める。 「ま、待ってくれ! 最後に訊きたいことがある……」 クロリアの足が止まる。ファルドは彼の背中に向かって問うた。 「君は一体、何者なんだ?」 それを聞いて、クロリアは自嘲気味に微笑した。肩越しに後ろを見やり、答える。 「……『許されざる者』です」 ファルドは息を呑んだ。彼には分かったのだ、彼の言った意味が。『許されざる者』。古代伝承に物々しく描かれた、あの――。 《――許されざる者、二ツ月の年、雷(いかずち)と共に大地に降り立つべし。その者深き刻印の業(わざ)にて戦乱を招き、人々を破滅に陥れん。悪魔の術を用い、星々と太陽を奪い去り、世界を滅びの道へと導かん。 聖なる者、我らを救わんと、神風と共に大地に降り立つべし。その者清き蒼の笛の業(わざ)にて人々を救わん。天使の術を用い、緋き太陽を昇らせ、光差し、嵐止み、世を復活させん――》 |