人形に
こころは必要ですか。







第一話 感情無きひと



 晴れ渡った空。点々と浮かぶ白い綿雲を、クロリアは無意識のうちに目で追った。ただただ、時がゆっくりと流れていく。
 ここは名もなき小さな野原だ。この近辺に町はなく、人や獣が住み着いている気配もない。木々に取り囲まれた草原の中央には、さらさらと小川が流れている。遙か遠くに小高い山が見えるが、それ以外には何もない場所だった。しかしそんな落ち着いた空間だからこそ、目まぐるしい世界に疲れきった心が安らぐのだろう。
 その小さな自然の片隅に、一人の人間の姿があった。綺麗な蒼い髪をした少年だ。右袖の破れたコートを羽織り、両手に手袋を嵌めている。深く澄んだブルーの瞳は、一度見たら忘れられないほどに印象強い光を放っていた。彼は名をクロリアという。相棒の竜、テテロと共に世界を巡っている若き旅人だ。
 しかし今の彼は、どこか遠い町を目指す訳でもなく、仰向けになって寝転ぶばかりだった。かといって昼寝をしているのでもない。頭の下で両手を組んで、目の前に広がる青空をぼうっと眺めているだけだ。
 時折、そよ風が青々とした草を優しく撫でた。長めの葉が風とともに踊り、クロリアの肌をくすぐる。淡い空色の髪が、さらりと頬にかかった。
「くーろりあ!」
「うわっ!」
 ぬっと目の前に現れた黒い影。突然こんなものが出てきて驚かない訳がない。だが反射的に身を起こしてしまったのは失敗だった。
 ゴン!
 鈍い音。直後、二人は放心してぱたりと倒れていた。一人はクロリアで、もう片方は彼の名を呼んだ者、翼竜のテテロ。つまり二人は、思いっきり顔面から衝突したという訳だ。両者はしばらく身動き一つしなかったが、同時に意識を取り戻したかと思うと、今度は激しい言い争いを始めた。
「いってえな、何すんだよ!」
「ソレ、コッチノ台詞! 俺ハくろりあヲ呼ンダダケダヨ!」
「わざわざあーやって呼ぶ奴がどこにいるんだ!」
「チョット顔ヲ覗キ込ンダダケジャンカ! ソッチガ勝手ニ起キ上ガルカライケナインダヨ、モウ!」
「俺のせいかよ! お前がおどかさなきゃこんなことには」
「アー、マダ頭ガガンガンスルゥ……」
「人の話聞けよ、おい!」
 こんな調子で不毛な口頭バトルが続いた。しかし流石に二人とも疲れ、溜息を同時に吐いたところで喧嘩は治まった。
 足下では清水が太陽の光を浴びて、きらきらと輝きながら静かに流れている。二人はその様子をそれとなく眺めた。視線はその方に向けたまま、ふとテテロが破顔する。
「デモ良カッタ。くろりあガイツモノくろりあニ戻ッテクレテ」
「何だよ、それ」
 ズキズキと痛む額を手で押さえながら、クロリアが投げやりに言った。
「あとるすデノコト以来サ、チョット元気ナカッタカラ」
「ああ、そのこと……」
 不意にクロリアが表情を曇らせた。それを見たテテロの脳裏に、一抹の不安がよぎる。もしや、あの一件がまだトラウマとして残っていたのだろうか……。
 テテロは不安げにクロリアの方を覗き見た。だがクロリアは彼の心配をよそに、柔らかな微笑をたたえていた。
「でもしばらく休んだら、気持ちの整理もついたよ。立ち止まってたら何も始まらない。俺たちはこれからも、今まで通り旅を続ける。それだけだ」
 救おうとした二つの命が同時に消えた。これまでの旅で幾度となく死というものを見てきたクロリアにも、やはりそのことは重くのしかかっていた。しかししばらく心身を休める時間が取れたおかげで、その重圧も幾分和らいだようだった。
 命あるものは、必ず死を迎える。それがどんなに理不尽な死であろうとも、その事実は受け入れる他にないのだ。悔いたり嘆いたりするばかりでは何も変わらない。犠牲を無にしないためにも、過ちが二度と繰り返されないように尽くしていく――。
 それが、今のクロリアに導き出せる答えだった。
「……ソッカ!」
 心の内を悟ったのか、テテロはにかっと無邪気に笑って言った。その満面の笑顔につられて、クロリアも優しく微笑む。今にも壊れてしまいそうな笑顔。普段はたくましい旅人である彼が時折見せる、もうひとつの顔だ。
「……訊かないのか?」
 再び流れた穏やかな沈黙を、クロリアが自ら遮った。唐突な質問の意味が分からず、テテロは短く聞き返す。あの真っ黒な服装をしてた奴のことだ、とクロリアが付け足した。テテロはそれを聞いてやっと思い出す。ヴァルクスの館で出くわしたあの少年のことだ、と。
 ――いや、正確に言うと、あれは偶然などではなかったようだ。漆黒の少年はクロリアのことを「自分が殺る相手だ」と言っていたし、クロリアはその少年を咄嗟に呼び止めようとした。結局そのときは機会を逃したが、そういった反応からして、恐らく二人は顔見知りなのだろう。詳しい事情こそ分からないが、どうやら二人の間柄は何やら訳ありのようだ。
 勿論テテロもその『何か』が知りたいはずだった。そう思ってクロリアは、あえて自分から話を切り出したのだろう。
「アア、くろりあ、アイツニ見覚エガアルミタイダッタヨネ。……確カニ知リタイヨ。昔、アイツト何ガアッタノカ」
 黙したまま次の言葉を待つクロリア。しかし次にテテロが言ったことに、彼はハッとさせられた。
「ダケドサ、ヤッパリ誰デモ、話シタクナイコトノ一ツヤ二ツアルダロ。ダカラマァ、無理強イハシナイカラサ! 話セルヨウニナッタラ話シテヨ」
 明るい笑顔で当たり前のように言うテテロ。クロリアも今は、その包み隠さない親切心に甘えることにした。そうか……と小さく呟いて、すっくと立ち上がる。そして晴れ晴れとした表情で言い放った。
「よし、そろそろ出発するか! 早く次の町で食糧でも調達しようぜ」
「ダネ!」
 そのときだ。
 ふと、二人の視界に人影が映った。小川の向こう岸で、かごを腕に下げた少女がしゃがみ込んで花を摘んでいる。こちらに背を向けているので顔は見えない。こんなひと気のないところで一体何をしているのだろう……。そう思った矢先だった。
 少女の背後の草むらが不気味に揺れた。風のせいではない。あの陰に何かいるのだ。目を凝らすクロリア。そこに隠れていたのは――。
「……三頭戌(ケルベロス)!」
 草の隙間から見えたのは、煌く眼光と鋭い牙だった。それが全部で三対。間違いない。
 三頭戌(ケルベロス)は肉食巨獣の中でも特に凶暴とされている種族だ。長く鋭利な牙と爪を使って獲物を捕らえ、三つの頭で競い合うようにその肉を貪る。彼ら自身は人里にはあまり出てこないのだが、彼らの住む森などに人間が入っていけば、命の保障はない。クロリアたちもしばしばそのような事故の噂を耳にするが、今目の前で起こっているのは、まさしくそれではないのか。
 生い茂る草にうまくその巨体を隠しながら、三頭戌(ケルベロス)は音も立てずじりじりと少女に迫っている。彼女は花を摘むのに夢中で、そのことに気付いていないようだ。咄嗟にクロリアの口から飛び出した大声が、静かな空気を切り裂いた。
「逃げろ!」
 少女がクロリアたちの方を振り向くのと、三頭戌(ケルベロス)が覆い被さるように彼女に襲いかかったのは同時だった。クロリアは瞬時にポーチからライトアローを抜き出し、瞬く間に光の弦と矢を召還する。目にも止まらぬ速さで矢を引き、勢いよく放った。瞬間、眩い光は三頭戌(ケルベロス)の首元を破った。
「グアオオオオ!」
 地面を震わせるような雄叫びが、平穏な草原に響き渡る。これまでになかった色彩、鮮やかな赤が空気を染めた。だがこれではまだ、頭をひとつ落としただけに過ぎない。
 クロリアは容赦なく、今度は同時に二本の矢を射ち込んだ。寸分の狂いもなく、矢は残る二つの頭に命中する。
 三頭戌(ケルベロス)は眉間から多量の血を吹き出しながら、ドオッとその場に倒れた。巨獣から流れ出る深紅の液体が、青々とした草とその下の地面へ染み込んでいく。
「ウワア、危機一髪ダッタネ……」
 テテロが安堵の溜息を吐いた。
 クロリアは川向こうの少女の方へと駆けていった。バシャバシャと水音を立てながら、浅い小川を渡る。
「危ないとこだったな。けがはないか?」
 少女を怖がらせないよう気を遣いながら、優しい声音で尋ねる。少女は今の出来事が理解できていない様子で、緋色に染まった三頭戌(ケルベロス)の死体を呆然と見つめていた。そしてふと思い出したように、その顔をクロリアに向ける。
「……はい。助けて下さってありがとうございます」
 振り向いた少女の顔に、クロリアは少なからず驚いた。
 背中まですうっと伸びた藍色の髪。肌は透き通るように白く、ミステリアスな漆黒の瞳がクロリアを見つめている。整った顔立ちをしていて、笑顔はさぞかし可愛らしいだろうと思われた。
 しかし今の彼女の顔には、三頭戌(ケルベロス)に襲われたことへの恐怖も、一命を取り留めての安心も見受けられない。感情というものが全く感じられないのだ。
 どこまでも無表情な彼女に、クロリアは何とも言えない複雑な心境になった。あの危険な状況下で、恐怖も感じなかったと言うのか? 相手は三頭戌(ケルベロス)、クロリアがもしこの場にいなかったら、間違いなく彼女は死んでいただろう。そんな体験をした少女が、こんなにも無表情でいられるものなのか? クロリアの中を様々な思いが駆け巡る。
 しかし今はそんなことを考えているときではない。自分にそう言い聞かせ、クロリアは話を続けた。
「君はこんなところで何を?」
「リデルの花を摘んでいたんです。この花びらを煎じるととても良いお薬になる、とご主人様が仰っておりましたので」
「ああ、そうか。これは……」
「りでるノ花。確カ、イロンナ病気ノ症状ヲ抑エル効果ガアルンジャナカッタ?」
 いつの間にかテテロも川を渡ってきていた。少女の手提げかごに入っている紫色の花を覗き込んで呟いた彼に、少女は静かに言う。
「お詳しいのですね」
「旅ヲシテルト、嫌デモ身ニ付クモンダヨ。ネ、くろりあ」
「お二方、旅をなさっているのですか。今後はどちらへ?」
「この先にあるっていう『学究の町ルロイド』ってとこに。何でも、人工生命体を研究してる学者がいるって噂を聞いてね」
 その話を聞いて、少女はまるで答えが用意されていたかのようにさらりと言った。
「ルロイドの町は、私のご主人様が住んでいらっしゃるところです。宜しければ案内致しましょうか。私もこれから行くところなので」
「ホント?」
「助かる。そうしてくれるかな?」
「はい」
 少女は頷くと、ゆっくりと立ち上がった。
「俺の名前はクロリア。こっちは相棒のテテロだ」
「私はリヴァリスフィア。リヴァと呼んで下さって構いません」
 リヴァリスフィアは会話の間もずっと、笑顔ひとつ見せなかった。どこまでも無に支配されたような表情だ。クロリアはやはりそのことを不審に思ったが、今はあまり考えすぎないように努めた。





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