善悪の境界線など
本当は誰も知らない――







第一話 物売りの集う町



 小高い山のふもとにある町。『物売りの集う町アトルス』として有名な、一大商業地域だ。その名の通り、町の中心を貫く大通りには多くの店舗がずらりと並んでいる。昼夜を問わず人が溢れる、活気に満ち満ちた町だ。この日もアトルスには膨大な数の人と物が集まり、よく賑わっていた。
「おじさん、固形燃料一箱」
「へい、二百七十クレスだよ。まいど!」
 客がごった返す大通りの一角に、一人の少年がいた。彼の名はクロリア。世界中をあちこち駆け回っている、若き旅人だ。右袖の破れたコートを羽織り、両手には白い手袋を嵌めている。指どおりの良さそうな空色の髪をした、感じの良い美少年だ。深く澄んだブルーの瞳が、時折日の光を受けて煌く。
 ちょうど、旅生活には欠かせない固形燃料を購入していたところだ。彼は銅貨と銀貨を数枚支払うと、受け取った包みを肩に乗せながら呼びかけた。
「さて、と。おーい、行くぞテテロ」
 声を聞きつけて振り向いたのは、まだ若い翼竜だった。クロリアのよき旅仲間である彼の名はテテロ。大きな六枚もの翼を持つ彼は、この人ごみの中では少し窮屈そうだ。肉食恐竜に似た長い脚、鋭い爪、そして紅に光る眼を持つ。額にはくさび形の傷があった。
 テテロはぱたぱたと音がしそうな足取りでクロリアに駆け寄り、並んで大通りを進んでいった。
 市場は笑顔とざわめきに包まれている。出店で安売りを叫ぶ竜人の若者、よく熟れた果物を指差して母親にねだる子供、人だかりの中心で華麗に舞う獣人の踊り子。のんびりと辺りを見回しながら、楽しそうにテテロが言った。
「賑ヤカダネー。久シブリダヨ、コンナ雰囲気!」
「ここでは竜ものびのびしていられるしな。『物売りの集う町アトルス』か。うん、なかなかいいところだ」
 竜が自由でいられる――それはこの世界では珍しいことだった。かつての戦争、即ちカノロス人竜大激戦という大規模な戦いの所為だ。この戦争で対立したのは、主に人と竜だった。そのため今でも多くの人は竜を、多くの竜は人を忌み嫌っている。しかしここは商業の町。そんな差別をいつまでも抱え込んでいたら、この町の暮らしは成り立たないのだろう。
「……そう言えばお前、さっきから何食ってんの?」
 クロリアがふと問いかける。いつからか、テテロはもごもごと口を動かしていた。クロリアがひょいと覗き込むと、手には何やら肉切れのような物が収まっている。
「ン。コレ?」
 視線に気付いて、テテロはその肉を差し出した。
「多頭蛇(ヒドラ)ノ薫製。サッキ肉屋ノオバサンニ、タダデ貰ッタノ! くろりあモイル?」
「や、遠慮しとく」
 頬を膨らませてニコニコしながら勧めるテテロに、クロリアは間髪入れず断った。
 竜の体質は、人とは全く異なる。例えば人が食べられない猛毒の食材でも、竜なら食べることができる。この多頭蛇(ヒドラ)もその一つだ。テテロがそれを知っていてわざとやったのか、本当の親切心から勧めたのかは、クロリアの知るところではないが。
「ア、ソウ? コンナニ美味シイノニ、モッタイナイ。ソレデくろりあ、他ニ買ウ物ハ?」
「え? ああ、えーと……」
 クロリアが言葉を続けようとした、その時だった。
「ど、泥棒ーっ!」
 賑やかな空気を切り裂く叫び声。クロリアとテテロが、声のした背後を振り返る。
 見てみると、黒いサングラスにニット帽という、いかにも不審な容貌の男が、こちらに向かって疾走していた。金貨がたっぷりと詰まっているだろう巾着を握り締めている。
「待て! 誰か、誰かそいつを捕まえてくれ!」
 被害者であろう太った商人が、通りを駆け抜ける男を指さして叫ぶ。
 そんな緊迫した状況の中、クロリアたちは実にのんきな会話を交わしていた。
「うわ、いかにもって感じの格好だな……。今時あんなベタな強盗がいるもんなのか」
「ドノ時代ニモアーイウ輩ハイルンダヨ、くろりあ。トコロデアイツ、何カコッチニ来テルンダケド。ドウスル?」
 包み隠そうともせずに、周りの人々から白い目で見られるような態度をとるクロリアとテテロ。しかしただ傍観して終わるような二人ではない。肩に載せていた荷物を降ろしつつ、クロリアは事もなげに言った。
「ちょっとここらで肩慣らしするか?」
「ア、ジャア俺トップバッターデ!」
 テテロは屈託のない笑顔でそう言うと、食べかけの肉片を口に放り込んだ。その間も男はどんどん接近してきている。目の前に立ちはだかるテテロを見受けた男は、ポケットから鋭いナイフを取り出した。
「どけぇぇ!」
 男はしっかりとナイフを握り締めた手を、前に突き出して脅した。しかしテテロはまるで動じない。それどころか「ヨッシャ、久々ニ体動カセルゼ!」などと、緊張感の欠片もない台詞を口にする始末だった。
 それが余計に神経を逆撫でしたらしい。犯人は物凄い形相で、がむしゃらにナイフを振り上げた。もう男はテテロの目の前にまで迫っている。このままでは、鋭い刃先がテテロの体を貫くのは必至だ。それなのに、当の本人は微動だにせず、余裕の笑みさえ浮かべていた。
「おらああっ!」
 男は目の前の小生意気な竜に向かって、満身の力を込めて刃を振り下ろした。同時にテテロが右手を前に突き出す。途端、眩い光がその手から飛び散った。
 ガギィィィン!
 金属同士の激しくぶつかる音が、大通り全体に響き渡った。クロリアを除く全ての人々が、反射的に仰け反る。次の瞬間、彼らは驚くべき光景を目の当たりにした。
「悪イナ、オッサン」
 テテロが不敵な笑みを浮かべて言う。盗人の男が息を呑んだ。
 前に突き出されたテテロの手は、どこからともなく変形して分厚い壁となっていた。男が突き立てたナイフはそれにぶつかり、あっけなく砕けている。対するテテロの壁、もとい手は全くの無傷だった。
「俺ハ自分ノ思イ通リニ、体ヲ変形デキルノサ。アンタミタイナ弱ッチイ奴ガ、俺ト闘オウナンテ、百万……イヤ、千万年早イヨ!」
 テテロが無邪気な可愛らしい声で、それに似合わない強気なことを言ってのける。言い終わるか終わらないうちに、壁の辺りに空気が凝縮し、先程の光が飛び散った。瞬間、壁はなくなり、何事もなかったかのように元の手に戻っていた。
「ば、馬鹿な。変身能力だと……? まさかてめえ、未知能力竜(アンノウンドラゴン)か!」
 属性や血統とは無関係に、突然変異的に表れる特異能力を持った竜。それが未知能力竜(アンノウンドラゴン)だ。その力は個々で全く異なり、予知、超視力、不老など、予想もつかない謎に満ちたものばかりだ。だが彼らが生じる確率は極めて低く、それ故貴重な種族でもある。
「くそっ!」
 しばし呆然としていた男が我に返った。近くにいた若い女性を強引に引き寄せ、どこからか一丁の拳銃を取り出す。慣れない手つきでそのセーフティを外し、彼女の頭に突きつけた。
「キャ……!」
 人質にされた金髪の女性は気が気でなく、恐怖に顔を歪めた。周りから連鎖的にどよめきが巻き起こる。
「それ以上動くな! この女の頭が飛ぶぜ。 車を用意しろ、今すぐだ!」
 犯人は額に冷や汗をかきつつも、勝ち誇ったような声で怒鳴り散らした。それが更に人々の恐怖をあおり、辺りは簡単にパニックに陥ってしまった。騒然としたその中で、テテロが呆れ返った口調で言う。
「タカガ金貨一袋ノタメニソコマデヤルカ? ……くろりあ」
 おもむろに名を呼ばれて、クロリアはふうっと溜息をついた。
「わかったよ」
 言うなり、彼は何の躊躇いもなく人質と男の前に出向いた。男は突然現れたクロリアの方へ視線をやり、どすの効いた声で言う。
「……何だてめえは。文句あんのか、おう!」
「大ありだ。あんた、往生際が悪すぎだぜ。大人しくその人を放せよ」
「うっせえ! 俺は本気だ。要求を呑まないんなら、本当にこいつを……!」
 エスカレートしていく二人の会話を、人々ははらはらしながら見守った。今にも男が発砲しそうな緊迫した状況の中、クロリアは至って冷静に言う。
「そう。じゃ、こうするしかないな」
 クロリアは左腰に吊ったポーチから、ゆっくりと棒のような物を取り出した。美麗な金の装飾が施された、剣の柄のような物だ。人々は、何をするつもりだ、と言わんばかりにそれを見つめた。クロリアが左手に握り締めたそれが、わずかに光を帯びた刹那。
 ヴォウン!
 その場に居合わせた者、全てが目を見張った。無理もない。突然、柄の両端から二枚の長い刃が現れたのだから。これには男も度肝を抜かれ、滑らかに弧を描いた異形の剣を凝視している。
「て、てめえ……!」
「驚いてる暇があったら、少しでも逃げることを考えた方が賢明だぜ」
 クロリアはごく自然な動作で、右手を対の刃にかざす。滑るような音を伴って、眩い光が刃の両端を繋ぎ、同時に鋭い矢をも作り出した。クロリアはできあがった光の矢をつがえ、キリキリと弦を引く。
「ま、そんなことしても無駄だけど」
 言うと同時に、クロリアの指が離れた。ヒュッと風を切る音が耳に届くよりも早く、男の右肩から鮮血が吹き出していた。
「ぬおわあああっ!」
 訳のわからない悲鳴をあげて、男は無様に倒れこんだ。隙を見て人質の女性が逃げ出す。
 それを合図にしたかのように、民衆が次々に男を取り押さえた。……もとい、男にのしかかった。どすどすと犯人の上に人が積み重なっていく様子を、呆気にとられて眺めるクロリアとテテロ。凄まじい取り押さえ方をされて、情けない悲鳴をあげる男に、一瞬同情すらしそうになる。
 その時クロリアの目の前で、さらりとした金髪が揺れた。人質になっていた女性が、彼の前に立っていたのだ。クロリアはふっと柔らかな笑みを浮かべて言った。
「けがはありませんでしたか? すみません、突然矢を放ったりして」
「いえ、おかげさまで一命を取り留めました。助けて下さってありがとう。私の名前はフィレーネ。よろしくね、旅人さん」
「こちらこそ。クロリアといいます」
「ア、俺テテロ!」
 礼儀正しいクロリアと人懐こいテテロ。そのギャップに、フィレーネは思わず笑みを零した。
「私、この町の外れに住んでるの。よかったらお茶でも飲んでいかない? 旅の疲れもたまっているでしょう」
「ウワア、ヤッター! 行コウヨくろりあ!」
 誘いの言葉を受けて、テテロが舞い上がった。半ば強引に、クロリアの手をぐいと引っ張る。
「え、でもいきなりお世話になるなんて」
「イイジャン、ふぃれーねサンガ誘ッテクレテルンダシ! ネエ、オ願イー!」
 まるでおもちゃでもねだるように、テテロはクロリアの周りをぐるぐる回ったり手を引いたりしている。おそらく彼の狙いはお茶請けの菓子なのだろう……と、大体の見当がつくクロリアだったが、ここで無理に断る必要もないと思った。
「それではお言葉に甘えて」
「イエーイ!」
 フィレーネは笑った。しかしその笑顔に、わずかだが黒い影が落ちていたことは、テテロはもちろん、クロリアも気付かなかった。





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